白痴3
きぃ、きぃ、という騒々しい鳴き声が遠くから響き、ラビンスキーは目を覚ました。ムスコールブルクと比較すれば圧倒的に暖かく、睡眠自体には快適なのだが、外の騒々しさは半端ではない。特に夜中にはよくわからない鳥が飛びまわっており、安眠に支障をきたす騒々しさなのだ。それでも連日の行軍に加えて緊張感のある交渉を続けたことから、いつの間にか眠ってしまっていた。同じ部屋にいるはずのユウキ、ルシウス、モイラは帰ってきていない。死の危険は免れたそうだが、未だ昏睡状態であるユウキを寝ずに介抱しているのだろう。
(明日の会議に備えてしっかりと休まないと……)
ラビンスキーは酒の力を借りようとロビーに向かう。度の強くない、二日酔いもしない程度の酒を探し、結局は特産のエールを微量汲んで席に着いた。ロビーは閑散としているが、兵士達の中には部屋から漏れるほどの大声で勝利を喜ぶ者達もあり、帰郷記念にと部屋で酒盛りをしている者もいた。そうした騒々しさを微かに感じながら、ちびちびとエールを仰ぐ。豪快な笑い声も遠くに響く程度で、音と言えばカンテラの中で火が弾ける音程度だ。
そうしてぼうっと酒を飲んでいると、桶に溜まった水がちゃぽんと音を立てる。不思議に思って振り返ったラビンスキーは、ローブに身を包んだアツシが水を汲んでいた。
「アツシ君か……」
「これは、これは。何たる僥倖。ラビンスキー様も安眠を妨げられた類ですかね?」
アツシは水差しを持って席に着く。わざとらしくラビンスキーと一席距離を置いている。ラビンスキーがエールに目を向けながら黙っていると、アツシは十字を切った後で水差しから丁寧に水を飲み、再び胸元で十字を切った。
「此度の戦も信仰の賜物……ラビンスキー様は改宗なされないのですか?」
聖職者特有の余裕のある笑みで訊ねる。ラビンスキーはエールの中の自分の顔が酷いものだという事に気付き、手で顔を拭う。そうするとカウンターの向こうにあるグラスの光沢が潤んで歪み、再び拭うとより鮮明になった。
「私の神は今のところ一人だよ……。正直言うと、未だにパイモン様の事がトラウマになっていてね。」
「左様でございますか。誠に残念では御座いますが、これも神の御意志、致し方ない事でしょう」
銀の水差しは結露して水滴が浮かび、歪んだラビンスキーとアツシを映す。暫く沈黙が続き、エールを飲み干したラビンスキーが小さく息を吐く。二階からドンと床が鳴ると、アツシは不愉快そうに天井を見上げた。
「……アツシ君は、どうして人を傷付く姿が好きなの?」
アツシの視線がラビンスキーに戻る。不敵に口角を上げる彼の姿は、最早ラビンスキーの知るアリワラアツシではない。
「誠に、誠に僭越ながら、申し上げますと、余りにも愚問でございます。ラビンスキー様、私は特段人を傷付く姿に興奮を覚えることに違和感を覚えたことは御座いません。人間の飽くなき破壊欲動、これは万世共通の真理に御座いまして、私の異常性を示すものでは御座いますまい。むしろ傲岸なるは人を理性と対話によって御しうる存在であると断ずる多くの理性的な人間に御座いましょう。然らば、ラビンスキー様のご質問は些か不可解な質問と言えます。人間は万世に於いて破壊欲動を持つのですから」
アツシはさも当然の事実の様に告げる。むしろラビンスキーを憐れむように、諭すように語っている。ラビンスキーは思わず痛い程こぶしを握った。酒の酔いが回り始めたのか、感情の起伏をうまく抑えることが出来ない。怒りに任せて机をグラスを叩きつけそうなほど、全身が震える。彼は「どうして」と呟きそうになるのを必死に抑える。眼前の少年は最早理性的な存在とは言えず、対話が通用しない類の存在であると頭では理解できているからだ。
「私は、人の善意を信じたい。君にだって、もっと多くの人を幸せにできるはずだ」
そうラビンスキーが告げると、アツシは両手で頬を持ち上げ、耳をつんざくほどの甲高い歓声を上げた。酒も飲んでいないにもかかわらず、蕩け切った顔は赤みがかっていた。
「何という清浄なる精神!嗚呼、主よ!重ねて感謝申し上げます!この男、ラビンスキーをこの世に創造したもうた御意志は余りにも尊い!この僥倖、奇跡というより他には非ず!嗚呼、実に、実にそそられる!」
「ふざけるな!」
ラビンスキーが叫ぶ。まるで自分に訴えるようでもあった。不甲斐なさからか、自然と涙が零れる。それでもできる限り強い語調で、ドスの効いた声で。アツシは天を仰いだまま硬直し、蕩けた顔をゆっくりとラビンスキーに向けた。真っ赤に酔いしれた耳、見開かれた不気味な丸い目が益々怒りを煽る。
「君には、君には人の心がないのか!ユウキや多くの兵士達がどれ程苦しんで……」
「笑止。愚鈍、余りにも愚直!貴方はそれだけ長く生きていながら、世の理をまるで理解しておられない!世迷言は酔ってから言いなさい!彼らの意志を真に酌むのであれば、そのような発言は憚られるはず!誠に、誠に不遜!彼らを件の戦いの犠牲者等というのであれば、貴方は救済の何たるかを一切知りえないでしょう!」
「君は、本当にそれが救いだと!」
「ラビンスキー様。どうかご理解頂きたいことが御座います。私は快楽の奴隷、それは認めましょう。然し、貴方の発言は彼らの決意を、覚悟を踏みにじるものであることを知りなさい!覚悟を持って死地に赴く戦士たちの無垢の祈りを、世界を祖国を守る誇りを踏みにじることを、知るべきです」
アツシが叱責する表情は、いつもの狂気に満ちた笑みではなく、より人間らしいものだった。怒りに満ち、眉間に皺をよせ、然し完全に正すことは難しいという悲哀に満ちた何とも言えない表情だ。ラビンスキーはつい黙ってしまう。水差しの水が水紋を作る程揺らぎ、表面の大粒になった結露が流れて机に落ちる。アツシはそのまま大股で階段を上っていく。ラビンスキーは取り残された水差しと共に、やり場のない苦しみに頭を抱えた。




