蜘蛛の行く末1
深夜、くすんだ死の臭いに町は変わらず静まり返っていたが、エストーラの城は忙しなく動いていた。プロアニアの処分について協議するため、皇帝の魔術を用いて、マックス王子、ロイ王、未だ傷が完全に癒えてはいないロットバルト、そして付き人としてラビンスキーの四人が王の書斎に集まっていた。帝国の準備室は会議室に比べれば明るく洗練されていたが、書籍が山と積まれた埃っぽい室内は、やはり綺麗とは言い難かった。極限まで水で薄めたワインと豆料理で手厚い待遇を受けながら、三人はロイ王の入室を待つ。やはりペアリスまで繋ぐとなると限度があるのか、かなり画質が荒い。砂嵐という表現が最も適切なのだろうが、ざぁざぁと雑音が混ざり合って非常に聞き取りづらい。いくら星の秘跡を初歩的な魔術と言ってのけるほどの優れた魔術師がいたとしても、限界というものがあるのだろう。
ラビンスキーは本国への通達もかねて件のメモとペンを構えながら、「執務中」だというロイ王を待つ。皇帝が咳払いをすると、映像が相当荒れる。暫くすると、帳簿と珠算を抱えた従者が現れ、読書台をセットし始めた。やがて片腕を隠した貧相な男が現れ、従者の手助けを貰いながら席に着いた。その男は真っ先に帳簿と資料を読書台に立てるように指示を出し、もう一人の従者から膝掛けを受け取る。煌びやかで柔らかい羊毛に全身を包まれたその男が、桁違いの金持ちであることは一目でわかる。布越しに痙攣する右腕、すました表情が異様な存在感を醸し出す。
「……まぁ、そんな事だろうとは思っていましたよ、えぇ。ムスコール大公がこちらに近づくなど、およそ考えられない」
たった一節語っただけで、ラビンスキーの背筋を汗が伝う。ニヒルで厭世的な印象を与える細めの目に、死神が皮を纏ったようなガリガリのロイ王に、深淵に見定められたような錯覚を覚える。速記官による素早い筆記も、ラビンスキーを焦らせた。ロットバルトが怖気づく様子もなく返答する。
「プロアニアの件は緊急事態でしたので、どうかご了承ください。改めて、ご助力感謝いたします」
「それで、何をお望みですか?」
王子が単刀直入に訊ねる。ロイ王の獲物を狙うような微笑。王子ブリュージュの結婚を諦めろ、そう脅迫してくるであろうことを身構える。ロイ王は左の手を肩の高さまで徐に持ち上げる。帳簿を捲る音が聞こえた。
「ムスコールブルクでは教会とひと悶着あったようですな、ロットバルト卿」
突然の質問にロットバルトは面食らう。ロットバルトは驚きを隠せないまま、柄を構いながら答える。
「えぇ、確かに。それが何か?」
「そしてエストーラは戴冠式の件で教皇ともめている、と。さらに、歴代皇帝の教皇領侵犯問題、叙任権闘争、教会との距離が近いがゆえに、争いは絶えない」
「何が言いたいのですか?」
痺れを切らせた皇帝が尋ねる。ラビンスキーには、彼らの言がすべて重要なことのように思え、筆を持ちながら硬直する。国家レベルの話、まして大国の首脳が集う会議ともなれば、彼の場所とは次元の違う駆け引きが渦巻いているのだろう。彼は、息もつけないほどに緊張していた。
ロイ王は持ち上げた左手で親指と一指し指を擦り合わせ、視線を目まぐるしく動かす。ふざけているようにしか見えないが、それに苦言を呈するものはいなかった。
「やはり都合がよい……一つ頼まれて頂きたいのだがね。我がカペルに正当な教皇を立てようと思う」
「!?」
一同が驚きの余り前のめりになる。ロイ王は奇妙に指を動かしながら、薄気味の悪い微笑を浮かべる。書斎の静謐さ、薄暗さが彼の姿を強調する。帳簿を捲る音と共に、視線を読書台に移した。
「教皇庁の収入の大半は寄進……即ち教会への寄付と税収だ。彼らは最早俗物と変わらず、ならばこそ、我々が教皇を立てても問題はないでしょう」
「ちょっと待ってください!まさか聖遺物をかき集めていたのは!」
ロイ王は不敵に笑う。ロットバルトは剣の柄を摩りながら、吟味する。自ら教皇を擁立すること、それは即ち国際秩序たる教会から神性を奪う事であり、その莫大な財力を自身が集約することである。向こう千年の利益は絶対になくなることはない。しかし、破門の恐怖に打ち震えながら行動を起こすことは、無謀というよりほかない。ペアリス一国では完全なる対峙は不可能である事は言うまでもない。理由は単純明快で、染料は教皇庁から、武具はプロアニアから、毛皮はムスコールブルクからカペラに集められるからだ。
然し実質的に傀儡状態にできるプロアニアを含め、教会に不満を抱くムスコール大公国、エストーラを味方に付ければ、殆どの主要な国家の信用を得たことになる。仮に教会が破門令を出しても花の都ペアリスを筆頭に、莫大な交易と資源を有するカペルを含めた諸大国がそっぽを向くことになれば、不安定な収入に喘ぐことになる。そうすると、迂闊な動きを見せることも難しい。教会はやはり危機にさらされることになる。
即ち、教会とは対立せざるを得ないが、その権威を失墜させるに相応しい神性を持った聖遺物を集め、虎視眈々と時を狙っていたとして、破門の一件を解決する手段はなかった。そうならば、これだけ大胆な荒業は、「今しか」ない。
「何、君たちにはどちらが教会として相応しいかを決めてもらうだけでいい。より賜るというのが如何かな?そうすればブリュージュなど差し上げても構わないよ。行商が通れば私達の腹が肥えるのだからね!……どうかな?」
ロイ王はわざとらしく尋ねる。技術的な進歩ならばプロアニアを通じて勝ることが出来ようが、純粋な物量ではペアリスが圧倒的に優れている。ロットバルトは深呼吸をし、ロイ王に訊ねた。
「それで……よろしいのですか?」
「勿論。我々はこれより、真の信仰を手に入れる」
ロイ王は確固たる覚悟を以て頷いた。マックス王子がロットバルトに目配せする。二人は頷き、皇帝は大きな溜息を吐いた。
「わかりました。余は君たちの対立教皇の擁立を黙認しよう。それでいいのだね?」
「ご協力感謝いたします皇帝陛下。それでは、詳細は追ってご連絡させていただくという事で……」
ロイ王は帳簿をたたんで颯爽と立ち去る。その後姿が消えると、書斎に集まった一同が大きなため息を吐いて肩の力を抜いた。夜は一層更ける。ラビンスキーは、静まり返った町の至る所に蜘蛛が這いまわる姿を想像し、自然と鳥肌が立った。




