老いた狼
死屍累々を積み上げたエストーラの都へ帰還した兵士達は、自分たちの命が残っているという事実にただ驚き、抱き合って神に感謝した。一方で彼らの危機を何度も救った勇気ある少年は未だ目を覚まさず、膝下がごっそりと引き千切られていた。アジ・ダハーカが消滅したことで、犠牲者たちは二度と毒沼から戻ることはなく、プロアニア・エストーラ間の国境は可視化された不和の様に残っている。ラビンスキーは帰国して早々プロアニアの外務官とエストーラの外務官を集めて、ペアリスの大使が来るまでに今後の国際関係について相談を進めていた。
エストーラの城内にある会議室は薄暗く、苔生した壁で囲まれた埃っぽい部屋だった。部屋には円形の世界地図が飾られ、片隅の書棚には各国を象徴する図書がずらりと並んでいる。皇帝の趣味なのか、天井には六芒星の法陣がいくつか描かれており、それはもう不気味だった。
エストーラの老獪な外務官はもっとも下座に座り、ラビンスキーは上座に座った。背中を丸めて入室してきた若いプロアニア外務官は、出廷を命じられた罪人のようであり、エストーラの外務官の差すような目線にたじろいでしまっていた。ラビンスキーが言える立場ではなかったが、交渉相手に弱みを見せるのは、外交官としては好ましくない。それでも、真っ先に言葉を選びながら切り出した点は、ラビンスキーにも好印象に映った。
「まさか王がこのような惨禍を招くとは……。国民に罪は御座いませんので、ご容赦頂きたい……」
憔悴しきったプロアニアの若い外務官に対し、エストーラの外務官はわざと圧力をかける。亀の甲より年の劫とはよく言ったもので、さり気なく腕を組む姿ですら、恐ろしく見える。ラビンスキーはばつが悪くなり、咄嗟のフォローを入れる。
「わかっていますよ、我々としても平和的な繁栄を望んでいます。ですから、今日はこれからの話をしましょう」
老いた外務官は眉を上げ、嘲笑をしながら前のめりになる。若い外務官は座ったまま後ずさりする。老いた外務官は机に肘を付け、視線を合わせると、暫くするとドスの効いた低い声で言った。
「ラビンスキー様はお優しいが、私たちの被害は甚大だ。エストーラとしては厳格な処分を望んでいる」
「……賠償金を出せるほど私の国は富んでいません……ご容赦を」
エストーラ側の意向は大体理解できる。プロアニアという国は、乏しい資源と魔術師を技術力で補ってきた生粋のたたき上げだ。やせた土地が多く、主たる収益は中継地としての通行税だ。エストーラがプロアニアに望むことは、大きなものは2つが予想出来ていた。
「賠償金が支払えないというのならば、皇帝の領土になるなりしなさい。何、私達は君の国を滅ぼそうと考えているわけではないよラビンスキー様もそうでしょう?」
「えぇ。王の跡継ぎはお見えでないと聞きますし、それも一つの手段かもしれませんね」
プロアニアという国は開拓民の国であり、比較的新しい。この老獪な外務官は圧を掛けることで同国を交通の要衝として扱い、ブリュージュと本国を繋ごうとしている。今回の被害が想像以上であったことから、さらにもう一つ欲しいと考えるだろう。
「エストーラに王の座を譲りなさい。エルブレヒト帝に限らず、マックス王子でもよろしい。貴方の国にはそれぐらいのものしかないでしょう」
「……お待ちください。どうかお願いします。祖国を壊さないでいただきたい」
プロアニアの外務官は頭を地面にこすりつける。必死に国を守ろうとするその姿に、ラビンスキーは堪えられなくなる。畳みかける老人を優しく遮り、地面に跪く外務官の肩を叩いた。顔を上げた彼にラビンスキーが微笑むと、潤んだ瞳から涙が伝う。エストーラの思惑は、何もプロアニアを破壊することだけで成り立つものではない。
「プロアニアには素晴らしい技術がある。銑鉄を作り、炭素を除いて鋼鉄に加工し、巨大な砲弾を作る。誠に素晴らしい技術です。ムスコール大公国としては、是非ともその技術が頂きたい。賠償はそれからでも構わないでしょう。そこで、ご提案があります」
背後に訝しむ視線を感じながら、ラビンスキーは跪く若者に手を差し出す。若者は殆ど反射的に握り返される。
「ムスコールブルクとの共同研究をしてみる気はありませんか?我々は肥料の研究を進めたいと考えています。まずは、そうですね。技師を互いに交換し、互いの優れた文化を共有するのです。賠償金は……その後に行う事になる研究プロジェクトの一部をプロアニアが請け負ってくださればいいでしょう」
若い外務官の顔が明るくなる。エストーラの外務官はわざとらしく不服そうな顔を見せる。仄暗い部屋に雫が溢れる。責任を押し付けられた男は思わぬ形で差し出された救いの手を強く握った。
プロアニアの文化はまだ洗練されていないが、生き残りをかけた技術開発だけは異様なスピードで発達した。それは多くの地から逃れた技術者を受け容れ、数十年にもわたって産業振興に全てをかけた賢王の努力の賜物だった。その誇りをこの外務官は忘れず、また苦渋を舐める祖国の為に敵地に赴いた。彼は優秀ではないが、ラビンスキーにとっては賞賛するべき存在だった。
しかし、それでも。ムスコール大公国は彼らが数十年かけた道を数週間で追い越す事になるだろう。彼らの血の滲むような努力を踏み倒し、技術的優位を獲得する。それがラビンスキーの思惑だった。
そして、もう一匹の狼が、羊毛を剥ぎ取るべく動き出した。
「では、我々も恩恵に預からせて頂こう。プロアニアの高射砲、機関銃といった兵器に関する資料は我々が頂く。そして、ブリュージュの王妃とマックス王子との婚姻を推薦して頂こう。あとは、そうだね。銀山でも頂くとしようかな……。我々としては、これ以上ない程の譲歩だがね」
「銀山は……勘弁して頂きたいのですが……」
「飲んでくだされば緩衝国の分割案についても、従来通り進めようと考えていたのですが、ねぇ、ラビンスキー様」
老獪な外務官は微笑む。深い彫りに光が当たり、益々恐ろしいものに映った。エストーラも魔術不能の多い国、物的な富は余す事なく手に入れたいのだろう。若い外務官は何かを言い返そうと口を開くが、エストーラの外務官はリズミカルに机を叩いて威嚇する。狼狽する若い外務官を追い詰めるように、机を叩く音は大きくなる。
「……祖国に持ち帰ります。勉強させて頂きたい」
若い外務官は目をそらす。エストーラの外務官はやや不満そうに体を起こした。暫く沈黙した後、彼はラビンスキーに視線を送る。ラビンスキーはあえて顔を向けないで、黙って頷いた。老いた外務官は鼻から息を吐く。
「無論、重要な事項ですからね。良い返事を期待しているよ」
「ご配慮、痛み入ります」
若い外務官は深く頭を下げた。ラビンスキーが一つの区切りと見て「さて、そろそろ」と立ち上がる。ムスコール大公国にとって、ペアリスの件と比べれば、プロアニアの件はさほど重要ではない為だ。それを察した老いた外務官はラビンスキーに合わせて立ち、それに合わせて若い外務官も立った。彼の背中は何か重荷を背負わされたように、酷く曲がってしまっていた。




