初勤務終了
「かんぱーい!」
ルカの歓声とともに一斉にぶつけられる木製のジョッキは、今宵の主役の上がらない腕に合わせて低く掲げられた。ローテンアルバイテと比べてやや質素な、ストラドムスのすぐ近くにある酒場は質の低い木製の机と、ガタガタと揺れる椅子の音で溢れかえっていた。
乾杯の音頭と同時に四人はジョッキに口を付ける。のどに流し込まれる懐かしい強烈な刺激に、ラビンスキーの頬はみるみる赤くなっていった。強烈なアルコールの香りとライ麦の香りが鼻を突き抜け、喉を焼く。寒冷地特有のアルコール度数の高いこの酒は、所謂ウォッカと同様の蒸留酒で、豪快に飲むにはかなり刺激の強いものだった。アレクセイとハンスはそれぞれのどを潤す程度の酒を飲み、一息つく。豪快に喉を鳴らして見せるルカは、一気にジョッキの半分を流し込む。しばらく言葉を溜めていたルカが気味のよいため息を吐いた。
「あ~生き返るわ~」
ラビンスキーもかなり大量の酒を流し込んだものの、ルカのそれは目を見張るものだった。周囲のケチそうな男たちも負けじと酒を流し込む。ある種下品な酒場特有の盛り上がりは、ラビンスキーの心を何となく高揚させた。
「ラビンスキーさん、初日の仕事はどうでした?」
ハンスは穏やかな笑顔で訊ねる。言葉の端々に優しさが滲み出ていたが、周囲と異なるイントネーションをしている。ラビンスキーはすでに赤くなった頬を思いっきり持ち上げて歯を見せた。
「四十肩の身にはなかなか厳しい仕事ですねぇ。とはいえ、目に見えて綺麗になるのはやはり嬉しい」
「そうですね。私も若い頃は日々腰を痛めていましたよ、はっはっは」
ハンスはそういってもう一度酒に手を付ける。アレクセイは壁にかけられている木製のメニュー表を眺めながら、時折感嘆符のような言葉ではない声を出している。ルカはひたすら酒を飲んでは店員を呼び、嬉しそうにジョッキを掲げて見せる。店員の中で一番年齢の高い壮年の女性の腹は、はルカの太った腹といい勝負だ。ルカは豪快に笑ってラビンスキーに黄色い歯を見せた。
「おうおう、結構飲んでんじゃないか?今日の主役はあんただ、あんたの好きなもん頼め!」
ルカが強く背中を押すので、ラビンスキーの酒はジョッキのすれすれまで波打っている。アレクセイは少し心配そうにラビンスキーを見る。ラビンスキーはルカに勢いよく背中を押されながらも、ジョッキの中身を何とか零さないで口に運ぶ。
「いやぁ、しかし、アレクセイはラビンスキーさんと仕事してどうよ?結構楽しかったんじゃねーの?」
注文を取りに来た店員につまみのチーズを頼んでいたアレクセイは、ルカの黄ばんだ歯に初めて目を向けた。
「ラビンスキーさんは、中々お仕事が早くて、細かいものも見つけるっていうのが素直にすごいと思いました。ただ、火ばさみをカチカチするのはなかなか耳に残るので……」
「あぁ、ごめんなさい。悪い癖です」
ラビンスキーは大仰に頭を下げた。店員が何事かと軽く視線を向けるも、穏やかな雰囲気を感じ取り、ルカの前に酒を置いて自分の持ち場へ戻っていく。
「まぁ、あれだな!大体うまくいってるってことでいいな!」
ルカが豪快に笑う。その声量と言えば、カチャカチャと音を立てて皿を運ぶ新人らしき店員がびくりと身をすくませるほどだった。
「ちょっと、ルカさん飛ばしすぎですよ」
アレクセイがあきれ顔で言うと、ルカは上機嫌なままで耳に手を当てた。
「えぇ?なんだって?」
「はは、駄目だなこりゃ」
ハンスが苦笑する。ラビンスキーもそれに合わせて微笑んだ。
思えば、どれほど長い間こんな騒々しさに身を置いてこなかっただろう……。ラビンスキーはよく炙られた艶やかな肉料理を齧りながら、そんなことを思っていた。異世界に行く以前から、妻には逃げられ、反抗期の娘にはひどく避けられて、散々頭を下げて仕事から帰っても、安息とは程遠い生活を送ってきた。異世界に来てからも、ひどい悪臭や洗礼を受けてからは、何をするにも神経を尖らせてきた。彼にとって身に余るほどの喧騒は、若く情熱的だったころの興奮を、年甲斐もなく感じさせた。
ラビンスキーはポケットの中のなけなしの銅貨を気にしながら、ずんずんと運ばれてくる料理の為に席をずらす。机の上のフィンガーボールは机の隅へと追いやられていく。
ラビンスキーが長く微睡みの淵で思索に耽っていると、アレクセイの頼んだチーズが運ばれてきた。細くスライスされた上質なチーズは、生前みた刺身のようにきれいに盛りつけられ、焼き鮭の白い瞳や豊満な羊肉が所狭しと並んでいる隅に置かれた。アレクセイは嬉しそうに店員に礼を言って、早速チーズに手を伸ばす。ハンスはのほほんとしながら水を啜り、ルカは焼き鮭に齧り付く。
「うん、美味い」
アレクセイはチーズをのそのそと咀嚼しながら呟く。どれ、ラビンスキーは体を伸ばしてチーズを取って食べた。濃厚な風味が口に広がり、チーズ特有の如何とも言えない匂いがほんのりと漂ってくる。凝縮された濃いチーズは、うまいことには違いないがラビンスキーには少々重かった。
アレクセイは黙ってチーズと酒を交互に口に運び続ける。心なしかそのペースは先ほどのそれより早いようだ。
「そうだ、ラビンスキーさん。ルシウス卿とお知り合いだそうで」
「はい。ビフロンス君のご紹介で、魔法の勉強をさせていただいています」
ラビンスキーが答えると、ハンスは咀嚼するように口を動かしながら顎をさする。穏やかな表情で目を細めているが、どこか緊張を誘う様は、採用面接を思わせる。ラビンスキーは姿勢を正した。
「……ルシウス卿からロットバルト卿……エリザベータ様……予算……。うん」
ハンスは一人頷くと、かしこまった表情でラビンスキーを見る。アレクセイとルカはすっかり酒に飲まれていて、強さや酔い方こそ違えど仲良さげに話をしている。アレクセイは意味もなく泣きながら鼻を啜り、ルカは笑いながらアレクセイを茶化している。
「明日はルシウス卿にご挨拶をしてきてくれますかね?本人は隠されていますが、血筋をたどれば影響力がある方です。うまくいけばそれだけでも都市衛生課にいい影響を与えてくれるかもしれません」
「はい。彼には今後もお世話になるので、ちょうどよかったです」
「そう言っていただけると有り難い。我々としては是非ともパイプが欲しいところなんですが、その、ルシウス卿は中々癖も強いので」
ハンスが非常に言いづらそうに言葉を詰まらせる。ラビンスキーも心当たりがあるので、苦笑しながら頷く。ハンスはちょっときまりが悪そうに水を啜った。
「わかりました。何とかうまくして見せます」
「こちらこそ、お願いします。あぁ、そうだ。今日はこっちで持ちますので、ラビンスキーさんもどうかご遠慮なくつまみでも頼んでくださいね」
ハンスは微笑む。ラビンスキーは恥ずかしそうに頭をかく。
「恐縮です……」
「おぉ、ハンスさんおごってくれるんすかぁ?いやぁ、悪いねぇ」
ルカが突然横槍を入れる。ラビンスキーの肩に手を置いてフラフラとしながらも、ジョッキだけは手放そうとしなかった。
「割り勘、割り勘!割り勘がいいです!ルカさん」
机に突っ伏して呂律がうまく回っていないアレクセイが右手を高く上げて叫ぶ。その目は半分閉じている。ルカはアレクセイのでこを優しく小突く。
「若いんだから便乗しとけって!」
大きな声に、フィンガーボールの中の水が振動する。真っ赤な顔のアレクセイは、右手をふらふらと下ろしながらフィンガーボールを肘で机の中心に動かす。
「うぅ~、便乗、便乗」
「じゃ、ルカさんと私で割り勘てことで」
ハンスは目を細めてルカを見る。ジョッキの蒸留酒が威勢よく波打つ。
「ヴェェ!?なんでそうなるんですかぁ!?」
ルカは悲痛な声を上げる。もっとも、その顔はまんざらでもなさそうだった。
「ごっちそうさみゃでふ、うっぷ」
アレクセイはほとんど顔を上げないで呟く。そんな様子でも、チーズに手を伸ばしていた。
ラビンスキーは思わず顔がほころび、ジョッキの向こうに映る自分の顔を眺めた。
(明日も頑張ろう)
ビール腹が益々強調される中ぐらいの円卓を囲みながら、さらに賑やかなフロアの人々は酒の名を叫ぶ。仄かな蝋燭の明かりに騒ぎ立てる男たちの喉が景気よく動く。益々夜が更けていくと、皿を洗う中年の女店員の掛け声も混ざりあって、酔いどれたちのどんちゃん騒ぎがうるさいくらいに町の隅っこで響き渡っていた。




