神代の幕開け1
それは本当に唐突な出来事だった。ラビンスキーが敵の本陣を抜けようとするとき、地の底から響くような低音が彼の腹を揺すったかと思うと、それに違和感を感じる暇もなく地面がグラグラと揺れる。
「な、なんだなんだ!」
ラビンスキーは立っていられず、四つん這いになる。突然、パイモンがラビンスキーを蹴飛ばす。扉ごと外に吹き飛ばされたラビンスキーは、今までに感じたことのない恐怖に思わず体を起こすのも忘れてしまった。
「なんだ、あれ……?」
ビフロンスに支えられながら、兵士も外に出る。最後にパイモンが優雅な足取りで外に出ると、振り返って巨大な「それ」を見た。
「あれがプロアニアの……フリック王のなれの果てじゃ」
霧雨に隠される「それ」は大量の戦死体を飲み込みながら、肥大化する。見上げるには首が痛いほどの巨躯に、禍々しい三つの竜の顔が付いている。巨大な羽を一振りすれば、はるか遠くムスコールブルク・エストーラ・ハングリア連合軍の死体までをも空に舞い上がらせる。これだけの豪風でありながら、生きとし生けるもの一切は「それ」の下に飛ばされるものはいなかった。
「まずは礼を言おう……名もなき外交官よ。そして喜ぶがいい、この世界は再び生まれ変わる。新たなる神代の為の贄になるがよい」
暴風が吹き荒ぶ。思わず息を呑む。ラビンスキーは身動きが取れないまま、ただ口を開けて、「それ」を見上げていた。
ラビンスキーの救出には、全く打開策がなかった。そもそも前方には敵兵が潜伏しており、当然機関銃も構えているため、隙間というものがない。試しにゴーレムを盾にしてみても、爆弾を投擲されて四散してしまう。ルシウスへの負担は過重となっていたし、エストーラの工兵が機関銃を解析するにも時間がかかる。指揮官達は物憂い執務室の重苦しい雰囲気に押し潰され、また、ラビンスキーの救出は困難だと断じるエストーラ側の主張の方がずっと的を射ていた。
ロットバルトをもってしてもやりようのない現状に悶々とするばかりであるのに、塹壕にこもる兵士達が無事なはずもない。やっと休戦にこぎつけるとパーティの準備をとウサギや猪狩りから帰還した兵士達は意気消沈していたし、足元にかつて味方だったものの腕が落ちていることにもひどく落胆した。数週間放置された戦死者が腐敗し骨になるに従い、丸々に太ったネズミが塹壕を往来するようになっていた。ユウキの発案で雨の対策と称して側溝を作ったものの、足にまとわりつく泥濘は兵士の足を腐食させるのには十分なものとなっていた。下痢で死んだ者もいる。兎に角、塹壕の兵士達が最大の被害者だった。
微動だにしない敵兵の従順さは側から見ても異常というより他なかった。塹壕の兵士達から見ても、動いたら殺すとでも脅されているように映る。それは彼らが従順なのではなく、戦いに不慣れで身動きが取れないことの証明でもあった。
風雨を防げる隔地で星の巡りを探る皇帝は、本陣の沈んだ雰囲気の中でもいつも通りの陰険な瞳でいた。近郊にしたいが積み上がり、いよいよ墓地が足りなくなっている。水葬も視野に入れつつ日常の執政の合間に司教を城に招いては、誹謗中傷を受け、しきりに涙目になっていた。ラビンスキーが本陣を離れて10時間ほど経った頃、気紛れに星の巡りを測った皇帝は、思わず玉座からひっくり返った。
彼は腰を撫りながら玉座に戻ると、直ぐに本陣に連絡を入れる。定刻でもないのに突然皇帝が現れ、マックスとロットバルトも思わず身を起こした。
「途轍もないことになっているぞ!何をしているんだ!!」
「なっ、何事ですか!?」
「ええい、さっさとその目で確かめろ!あんなものが唐突に出現するはずがなかろう!」
二人はすぐさま本陣を出る。冷たい小雨の中目を細めると、敵の本陣ーコンクリート製の頑丈な建物めがけて、大量の米粒のようなものが飛んでいく。同時に地面を割るような高音波が起こり、不快な耳鳴りになって敵味方問わず耳を塞いだ。
「な、何事だ……!」
小雨が音波の振動によって霧のように細分化され、二人の視界を阻む。敵本陣の中枢に米粒が積み上がり、巨大な影となる。薄っすらと浮かぶシルエットは、炯炯と滾る六つの光に似合わない凶悪な爪のようなものを持っていた。
「マックス王子!マックス王子!ご報告があります!味方の死体が突然浮き上がって、敵の本陣へ……!」
「あぁ……なんなのだこれは……」
霧雨となった小雨がますます高音波の振動で熱を持ち始める。敵の兵士達がパニックになって隊列を崩す。本陣へ向かった兵士達の中から、突然倒れる者が現れる。瘴気にあてがわれたそれらは、再び米粒と同様に浮かび上がって神の御許に帰るが如く、遠く本陣へと向かって飛んで行った。
それが何なのかは、最早問う必要もなかった。
「あぁ、くそ、間に合わなかったか」
「何者だ!」
ロットバルトが剣を構える。若い白髪の青年が皇帝の座から顔を覗かせる。皇帝は驚き、玉座からひっくり返っていた。
「ごめんごめん。でも時間がないことは分かるだろう?そっちに魔法使える人っているかい?」
「一応、私は一通り使えるが……」
剣を構えたままのロットバルトが困惑気味に返す。青年は安堵の表情を浮かべた。彼はかつてビフロンスが書いたものによく似た魔法陣が記された紙を見せる。
「オーケー、じゃあ、この法陣を書いてくれるかな?あぁ、描くのは誰でもいいんだけれども。書き終わったら君はその中に入ってくれると助かる」
「すると何が起こる?」
「僕が君に憑依する。君の中に君の意思と僕の意思が混ざるから気持ち悪いだろうが、我慢してほしい。なに、一時的なものだ、悪魔は契約を裏切らない」
マックスとロットバルトは顔を見合わせる。敵とも味方とも取れない不可思議な人物の登場に警戒心をむき出しにしながら、さり気なく皇帝に視線を移す。皇帝は腰を摩りながら玉座に手を置き、鈍重に頷いて見せた。
「……わかった。協力しよう。あれはいったい何なのだ?」
ロットバルトは急ぎ紙とペンを取りだし、やや急ぎがちに書き始める。青年は上を向いて唸る。言葉を選ぶというよりは、表現に困っているという風に見えた。
「この世界に在ってはいけない存在なのは間違いないけれど……。邪悪な魔竜ともいえるし、破滅そのものもいえるかな」
「よくわからんな……。とにかく時間がない。マックス王子、急ぎ前線の戦士に伝え、決戦の準備を」
「わかりました。ロットバルト卿も、ご武運を!」
王子は軽やかに前線に駆けだした。ロットバルトは精密に魔法陣を模写する。インクに浸すのも急ぎがちになり、時折掠れてしまう。塹壕が騒がしくなると、ロットバルトの筆が速まる。
「さぁ、できたぞ……!これでいいんだな!」
「上出来だ。急ぎ手配しよう。さぁ、君は陣に入って」
ロットバルトは深呼吸をし、乾ききっていないインクを踏まないように、陣の中に入る。暫くすると、魔法陣が光り、やがて紫色の閃光を放ち始める。閃光は段々とその色を強め、本陣の天井を貫く様に立ち昇る。そして陣の中心へと閃光が吸い込まれ、最後には何事もなかったように収まった。
「なんだ……特に、何も……」
『大成功だよ、君。いい体してるじゃないか。成る程、うん、筋肉もすごくついている。下手な男より動きやすそうだ』
「!?」
彼女は唐突に脳内に別の意識が入り込み、思わず周囲を見回した。当然誰もおらず、皇帝の前にいた青年も画面外に消えている。指を動かして自身の体の無事を確認していると、再び割り込むようにして脳内に声が響いた。
『ふぅん……さらしを外さないのかい?もったいないなぁ』
ロットバルトの腕がひとりでに動き、胸元辺りを摩る。彼女は一人きりの本陣で、赤面して叫んだ
「な、馬鹿!冗談を言っている場合ではないだろう!」
『おぉ、そうだった。ごめんごめん。それじゃ、行こうか』
外から悲鳴が響く。ロットバルトは慌てて外の様子を伺った。地面が捲れて空中に浮遊している。呆気に取られて見上げていると、本陣の前に凄まじい速度で戦車が現れる。禍々しい炎に車輪を包まれ、天を駆る黒馬に牽かれたそれは、彼女の前で止まった。
『じゃあ、ちょっと揺れるけど、乗って』
ロットバルトは戦車に乗る。二頭立ての安定感のあるそれは、搭乗と同時に一気に炎に包まれ、先程より一層速度を上げ、敵陣へと向かって行った。
「すごい速度だな……それにこの馬、よく鍛錬されている」
『騎馬は王の徳を表すものだ。手入れは欠かさないさ』
熱湯が蒸発するほどの豪炎にも拘らず、彼女の肉体に負荷は一切かからない。馬車は勢いはそのままに、死骸を吸収する巨大なそれに向かって行った。




