天使の刃1
プロアニアの戦力には三種類いる。第一に辺境伯たるプロアニア王フリック直属の従者、いわゆる常備軍だ。第二に常備軍では足りない兵力を整えるため、補充要因として雇われる傭兵たちだ。そして、どこの国でも弓を持たされるような、装備の乏しい農民たち……彼らは泥濘の中では下痢になり、前線で戦うどの兵士よりも戦いに慣れていない。戦場において最も弱い端役であり、同時に平時・戦時問わず、どこよりも重要な戦力でもある。そして、この戦場において機関銃を撃ち込んだのは第三の戦力たちだった。
息を切らせた兵士達は気まずそうにラビンスキーを見る。これからどうすればよいか、と指示を仰いでいるようにも見える。博士の最期に思いをはせる暇もなく、ラビンスキーの頭は、既に次の問題に切り替わっていた。
(休戦は無理、現在地は敵の本拠地、連れてきたのはエストーラの一頭立ての馬車だけ……。切り抜ける方法は……?)
ひとまず、胸ポケットから報告用紙を取り出し、現状を本陣に伝える。ビフロンスは兵士達に背を向け、ラビンスキーを黙って凝視する。
『承知した。救助に向かう。ラビンスキー君、兎に角そのまま安全を確保してくれ』
早速返答が来た。癖のない、整然とした文字はロットバルトのものだろうか。
『承知いたしました。どうかご武運を』
ラビンスキーは報告書を畳んで胸ポケットに仕舞った。現状の戦力を確認するため、銃痕生々しいゴーレムの体を摩ると、ぼろぼろと土塊が崩れ落ちる。兵士達は武器もなく、逃げようにもビフロンスの死体たちに囲まれて身動きができない。ビフロンスが視線を移すと、それだけで狼狽えているらしい。
「貴方達に危害を加える気はありません。ただ、妙なことはしないでくださいね……。私も、どうにか脱出したい……ビフロンス」
ビフロンスはラビンスキーの声に再び視線を戻す。ラビンスキーには、ビフロンスがここに来たという事こそが、何よりも危機的状況であると察していた。電灯の光すら届かない、窮屈なゾンビのの壁に囲われた密室で、数名の敵兵ににらみを利かせる。その事実に、ラビンスキーは奇妙に気持ちになっていた。
「プロアニアに何がある?」
「聖遺物を戦場に放り込んででも、人殺しを横行する悪逆非道の王……ではないでしょうね」
「王は、時々怖くなるんだ」
一人の兵士が震えた声で言った。視線が一斉に集まる。兵士の中でも格式の高そうな、高級そうな鎧を着た兵士だ。
「怖くなる、とは?」
「即位して暫くは、ずっと賢王だった。技術者たちをかき集めて、「魔術を使わない」技術の開発に徹底的に取り組んだ。ペアリスとの激戦で、一気に窮地に立たされた時から、時折人が変わったように悍ましい声を出すようになったんだ……。そういえば、その頃から黒斑が始まったような気がする」
ラビンスキーは視線をビフロンスに移す。ビフロンスがナイフを取り出したため、兵士達は死体の壁に寄りかかって震えだす。ビフロンスは空間を歪ませて銀の杯を引っ張り出すと、自らの指を切り、それを杯に中に滴らせる。兵士は訳が分からず顔を見合わせ、とりあえず安堵の表情を浮かべている。数滴の血にワインを合わせると、かさを増した銀の杯から血があふれ出す。それが唐突に盛り上がっていき、血とワインに塗れた巨大な人皮装丁本が姿を現した。それを見て、ラビンスキーは思わずアツシの事を思い出してしまった。
「黒斑は、魔術ですね。巨大な瘴気とでもいうべきものが溢れています。……これは。成る程、それは僕らでも分からないはずですね……」
「何が分かったの……?」
「プロアニア王は、プロアニア王ではありません。これはまるで……人の皮を被った神代の魔獣の様な……」
兵士達は愕然とした。件の高級兵が膝から崩れ落ちると、積み上げられた死体の腕が垂れ下がる。振動で何人かが崩れ落ちたが、これらはすぐさま自らよじ登って持ち場に戻っていく。ビフロンスは本を抱えたまま、今度は地図を広げた。
「恐らくですが、王はこの国を守る為、何らかの召喚術を使用したのではないでしょうか。我々の世界とこの世界は、我々を通じて繋がっていますから、悪魔の存在を王が知っていて、国家の為に召還をした。そして、それに取り込まれた。ああ、いた、王はここですね……」
「取り込まれた……」
ラビンスキーは意味も分からず復唱する。こちらの魔術はある意味で科学的な定義を持っており、ルシウスのおかげで理解できていたが、元の世界における魔術は、ラビンスキーにはかかわりのない、超自然的なものだ。ビフロンスは抱えた本を下ろし、ラビンスキーに中身が見えるように広げた。ラビンスキーが覗き込んでも、理解できない文字の羅列があるばかりだ。
「召喚は、その概念を受肉させること―即ち、依り代が必要です。王は自身の肉体を依り代に、何らかの異形を召喚し、それに基づいてハーバー博士らを生み出した。恐らく、契約の内容に関する知識が不足していたのでしょう……。現にロイ王は、周囲を大量の聖遺物で満たし、悪魔の力を制限しつつ、益をなす約定を再提示していました。自らの力を弱める危険性がある聖遺物をハーバー博士に渡したのも、これで説明がつきます」
「ペアリスにも悪魔がいるの?」
「パイモン様が見えますが。まぁ、パイモン様は、あのエロ親父が、などと不満を漏らして見えましたから、いつ殺してしまうかとハラハラしていましたが……」
(あの人なら殺しかねない……)
ラビンスキーは身を震わせる。敵陣の王ながら、その命知らずに思わず感服してしまった。
「……!?」
ビフロンスが唐突に入り口方面を向く。ラビンスキーもゴーレムの後ろに身を隠した。ちょうど天井付近にある死体がグラグラと揺れており、転がり落ちても登れずに床を彷徨い始めた。やがてラビンスキーでも肌で感じられる振動が近づいてくる。兵士の大軍にしては単一的であり、それが敵国の存在であると察せられた。それが近づくにつれ、壁となっていた死体が崩れ、そして臨戦態勢に入っていく。壮絶な死臭を纏った壁が崩れると、壮絶な地響きを立ててゆっくりと近づいてくるそれの全貌が見えてきた。
腰に手を当てて姿勢を正した、あばた顔だが、人好きのしそうな笑みを浮かべる男が近づいてくる。これまた時代錯誤を起こした真っ白なかつらを被り、シルクのキュロットに白タイツと、貴族然としている。何よりも彼の背後に連れ添う無機質な断頭台が印象深い。人を寄せ付けない飾りのない立ち姿、廊下を塞ぐほど高く釣られた刃先は、電灯の光を反射して鈍く輝いている。刃先はよく磨かれ、罪人の血を吸った木製の
ギラギラと輝いている。その死を纏う荘厳さに、ラビンスキーも兵士達も、思わず身震いした。
男は丁寧に頭を下げる。体を起こす時も微笑をたたえ、美しいシルクの上衣を整えて見せた。
「お待ちしておりました、ラビンスキー殿。ハーバー博士の事は非常に、非常に残念で御座いますね……。でも、御安心なさい。こちらの断頭台……ルイゼットが、必ずや貴殿をお救いになることでしょう」
上空から無数の天使の像が現れる。兵士の数人がそれにつかまり、中空に足をばたつかせる。やがて天使のうちの一人が、兵士を断頭台に掛けられる。ビフロンスが死体を操りギロチンを破壊させようとしたが、銅製の眩い天使たちに阻まれてしまう。彼らは男と同様に微笑を湛えたまま、死体を剣で叩ききり続ける。物量で勝る死体は何度も起き上がるが、天使たちは血飛沫に微塵も迷いを感じずに、ただひたすらなぎ倒し続ける。
「僕の死霊術では、死体が敵に恐怖を与えられることも含めて初めて、敵を無力化することが出来ます。しかし、あれには感情がない……このままでは!」
「左様、左様!王に背いた不届きものに正義の鉄槌を!」
鮮烈な血が空に舞う。同時に、先程までうめき声を上げていた兵士の首が飛んだ。
 




