遍在する蜘蛛の糸
整然と置かれた聖遺物のうち、一際目立つのはカペラの花冠と呼ばれる銀とルビーの被り物だ。そのほかにも、ヨシュア神の化身が処刑させる際に包まれた聖骸布、カペラの結婚式で使われた大白杯、オリヴィエス神の茨の手綱、プロアニア守護神である工業神ダイアロスの槌の破片……枚挙に暇がない程の聖遺物が保管されている。世界第二の聖遺物を保管するペアリスのカペル王家は、黒斑の中であっても常に商売に通じる賢王の為に繁栄していた。夜も明かりが消えないペアリス城からは、花の王都と呼ばれるに相応しい、比肩する都市もない夜景が一望できた。
聖遺物に囲まれるなかに、自前の読書台に戦費の報告書を、その左には会計帳簿を広げている男がいる。その男は右の腕は黒く爛れ、痙攣するばかりでまともに動かすことができない。陽気に鼻歌を歌いながら、帳簿の数字と戦費の報告書を見比べていた。
ベッドの上には黄色いドレスを着た、美しい女性が腰かける。姫というには年が行き過ぎているが、男の母親というにも若すぎる。長い睫毛越しに男の左手の動きを退屈そうに見つめていた。
「……それで、試算はどうなっておるのじゃ?」
女性が不機嫌そうに声を掛けると、男は女性を一瞥して、直ぐに読書台に戻る。
「ふふん。面白いことに、軍相の不正が明らかになったね。毎日帳簿を付けることの意味を、彼はよく理解していないらしい。いや、ほとんどすべての貴族が「低俗な」会計知識など知らないらしい。そんな「低俗な」知識も学ばない奴らに、どうして国が任せられるだろう?全くカペル王国は腐っているね!はははっ」
「……全くじゃな。貴族というものはどこも変わらんらしい」
女性が目を伏せる。そうすると睫毛が益々強調され、シルクの様な美しい肌も相まって煽情的に映る。男は嬉々として彼女に身を任せる。彼女は鬱陶しそうにしながらも、渋々それに従った。男が彼女の服に手を入れようとするのを、あしらうように払う。男はくつくつと笑い、彼女から距離をとった。
聖遺物に塗れた棚に、静寂と闇が支配する。女性が俯く。足元には豪華な鹿の毛皮が敷かれている。男は茫々と立ち昇る香草の香りにむせ返る。机上では油に浮かばせた香草に灯された炎が静かに揺らいでいる。
「ムスコールブルクの件はどうするのだ?」
沈黙を破ったのは女性だった。男は余裕を持った微笑をたたえながら、鋭い視線を送る。回答を待つ女は膝に手を置き、目を逸らす。まるで周囲を警戒するような、殺気のこもった視線だった。
「普通ならば協力しないね。誰がエストーラなんかと結ぶものか」
「普通ならば、じゃな?」
男は爛れた右の手を摩り、口角は上げたままで、眉を寄せる。そのまま鼻から大きく息を吐く。
「プロアニア軍の「異常な」技術的進歩は魔法や発展の領域を超えている。それに、この瘴気だ」
男は城外を見下ろす。領内には至る所に黒い腫瘍を持った死体が放り出されている。大通りから少し離れた場所は特に顕著で、死体が山と積まれ、嬉しそうに集る蠅の羽音が聞こえてきそうだ。男は女性の方を振り返る。
「これは病気ではない。その証拠に、君を呼んだ後に起こった奇跡だ。パイモン、異境の地獄の王よ、プロアニアについて何かいう事はないかな?」
ロイ王の攻めるような視線。パイモンも睨み返す。暫くそのまま睨み合っていたが、パイモンは溜息をついて呆れたように目を細めた。
「あぁ、悪魔を利用しようというのは非常に不愉快じゃが、契約の通り答えてやろう。プロアニアからただならぬ瘴気が感じられることは事実じゃ」
「プロアニア国内にまで影響を及ぼす巨大な瘴気……その狙いは戦争に勝つことじゃない、これはこの世界そのものに対する挑戦に他ならない」
パイモンは思わず吹き出した。ロイ王は合わせるように余裕のある笑みを零す。パイモンは煽情的な上目遣いで、睫毛を強調する。
「挑戦、違うな!これは侵略と言った方がよい!ああそうじゃな、なるほどお前たちからすれば挑戦じゃが、貴様らのことなぞ彼奴は歯牙にもかけておらぬ!」
「まるで、「傲慢な神」の如く、ってところかな!」
耐えかねたパイモンは哄笑した。女性特有の甲高い笑い声に、ロイ王は耳を塞ぐ。引き攣った笑みを浮かべる。よじれた腹を整える溜息の後、彼女は立ち上がる。ロイ王に過剰装飾な儀式用の剣の先を向け、いつになく明るく声を張った。
「私に懇願する名誉を許そう。靴を舐められることを誇るといい!」
ロイ王はパイモンに跪き、まるで騎士がそうするように手の甲に口づけをする。
「異境の地獄の王よ、プロアニアの賢王の肉を纏った悪鬼を、退けて下さいませ!」
「何というわざとらしい敬語……気に入らん!どこまでも気に入らん!然し、赦そう。私を愉しませた事を、存分に誇るがいい!」
パイモンはヒールが一瞬歪むほどに強く床を踏みつける。まるでそこに元から大きな穴があったかのように、さも当然の如く巨大な蜘蛛が這いだした。パイモンは蜘蛛の腹の上で足を組み、指を弾く。再び地面から這い出したのは、隻眼の獣の化け物たちだった。
「ロイ、貴様はそこで見ているがいい。せいぜいこれを終えた後の国際関係でも考えておくのだな!」
ロイ王はパイモンの軍勢に思わず興奮気味になり、前のめりになる。不随の右腕以外の肉体全てに力を入れる。
「言われなくてもそうするつもりさ、どうにも僕には右手の指を咥えて見ることが出来ないらしい」
パイモンは再び笑みを見せると、ヒールの先で蜘蛛の腹を叩く。蜘蛛は獣の軍政を引き連れ、バルコニーから壁を伝う。壮絶なスピードで城壁を這い降り、聳える死体の山を吹き飛ばしながら、直ぐに東の彼方に消えて行った。




