転覆の計2
グロ注意です。
今日の風向きは南西方向だった。毒瓦斯を使うには些か都合の悪い風向きであり、連合軍の本陣を守ることに特化した塹壕には、届きそうもなかった。プロアニアの兵士達は交代時という事もあり、機関銃の引継ぎを始めていた。敵に向けられた無機質な銃口は、敵陣地にぎりぎり届かないもどかしさにやや浮足立って見える。一方で、後ろに控える高射砲は、敵の塹壕を破壊するには十分な射程を持ち、次の弾丸の補充を静かに待ち望んでいた。
「おお、これは、何という僥倖。悲鳴を聞くにはちょうど良い場所で御座いますね」
ムスコールブルクの熟練した魔術師を引き連れたアツシは、掘削されたばかりの地下道から、地上を見上げていた。
「あんな距離の遠い場所まで透視魔法が使える奴なんて見たことがないぞ……」
付き添いの魔術師たちはアツシの背中を見ながらひそひそと話している。アツシの事を明確に訝しんでいるのは、彼らがコランド教会に有する印象の為か、それとも戦場で見たアツシの性癖への恐れからくるものかは定かではなかった。
「うぅーん、どれ。……はいはい。もう少し前進していただければ射程に入りますかねぇ?」
アツシは独り言を呟きながら、勝手に納得して頷いている。敵兵は緊張した面持ちで連合軍の塹壕ににらみを利かせている。アツシは両の手を腰に回し、猫背に戻る。地下道の行き止まりギリギリまで前進すると、大きく息を吸い込んだ。
「プロアニアの諸君!私はムスコールブルクより参上した魔術師である!」
「おい、透視!」
魔術師の一人が言う。もう一方が必死に浅い地盤を探し、「わかってるよ!」と叫んだ。アツシは両手をいっぱいに開き、ゴスペルでも歌うように楽しげに、高く奇妙な笑い声をあげた。魔術師が焦って透視魔法を練れば練るほど、エコーがかかった笑い声に背筋を凍らせる。
プロアニアの兵士達がパニックになりながら機関銃を乱射している。少し視線を動かすと、その理由がわかった。血みどろになって高笑いをするアツシの「幻影」が立っていたからだ。身体中に実弾を受けるのに合わせて、精巧に血肉の吹き飛ぶ様が表現されている。歴戦の戦士達が思わず息を飲むほど苛烈な銃撃を一身に受け、尚肉片を飛び散らせながら前進するその姿は、羅刹か修羅を彷彿とさせる。一人の兵士がパニックになる陣地から抜け出し、塹壕を通って射程圏外へと移動を始めた。塹壕からは安全に本陣へ向かう通路が確保されているようで、彼らが占領した塹壕を有効利用しようとしたのが窺える。
アツシが天を仰ぎ「僥倖」と叫ぶと、逃げ出した兵士が突然立ち止まる。二、三発彼が被弾した所で、パニックを起こした兵士達は今度は怒りの声をあげた。
そこを退け、敵に弾が当たらない……当然の非難を受けた彼は尚立ち止まって動かない。痺れを切らせた一人が銃口を向ける。まさにその瞬間だった。
キュルキュルという不気味な音が塹壕に向かった兵士の腑から響き、怒号は一気に干上がった。彼の体はしなるように波打ち、ついに腹から巨大な触手が伸びる。彼はそのまま塹壕に落ちたが、彼の腹から這い出た名状のし難い蚯蚓と蛇を繋ぎ合わせたような触手は、体を伸ばして陣地に侵入した。
それはべとりと血糊を地面に塗りたくりながら、銃口が地面に届かないのをいいことに、ゆっくりと蠢く。足を引っ掛けられた兵士は塹壕に引きずり込まれ、悲鳴の後には新たな触手が這い出した。兵士は銃を捨てて逃れようと踵を返す。悲鳴の合唱に歓喜の声を上げたアツシは、塹壕に引きずり込んでは増殖する触手で敵が返した踵を搦めとる。やがて触手では捉えきれない兵士が動き出すと、アツシは舌舐めずりをして魔術師に振り返った。
「さぁ、ご笑覧あれ!これより咲かすは大紅蓮、刹那に輝く大輪の花をご覧に入れましょう!」
触手は塹壕に隠れた尾から徐々に膨れ上がる。捉えられた兵士の表情が恐怖に歪み、涙を垂れ流して逃げ惑う兵士達はさらに速度を上げる。触手が先端まで肥大すると、一気に破裂した。触手の肉片、捕らわれた兵士の四肢が吹き飛ぶ。更には風圧に巻き込まれた兵士達の一部が吹き飛び、飛び散った肉片に再び悲鳴をあげた。アツシはこれまでに聞いたことのないような、鼓膜を破りそうな甲高い声を上げた。いつものように恍惚とし、血痕の飛び散る様に舌舐めずりをし、肉片の蠢く様に天を仰いで祈りを捧げる。
「さぁ、もっと!もっと鮮烈に!もっと苛烈に!その悲鳴を聞かせておくれ!」
付き添いの魔術師が透視を解いて口を覆った。常人ではとても看過できない惨状に、彼は膝を折って地面に吐瀉物を吐いた。また一人の魔術師がそれを介抱する。
「一人、魔術が届く場所まで来れば、そこの拠点に連鎖的に敵を捕捉できる。それを利用して間接的に爆発に巻き込んだのか……!」
それに応答するように、涙目の魔術師が細い声を上げた。
「あれは神の従者なんかじゃない……。これではまるで……悪魔だ!」
飛び散った肉片もまた小さな触手となり蠢き始める。兵士達は恐怖のあまり全員で逃げ出し、逃げ遅れた兵士達の助けを求める声を背に退散する。取り残された絶望に瞳を潤ます兵士達は、触手に飲み込まれながら放心状態のまま引き裂かれ、正しく大輪の花が咲き乱れた。
ひとしきり歓喜の声と悲鳴に満足したのか、アツシはうっとりとしたまま振り返る。地面に広がる吐瀉物を見て、慈しむように魔術師に声をかけた。
「おぉ、おいたわしや……。敵とはいえ同志の死を悼むその清浄な精神……。神聖を感じずにはいられない。然し御安心なさい、彼らは必ずや天へ登り、審判の時には救われることでしょう!……然し、貴方の泣き顔は実に……ふむ。唆られますなぁ」
やっと落ち着き始めた彼の精神は再び酷い恐怖に駆られ、残った胃液まで吐き出した。魔術師の震える瞳を存分に堪能したアツシは、スコップ片手に待機する兵士達に粛々と指示を出す。
「何をしているのです。掘削を再開しなさい」
兵士は先を争うように巨大な岩壁を削り始めた。彼らを何よりも駆り立てるのは、世に並ぶものなき狂人への恐怖に他ならなかった。
一方で地上では、その凄まじい光景に怯む暇もなく、一気に騎兵が突撃を開始する。彼らの目当ては勿論、地図上の優位ではなく機関銃だ。鮮血と共に吹き飛ぶ地表にうろたえながらも、彼らは敵の混乱の中を一気に前進し、荒野と化した塹壕の上に飛び散った機関銃の破片を回収した。そして、敵の反撃を受ける前に、早々に爆風でできた窪地にこもる。毒ガスのこもった塹壕を歩けるのは、マスクをつけた敵兵だけだったからだ。
本陣はそのまま、重装歩兵の堅牢な守りを受けつつ、ゆっくりと前進する。敵兵力の壊滅は目覚しいものだったが、遠目に見ていたラビンスキーでさえ、思わず吐き気を催すものだった。
(アツシくん……。君に一体何があったんだ……)
ラビンスキーはゴーレムを率いて前進する。普段よりも小さな歩幅と、奇妙な罪悪感に苛まれながら。
「……次は本陣だな。あれも随分と立派な箱モノのようだ」
ロットバルトは敵の陣地を馬蹄で踏みしめながら目を凝らしていた。簡易のテント程度でしかない連合軍の本陣と比べて、コンクリート製の敵陣は非常に堅牢に思えた。
「……混凝土ですか。また侵入に手こずりそうだ」
「ここは一つ、賭けに出てみるのもよろしいのではないかと?」
地下から昇ってくるアツシの声にマックスがびくつく。一か所だけが荒野の様に荒れ果てた草原では、焦げ臭い臭いと焼けた肉の臭いで満たされている。アツシは退屈そうに土を構いながら、わざとらしく灰燼にむせて見せた。立ち上る煙も今は随分と大人しいものだが、後遺症と言って差し支えない程生々しい熱量が、進軍した兵士達の頬をかすめている。汗を拭うものも、鎧の下を掻きたくて体をくねらせるものもいた。アツシは早々に土壌への関心を失ったのか、兵士達が熱そうにしている姿に若干の関心を示し始めた。
「賭けとはどういう事だ?」
「えぇ、麗しきロットバルト卿よ。堅牢な砦を切り崩すには中からかき回すのが良き手段で御座います。然らば、私の力が存分に発揮できましょう。ですがその前に……敵の優位を討つことが先決と言えましょう」
「つまり、博士を倒すという事か。どうやって?」
アツシはラビンスキーに視線を送った。ロットバルトは眉を顰める。ラビンスキーは軍人ではなく文民であり、単なる官僚に過ぎない。事実、彼は戦場においては一切役に立っていなかった。アツシが首を後ろに回す。人間のそれとは思えないような骨の軋む音がして、彼の首は正確に180度ぐるりと回っていた。見開いた視線の先には、マックス王子がいる。王子はなるべく視線を合わせないように視線を逸らしながら、まるでロットバルトに教えるように言った。
「成程、つまり文民だからこそ、きちんとした親書を送れば、攻撃を仕掛けてはこないと」
アツシはほくそ笑む。表情筋が引き締まると、自然とほうれい線が深く目立つようになった。
「彼には講話の為の使者として、敵陣の門をたたいてもらいましょう。伝令兵を先に走らせておきましょう」
アツシは踵を返して、暢気に伸びをして見せる。ロットバルトの心配をよそに、マックスはかなり乗り気なようだった。
「では私が書いておこう。中から切り崩す、か。初歩的だが非常に強力な手段だ」
夕陽が傾き始める。目には殆ど確認できないほどじっくりと、空を茜色に染めていた。物悲しい雰囲気の草原に風が吹くと、どこからか吹き抜けた葉が、熱に耐えかねてしぼんで見えた。




