黄雲
敵陣から濛々と立ち上がる薄気味の悪い緑がかった黄色の雲は、風に乗ってゆっくりと迫ってきている。本陣から何人も伝令兵が飛び出し、塹壕に何かを伝えに走った。悍ましい黄色の雲は、大量の帯となって地上を這い、迫りくる。暫くすると、塹壕の兵士達が距離を取りながら這いあがってきた。彼らは本陣へ向けて全力疾走を始める。続々と塹壕の兵士が本陣の前へ集まってくる。それに合わせるように、機関銃の砲撃が彼らを襲う。黄色い霧のおかげで視界が遮られているのか、弾丸を受けて倒れる兵士は決して多くはなかった。ラビンスキーは急いで本陣に入り、状況の把握を図った。たまたま視界ジャックを通して前線を監視していたらしいユウキが顔を真っ赤にして伝令兵を走らせている。水牛の群れでも駆け寄ってくるような凄まじい地響きが近づいてくる。
「何があったの!?」
ラビンスキーが叫ぶ。ユウキは息を切らせながら答えた。
「……間違いない、イペリットだ」
「そんな、どこまで底が知れないんだ……!」
ラビンスキーは思わずわが耳を疑った。塹壕に立てこもり、高射砲によって消耗戦を仕掛けてくるという覚悟はしていたが、毒瓦斯まで放たれるとはとても想定できない。土地の痩せているプロアニアが継戦を図ることは難しいという見立てさえ、音を立てて崩れ去っていく。
本陣の前に集合する兵士達までは、機関銃も届かない。ロットバルト、マックス、シモノフが忙しなく兵の隊列を立て直すように指示を出している。兵士は荒れに荒れ、怒号とも悲鳴ともつかない奇妙な声を上げている。士気高揚も何もない程、混沌としていた。そもそも、二人の声が殆ど通っていない。プロアニア包囲網のうち、最も端にある二つの塹壕を除いて、黄雲が塹壕に充満している。
「ラビンスキーさん、確認してほしいことがあるんだ」
何とか落ち着きを取り戻したユウキが言う。ラビンスキーは胸ポケットに常備している本国への報告書を取り出した。それは、教会との諍いの中で手に入れた例の紙を検証、応用してルシウスと共同で完成させたものだった。ラビンスキーの迅速な対応に満足したユウキはやや早口で用件を伝える。
「悪魔に対し、死んでから久しい人物でも、異世界に転生させられる可能性はどれくらいあるのかを問い合わせてほしい」
ラビンスキーは迅速に筆を滑らせる。同時にユウキの言葉を吟味した。
「それならば、この世界でも実現可能なのかな?」
「可能性としては、現代の戦争関係の技術者が協力している可能性はある。でもそれだけでは決定的に足りない部分―つまり、プロアニアの食糧事情を解決する人物に、思い当たる節があるんだ」
ラビンスキーは報告書に返答が送られてきたのを確認すると、それを折り畳んで懐に仕舞った。外で騒ぎ立てていた兵士達が落ち着き始めると、対応に当たっていたシモノフが、本陣の中に顔を突っ込む。
「後退する。君たちも手伝いなさい。……あぁ、ユウキ君は引き続き警戒をお願いします」
ラビンスキーはゴーレムに指示を出し、迅速に本陣を畳む。重い木材や家具はゴーレムに背負わせ、自分は軽い布などを鞄に括り付けて、兵士達と合流し、後退を始めた。
黄雲が塹壕に落ち着き、地上のものが霧散を始めると、今度はプロアニア軍が重い腰を上げる。すべての機関銃をたたみ、各兵士が部品を分担して持っているらしかった。手には簡素なマスケット銃を持ち、重い足取りでにじり寄ってくる。連合軍は彼らの進軍に合わせて後退をせざるを得なくなった。本陣を畳み、大軍勢は最後方にゴーレムを据えながら、迅速に後退する。彼らの「戦争の専門家」としての統率力が大いに発揮されている。一方で、ゴーレムを引き連れて進むラビンスキーはしきりに後方を気にしながら、ロットバルトの護衛も兼ねて軍勢に紛れていた。
「ラビンスキー君、君はこの機会をどう見る?」
「……むしろ好機と見ますね。本陣の奥から掘り進めたことは、やはり正解でした」
ラビンスキーは遠ざかる塹壕を見ながら呟く。敵兵はまだ遥か遠く、米粒の群れの様に見えた。ロットバルトは前を見据えたまま答えた。
「同意見だ。そして、君の紙片が大いに役に立ちそうだ」
ラビンスキーは静かに胸に手を当てる。ポケットの中には、先程の用紙が入れられていた。彼は再び振り返る。自軍の厳つい軍人たちの合間から、草木を揺する風が吹く。生々しい砲撃の跡は、離れた場所からもよく見えた。
敵兵の進軍が止むと、本陣の再布陣をする作業に移った。塹壕は全兵力を以て夜通し展開された。せめてもの毒瓦斯対策として、土を盛り上げて二つの塹壕を作る。前の塹壕には尖った杭を打ち付け、後ろの塹壕から監視をすることにする。夜明け前に、何とか形だけは完成した。
兵士達の一部が作業を終えて睡眠に入る頃、ラビンスキー含む本陣の人間は、間髪入れずに会議を始めることになった。




