明星は告げる
ルシウスの去った部屋に戻るものはなく、ラビンスキーは一人呆然と隅にうずくまるゴーレムの姿を眺めていた。ゴーレムは体を起こすと立ち上がり、ゆっくりとラビンスキーに集めた法陣を手渡す。ラビンスキーはなされるがままにそれを受け取り、そして意味もなく涙をこぼした。
(戦争になることは予想が出来ていた……でも……こんなに速く……)
戦場に赴くのはロットバルトを含め、戦争のプロフェッショナルだけだと考えていた。しかし、ルシウスも向かうことになった。もっと、交渉をすることだ出来ると、力になれると考えていた。それ故に、自分だけが取り残されたこと、それが何よりも彼の心を不安にさせていた。太陽は完全にのぼり切り、開店休業中の市場では薬屋だけが蝦蟇のグッズを元気にたたき売りしていた。行軍準備をするエストーラの軍団が、既に城に集まっていることも、窓から確認できた。エストーラの兵士たちはコボルトの軽装騎乗兵、エストーラの重装騎兵と、長い槍を担いだ重装歩兵、そして、軽装の弓兵だった。ラビンスキーは呆然と窓から集まる兵士の数を数える。数千、いや、もしかしたら数万居るのかもしれない。既に戦争の準備をしていたエストーラは、もう帝都に兵を集めていたのだろう。二千もの兵を有するロットバルトの軍隊が、エストーラのそれからみれば酷くちっぽけに見える。そうしてラビンスキーが兵の数を数えるうちに、違和感に心がざわつく。
(……皇帝がいない?)
ロットバルトやシモノフ、果てはルシウスまで向かうような大戦争において、当事者の皇帝がいないなどという事があり得るだろうか?ラビンスキーは思考を切り替える。嘆いている場合ではないことも分かっていたが、それ以上に、この軍勢に参加しない皇帝に、違和感とも親近感とも嫌悪感ともいえる感情を抱いた。それに気づいてから、ラビンスキーは動き始めた。ほぼ同時に、兵士たちの行軍が始まった。
大通りを埋め尽くす軍勢の、軍靴の音の逞しさ、鼓笛隊の逞しさは、得も言われぬ高揚感を兵士たちに齎しているらしかった。死体を山と積み上げた裏通りに回収車が止まり、そこにもまた何十もの死骸が積み上げられる。
ラビンスキーは大通りを駆け足で通り抜け、要塞の様な王城へ入る。その際、兵士に軽い挨拶を交わし、ピリピリする彼らを和ませておいた。王城はもぬけの殻と言ってよく、召使さえ宮仕えを休んでいるようだった。壁がますます濠を深くし、廃屋の様な趣さえある。ラビンスキーが謁見の間に向かおうと赤絨毯に沿って歩いた。広い洞窟の様な城内にラビンスキーの靴音が響く。こすれた煉瓦の表面が時折足を取り、つまずきかけて立て直す。籠城には相応しい重厚な鉄の扉を開くと、謁見の間には誰一人いなかった。
「……あれ?」
ラビンスキーは柱の裏から玉座の向こうまで、念入りに皇帝の姿を探ったが、およそ隠れられそうな場所には彼はいなかった。やがて玉座の前で呆然と立ち止まることしかできなくなり、ラビンスキーは途方に暮れる。
「ラビンスキー様?いかがなさいましたか?」
ラビンスキーは焦って振り返る。反射的に両手を挙げたのは、背筋に冷たい感触を錯覚したからだ。そこにいたのは、件の老獪な外交官だった。
「あ、いえ。先ほど行軍する軍隊の中に、皇帝陛下お見えでなかったので。失礼いたしました……帰ります」
動揺を隠せない彼の姿を、外交官は訝しむ。ラビンスキーは玉座が背中に迫りくるような圧迫感に半ば過呼吸気味になるのを隠すのでやっとだった。外交官は耳の穴を抑えるようにしながら、突然意外そうな表情をする。ラビンスキーは訳が分からないまま手を挙げて制止している。誰かと連絡を取るようなしぐさをとる外交官は、困ったように何度も確認を取っている。ラビンスキーは中央の赤絨毯から後ずさりする。やっと赤絨毯から抜け出し、背中に感じる玉座の威圧感がいくらか静まってきた後、ラビンスキーは背中を丸めて応答をする彼の姿に自分を投影する余裕ができた。頭を下げるという行為は、社会人生活の長いラビンスキーにとっては、往々にしてあることだった。外交官は半ば困惑しながら連絡を終え、ラビンスキーに向き直った。
「ラビンスキー様、確かにエルブレヒト公はこの城におります。今からご案内いたしますので、どうぞ」
彼は手で右側の扉を指さし、ラビンスキーを導く。ラビンスキーは彼の後を追うようにして向かう。
向かった先にあったものは普段行事等を行うにあたって催される諸道具を保管する倉庫だった。ラビンスキーが外交官の方を向く。外交官は積み上げられた木箱の幾つかを動かす。すると、木箱に隠されていた壁が現れる。壁際にある空の書棚の前でその戸を三度叩いた。暫くして二度ノックが返され、外交官は書棚の奥を開く。ラビンスキーからでも、中が空洞になっていること、蝋燭の光が微かに灯っていることが視認できた。彼はそこから手を突っ込むと、独特の手さばきで何かを操作する。すると、書棚からカチッという音が聞こえる。最後に外交官が戸棚を右側へ引きずると、それと同時に奥の壁が動く。ラビンスキーは思わず目を見張ったが、奥の壁をよく見ると単なる塗りつぶした書棚の壁であることが分かり、そこが本来ひとつながりの領域であることが分かった。彼は振り返ると、ラビンスキーに対し礼をして、その場を立ち去った。ラビンスキーは、まるで導かれるように隠された空間に足を踏み入れる。
フラスコや三脚、測定用の分度器、種々雑多な金属のインゴットが机の上に散りばめられている。空間そのものは決して広くはないが、炉が存在し、錬金術の書籍が積み重ねられている。そして、猫背で作業台の前に腰かける、高貴な服装の男がいた。
「……来たかね。ラビンスキー君。余は……いや、君にはみっともない所をさらしているのだから、今更すごむ必要もないか」
皇帝はそういって咳払いをする。痰を痰壺の中に吐き出し、椅子をくるりと回した。手には鞣革製の手袋を嵌めており、金属片が付着していた。裾には入念にぼろ布をかけていて、明らかに動かしづらそうだ。皇帝はそのまま不敵に笑った。
「この度は我が国の為に部隊を寄越してくれてありがとう。共に仇敵を打ち倒そうではないか」
皇帝は手袋を机に置く。よく見ると金属片をごちゃまぜに砕いたものが置かれており、今まさに錬金術を行使しているらしかった。
「……皇帝陛下。開戦の狼煙を上げるには、些か速すぎはしませんか?」
ラビンスキーは険しい表情で訊ねる。皇帝は膝の上で手を組み、目を瞑る。暫くそのまま動かずに、ぶつぶつと祝詞を唱えている。ラビンスキーは前のめりになる。皇帝は静かに目を開けた。
「……拙速だと思うかね?敵兵は200、こちらは一万と……千と言ったところか。あちらは恐らく道中徴兵をして回っているようだね。時折足が止まる」
皇帝は微笑んで見せる。彼は鉄粉を取り出す。それは黒く酸化しており、入念に保管されているほかの材料と比べるとてきとうに机の上に放置しているように思われた。
「鉄は錆びるが、鉄鉱石は錆びた鉄と同じようなものだ。高炉で製銑し、製鉄し、圧延し、加工する。我々の武器はこの鉄を以て完成されるが、私はより良いものを、より優位となるものを作るためにここに錬金工房を建てた。尤も、錬金術というものは余りにも信ぴょう性に欠けることが分かってしまったがね」
「質問に答えてください」
ラビンスキーの言葉を聞き流すように、皇帝は手に取った酸化鉄を膝に置き、その上で手を組む。胸のあたりで三角形を作るようにしながら、目を細めた。
「フリックは随分焦っているようだが、あれっぽっちの兵数でわが軍に立ち向かうことなど難しいだろう。中途で徴兵をしても、精々千といったところか。しかし、あの男は勝てない戦はしない。……わかるかね?彼は既に一万の軍勢を軽くあしらう技術を持っているのだ。これを放置すると、どうなるか。私は背筋が凍るよ」
皇帝は実際に体を震わせた。椅子がきぃ、と鳴き、皇帝は続けて身震いする。ラビンスキーは無言で非難の眼差しを向ける。しかしそれは、皇帝だけに向けたものではなかった。皇帝はラビンスキーから金属片とインゴットで埋め尽くされた棚へ、そして背後の酸化鉄へと徐々に視線を移す。最後に皇帝は、塹壕の中の様なガタガタとした天井だった。
「わかっている。あの少年は行軍した、高名なるルシウス卿もだ。君の非難は受けよう。然し、かの少年については使節を送っておいた。じきに……」
がちゃり、隠し扉が開けられる音がする。ラビンスキーがふり返ると、背後にはモイラがいた。ラビンスキーは目を見開き、皇帝に説明を求める。皇帝は、そっと胸元の三角を酸化鉄の下へと下ろし、モイラに顎で指示をする。モイラは、躊躇いながら首を横に振った。皇帝は眉を解き、わざとらしく悲し気に表情を曇らせて見せた。
「貴方という人は……!」
「ではどうするのかね?相手は我々を殺す気でいるが?」
ラビンスキーが拳を握る。背後のモイラは目を真っ赤にしていたが、それでも凛とした表情をしていた。
「……勘違いしないでくれたまえ。私は彼らの力に心底驚いている。ルシウス卿は私と同じ秘跡を辿る者、その弟子であるあの子は私と同じ観測者……しかも私と違ってミクロの観測者だ。必ずや戦局を把握し、有利に事を運んでくれるであろう」
「秘跡……?」
「主はこの世にいくつもの奇跡を残された。それは言葉によって語られ、或いは語られずに遍在する。秘跡とは、聖なる御言葉によって語られていない、主の奇跡の事……。言い換えれば、聖典に記されざる真理の探究だ。失われたゴーレムクラフト、星の巡りの秘跡、錬金の秘跡……。わかるかね?プロアニアに勝つには、私の解き明かすべき秘跡が必要であろうことが」
皇帝は椅子をくるりと回して実験を再開した。振り上げかけたラビンスキーの腕をモイラが掴む。彼女は真っ赤な目でラビンスキーを見上げ、首を横に振る。ラビンスキーは怒りを噛みしめて顔を逸らした。
「私は観測者、最後に生き残るものだ。星の秘跡が私に告げるものを、彼らには確かに伝えよう。しかし、戦局については変えようがない。私は臆病で、無力であるからね。君はどうする?ここで私と共に技術の開発に努めるのも一興だと思うがね?」
彼は新たなる金属の開発に手を動かす。ラビンスキーは拳を下ろし、静かに部屋を眺めた。暖炉の代わりに離れにある地続きの高炉、既にコークス炉を発見しているらしいことも分かった。皇帝は、決してただ逃げていたわけではないことを証明していた。星の巡りは彼を何度も襲った危難から逃れる術となり、そして戦局を伝える管制塔になっている。彼は臆病で内向的に違いないが、無能ではなかったのだ。
「……私も彼らと共に行きます。お茶くみでも何でも、貴方と一緒にいるよりは精神衛生上いい」
皇帝はラビンスキーの言葉にふり返りもせず、「そうか」とだけ答えた。ラビンスキーは踵を返し、隠し扉の戸を開ける。
「言っておくがね、君にできることなど些事もないよ。私たちは戦場では文字通り無価値な存在だ」
ラビンスキーは、なるべく強く扉を閉めた。部屋中を揺らすほどの扉の揺れにも構わず、皇帝は静かに錬金術用の貴金属を選別する。
「皇帝陛下、教えてください……。いったい、何が起こっているのですか?」
「……なに、初歩的な心象操作だよ。やはり君はとてもいい子だ」
不安そうに皇帝を見ていたモイラは、この場所で自分ができる事はないと悟り、そそくさと部屋を後にした。
「やはり、私は最期まで一人なのだろうな……」
皇帝は、静まり返った部屋で、くぐもった声で呟いた。彼にはこだますら何も返さず、ただその言葉を中空が受け止めていた。




