アルマゲスト
草原の風は程よく肌に心地よく、快晴の空には星たちが瞬き、ゆっくりと昇りゆく月の瞬きは優しく照る。兵士たちの談笑が聞こえる彼方へ目を向ければ、トーチの炎が茫々と燃え陽炎を作っている。倒木に腰を据えながら、ラビンスキーはムスコールブルクでは見られない瞬く空を見上げていた。
ラビンスキーの後ろには、切り株に腰を据えて空を眺める少年がいる。いつかの村の出来事を思い出したラビンスキーは、空を見たまま黙っている少年に向けて話しかけた。
「今、何について考えている?」
反応がなかったため、振り返る。ユウキはただ空を見つめている。隣に寄り添って眠っているのはモイラで、気持ちよさそうに寝息を立てている。ラビンスキーは鼻から息を吐いて、再び空に目をやる。先ほどと変わらず雲一つなく、幸先のいい旅路の好い気分も変わらない。肌をなぞる心地よい風を受けながら、ラビンスキーは天体観測を楽しんだ。
空の星々は生前のそれと全く同じではないが、なぞれば何かの形に見えそうな星も見受けられた。ラビンスキーは大きな星の連なるそれを目で追いかける。一際眩い三連星を中心に、盾に斜めに広がる星々は十字架、或いは白鳥のようだ。ラビンスキーはそれにロットバルト座と名付ける。そこから東へ30度視線をずらせば、ひしゃくの様に七つの星が連なる。それが傾いたフラスコの様に見えるたため、ルシウス座と名付ける。そこから北へ十度ほど視線をずらすと、突き出た腹を蓄えた狸のように連なる星々があった。ラビンスキーは思わず吹き出し、それにコランド座と名付けることにした。月より正確に丸をつくる星々は、イグナート座、細長く、特徴的な形のしっぽを持つ星の連なりはカルロヴィッツ座、二つの丸が繋がっているように見える星座はハンス座……段々と楽しくなってきたラビンスキーは、次々と新たな星座を探す。
「こっちも……地球は回っているのかな」
背後からの言葉に思わず驚いたラビンスキーは、不覚にも奇妙な声を上げる。ユウキが変わらず空を見ていることに安堵しながら、ラビンスキーは答えた。
「そうだね……きっと回って……」
そこで言葉に詰まったのは、ここが異世界であることに気が付いたからだった。そもそも、この世界は魔法があり、かつての世界の秩序とはあまりにかけ離れた秩序を持っている。異世界という言葉でそれを当然と受け入れてきたラビンスキーが、星の巡りの違いに疑問を抱かなかったのは、ある意味では不自然であった。
ラビンスキーは再び空を見上げる。ラビンスキーには星の運行が自分の生きた世界と違うとは思えなかったが、ユウキにはどのように映っているだろうか。ルシウスがユウキを選んだ理由を、初めて理解した気がした。
「ルシウス先生に聞いてみようよ」
そういってルシウスを呼ぶ。鼻歌交じりに土のボーリング作業を行っていたルシウスがそれに気づくと、半ばスキップするように二人の下に駆け寄った。
「なーんだい?」
「この大地は動いていると思いますか?」
ラビンスキーが率直に質問すると、ルシウスは首を傾げた。彼は暫くそのまま硬直していたが、眉をひそめて適当な石ころを持ち上げた。
「さて、この石を上に放るとしよう。仮にそれを垂直に投げたとして、どこに着地する?」
ルシウスはそう言って天高く石を投げる。すこしだけ後ずさりすると、石は正しくルシウスの足元に落ちた。ラビンスキーは言わんとすることを理解したが、ルシウスの答えを待つ。今の自分がその法則に正しい答えを出すことができるかが分からないからだ。垂直に落ちた石を見おろしながら、ルシウスは笑顔で続ける。
「つまりだね、仮に地面が動いているとしたら、接地していない物質がどうして同じ場所に落ちるんだろうか?この石ころに元の位置に戻ろうとする意思が働くのかな?」
「例えば、地面が引っ張っているという事は考えられませんか?」
ルシウスは眉を顰める。唸り声をあげ、地面を睨む。恐らく真摯に答えようとしているのだろうが、可能性に対して苦慮しているのかもしれない。ラビンスキーはあくまで言葉を待った。
「……確かに、教会の意見も加味すれば、石は本来地面にあるべきもので、あらゆるものはあるべきところに落ち着くんだ。でも、空は神の領域だから違うらしい。つまり、今の僕には答えを出すことができない」
「じゃあ、この地面が動いていることを証明できたら、認めてくれる?」
ユウキがルシウスに訊ねる。ルシウスは初めに地面を眺め、続いて非常にゆったりと動く星々を眺める。そして高らかに笑い声をあげる。しかしそれは、決して蔑みや哀れみの笑いではなく、問答という愉しみからもたらされる恵みによるものだった。
「面白い!つまり君は地面は動いていて、それに付随して鳥や月が取り残されない理由を証明しようというわけだ!いいだろう、実に面白い仮説だ!そして地面が動くその理由まで説明できたら御の字だ!最高の結果は最高の理論によってもたらされる、故に君はまず地面が動くことと、それに対する反論に応えるための研究を進めなくてはね!」
「それが分かれば、星の巡りが予測できるかもしれない」
ユウキの言葉に、ルシウスは再び唸る。彼は脳をフル回転させる。そして、益々楽しそうに、満面の笑みで答える。
「つまり、君はあらゆるものが引き合い、それは地面と天体にも当てはまると言いたいわけだ。……神の領域を侵犯する、真理の探究だね!益々面白い!そんなことが分かってしまったら世界は大変なことになるぞ!」
「ルシウスは、教会に楯突いてもいいの?」
ユウキが聞くと、ルシウスは唐突に静かになり、鳥がこの騒ぎに驚き飛び去る様をまじまじと見つめながら顎を摩った。ちょうどモイラも目を覚ましたらしく、目を擦り、大きな欠伸をした。
「僕たちは、危険な存在だ。僕らの知的好奇心は永遠にとどまることを知らず、あらゆる真理を解き明かし、あらゆるものを発明してしまうだろう。科学者は、常に新たなものを追い求める過程にこそ浪漫を感じるんだ。例えそれが、世界を滅ぼす技術であるとしても、その衝動を止めることができないだろう……。その危険性を教会は理解している。でも、それを抑圧してどうなる?僕たちはいずれ滅ぶのに、延命措置を続けるつもりなのか?そうだよ、僕たちは真理の探究者。あらゆるものを生み出し、そして滅ぼす真理へと向かおうとする反逆者だ。それで、反逆者がどうして教会を恐れる必要があるだろう?」
規則的な草原のざわめきと、兵士たちが交代に喜ぶ姿が遠目に確認できる。星々は瞬き、空に張り付いて規則的に動く。兎に驚く臆病な兵士と、それを笑う兵士がいる。城壁もない暗黒の中では、遥か彼方トーチの光が視認できる。代り映えのしない光景が延々と続いていた。彼らにとって重要なものは「今」この時、この瞬間なのだろう。そして、その日常を壊すことができるものが、真理の探究者なのかもしれなかった。
 




