開戦準備1
ラビンスキーの下にその知らせは届いたのは、会議終了翌日のことだった。ロットバルトに直々に招かれたラビンスキーは、今日訪れるというコランド教会からくるという「偉大な白魔術師」について、警戒心を抱いていた。
謁見の間には女王とルシウス、その付き人としてユウキ、将軍や参謀室員などの軍役に関する専門家が集まっていた。ロットバルト、シモノフ、軍務大臣は少し時間から少し遅れて到着する。当然、件の会議の影響である。
「遅れて申し訳ありません、陛下」
ロットバルトが頭を下げると、女王はおっとりとした口調で返す。
「いいのですよ、ロットバルト。さ、さ、今日のお客様は聖職者の方なのでしょう?失礼のないようにいたしませんと」
「仰るとおりです。ご案内しなさい」
ロットバルトが兵士の一人に命じると、兵士はラビンスキーよりもずっと優雅に謁見の間を出る。もっとも下座にいるルシウスとユウキ、ラビンスキーは隣り合って立っているが、流石にルシウスも何も言わずに立っていた。暫くすると、案内をする兵士がノックをする。女王の返事から一拍おいて、巨大な扉が音を立てて開いた。兵士の後ろにいるのが、例の魔術師らしい。兵士の後をついて歩く怪しげな黒いローブの男は、異様なほど低身長だった。それを見たユウキが冷や汗をかき、酷く怯えていた。もっとも、この部屋の中で一番驚いたのは、何を隠そうラビンスキーであった。
「教会より参上仕りました、不肖敦 在原。異端審問官をしております」
敦は丁寧に跪く。ざわついた軍部に対して、女王は穏やかそのものだった。
「ご丁寧に有難うございます。お顔を上げてくださる?」
「嗚呼、存命のうちに麗しき女王陛下をお目にかかることができるとは、何という僥倖!恐悦至極とはこのことで御座いましょう!」
ユウキが小刻みに震えているのを、ルシウスが宥めている。教会からの使者、異端審問官という言葉に反応したのか、あるいはもっと直近で被害を受けたのか。ラビンスキーは衝撃の余り訊ねる勇気もなかった。
「ご丁寧に有難うございます!ねぇ、ロットバルト、彼は若いのに凄い魔術師なのでしょう?」
「えぇ、教会一の大魔術師とのことです」
ロットバルトの言葉に、アツシは両の頬に手を押し当て、奇妙な感嘆の声を上げる。思わず身震いしそうなほど不気味に甲高く、ラビンスキーはわが耳を疑った。
「もったいないお言葉。私など、まだまだ若輩者でござます。いやしかし、女王陛下にお仕えできるのであれば、これほどの僥倖は御座いません。戦争はてんで門外漢で御座いますが、魔術に関してはお力になれる事でしょう!」
ラビンスキーは変わり果てたアツシの姿を呆然と眺めていた。謁見の間は広く声がよく響く。兵士は兜を脱ぎたそうにしている。反響する歓喜の声は、赤絨毯は勿論、天井から、壁から反響するようだった。訝しむ軍務大臣がうるさそうに眉をひそめながらアツシに訊ねる。
「では、何か魔術を見せていただけないかな?」
「お安い御用に御座います!ここにありますは一枚の布切れ、見ての通り種も仕掛けもございません!」
アツシがハンカチを取り出して周囲に見せる。表裏共に確認させたところで、軍部大臣がそれを制止した。
「待ちたまえ、それでは実力が見えません。ここは一つ、実戦を見せていただけないかと」
アツシは首を傾げてとぼけて見せる。
「おや?つまり私に罪のない何者かを傷付けよという事ですか?」
アツシが尋ねると、軍部大臣は悩ましそうに唸り、ロットバルトに助けを求める。それを請け負うように、ロットバルトは答えた。
「では、罪人ならば問題ないのか?」
「いえ、我々は雷の掟を順守する者、故にその罪科が一世万象を以てしても救済されることのない罪科、もとい罪禍でなくば許されざることでしょう」
これはまずい、ラビンスキーは直感で確信した。女王はそれに気を止めることもなく、客人が来たことを素直に喜んでいるようだ。謁見の間が血に染まるのではないかとざわつく兵士の声が、密やかに聞こえる。謁見の間の支柱が見定めるようにアツシを見おろす。教会の尖塔を思わせる佇まいだ。周囲のざわつきを多少気にしつつも、ロットバルトは不服そうに兵士に指示をする。
「承知した。では、死刑囚を呼びなさい。郊外で処刑する」
「ちょっと待ってください!」
思わず叫んだラビンスキーに周囲の視線が向く。アツシは自分がこれから人殺しをするにもかかわらず表情一つ変えず涼しい笑みを浮かべていた。ラビンスキーは自分の立場も忘れて赤絨毯の手前まで歩を進める。支柱によりかかる重苦しい雰囲気を察してか、玉座にもざわつきが広がった。
「アツシ君、君は今から自分が何をさせられるのか分かっているの?」
兵士は槍を構え、ラビンスキーを牽制している。矛先はラビンスキーに向けられていたが、安全に配慮してか布で隠されていた。アツシは視線をくるりと一周する。ラビンスキーに目を合わせると、両手で天を仰いだ。
「何という僥倖!私はここに至上の愛徳を見た!清浄なる魂の在り様はまさしく主の寵愛するものに他なりません!嗚呼、ラビンスキー様、汝に福音が在らんことを!」
「話をそらさないで!君はまだ子供だ、そんなことはしてはいけない!」
アツシは急にラビンスキーに向き直り、腰に手を回し、背むし男の様に近づく。ラビンスキーの顔をまじまじと見つめ、その周りをゆっくりと周回し始めた。
「はて、自由とは一体何者であったか?」
「は?」
「貴方が仰ったのでしょう?私は自由なのだと。然らば、自由を定義する必要が御座います。自由とは、フリーか、あるいはリヴァティーか。即ち、責任を伴う自由か否か。或いは、自然状態か社会状態か。私の粗末な知識からでは、間違った解釈が生じることは御座いましょうが、誠に、誠に僭越ながら申し上げますと、私は社会状態下におけるリヴァティー、責任の下において自己の権利を享受するものであると解釈いたしました」
アツシが隣を横切るたびに、ユウキがびくつく。ラビンスキーは君の悪さに思わず足を竦ませ、視線だけでアツシを追いかけた。
「嘆かわしい、何と嘆かわしい事か!自ら人に自由を与えながら、自ら自由を定義することを怠るなど、愚の骨頂に御座います!私は法の下に自由であり、異端審問官としての職務は触法なぞするはずもございません、即ち、私は自由の下、その制約下において、自由を享受しているに過ぎない!」
アツシは奇妙に体をくねらせながら、ラビンスキーに迫る。仰け反るラビンスキーを見たアツシは、恍惚としながら奇声を上げた。
「そう、私は秩序の中において、自由に律せられるに過ぎない!ここに言う自由とは単に呪い、或いは苦役に他ならない!然らば、自由なるものは如何様に定義するべきか?欲望のままに生きるも、誠実の下に生きるも、隷属に他ならないというならば、わが身は如何様に在るべきか?」
「……っ君は、何とも思わないのか?」
「ええ、無論。自由が斯様な物であり続ける限りは、私は所詮機構。教会の、或いは今は王国の忠臣に過ぎぬと言えましょう」
アツシは何事もなかったかのように女王の御前に戻る。背中を見せないように非常に丁寧に歩む様さえ、禍々しく映った。アツシが絨毯の中央に戻ったタイミングで、兵士の一人が戻ってきた。
「死刑囚を五人ほど、解放いたしました」
「よろしい。では、アツシ殿。始めたまえ」
「叶えましょう、叶えましょう!皆様にご覧に入れましょう!必ずや、一人残らず殲滅いたしますとも!」
教会よりも重苦しい空気の中、大臣、女王、兵士、を残して、一同は郊外へ移動する。一切歩幅を変えないアツシの背中は、楽しそうですらあった。




