戦火の足音1
シモノフの部屋には大切に保管された大量の親書と、内外問わずに記載されている国際的な動向に関する報告書があった。机上の箱には資料がまとめられており、現在最も重要な外交に関する国々の情報はここに集められているらしかった。ルシウスの部屋とは違った乱雑さがあったが、決して無秩序というわけではないらしく、扉を中心にして東西に国家ごとの資料を集めているらしかった。
「一体何が起きたんですか?」
ラビンスキーがシモノフに訊ねると、シモノフが重い口を開いた。
「……プロアニアに宣戦布告された」
「……は?」
シモノフはこちらが言いたいとでも言いたげに首を振る。親書が渡ってからしばらく、これから返事が来るだろうことは期待していたが、余りにも想定外の返事であった。
「いや、ちょっと待ってください。どういうことですか?」
「これを」
シモノフは書簡を手渡す。ラビンスキーが受け取ったのは、確かにプロアニアの王の捺印がある、本物の親書だった。ラビンスキーの目に飛び込んできたのは、最後通牒の文字だった。ラビンスキーは思わず目をひん剥く。シモノフも初めは同じ反応だったらしく、駆けつけたロットバルトに目もくれず、その要求に目を通した。
「……ふざけるな!何だこの要求は……!」
「何が書いてある!貸しなさい!」
ロットバルトはラビンスキーから手紙を取り上げる。すぐに怒りに震える手を下ろすと、頭を抱え出した。
「いや、待ってくれ……。どういう事だ……。これは、この国を属国にするという宣告と取っていいのか……?特産品、貨幣の鋳造権、毛皮の独占権、徴税権、領国緩衝地帯のプロアニア領有権を承認……。いくら何でも勝手が過ぎる。こんな王ではなかったはずだぞ……?」
「とにかく、会議です。ここからは外交官ではなく、軍と国家の決定に任せるよりほか有りません。ラビンスキー君と私はエストーラの件を片付けます卿はどうか、わが国の為にご英断を」
半ば放心状態のロットバルトは、シモノフに手紙を返すと、ぶつぶつと呟きながら荒々しく扉を閉めた。
「……ロットバルト卿は大丈夫でしょうか」
「あれは既に戦争の合理性を考えているのだろう。もっとも、断る理由はない、既に兵と戦費の調達に頭が回っているのだろうね。我々は少しでもこの国の敵を減らそう」
ラビンスキーはただ、「はい」と答えることしかできなかった。シモノフは返事を確認すると、鷲紋章の捺印がある書簡を取り出した。それは、エストーラに住む皇帝の親書であることを表す。ラビンスキーは大きく深呼吸をして、それを開く。独特の癖のある字で書かれた言語は、プロアニアとエストーラの公用語だった。
「……これって!」
ラビンスキーは明るい声でシモノフを見る。シモノフはあくまで冷静に、しかし喜びを隠しきらずに答えた。
「こちらからは良い返事がもらえたね。まさかこちらがあってくれるとは思わなかったが、いい交渉にしたいものだ。まずはエストーラと同盟を結んでもらうことにしよう」
シモノフはエストーラに関する極秘の報告書を開き、ラビンスキーに見せた。積み上げられた過去の記録の蓄積から、この国の外交官がいかに国際情勢に敏感に動いてきたかを裏付けている。
ラビンスキーは報告書を読み、エストーラに関する情報を整理した。まずは、教会との対立の経緯であるが、かつてからの教皇領問題や皇帝の聖職者叙任権闘争や、戴冠式の場所を皇帝が勝手に変えてしまったことに対する怒りからきているらしい。加えて、皇帝の領土内チキンレース、異端との戦いに一切関心を示さないことなどが原因らしい。結局のところ、彼は教会の権威を見事に凋落させて見せたらしい。これでは教皇が怒り狂ったとしても仕方がない。そして、新たな選帝侯であるプロアニアを脅威に感じていることは間違いないらしい。プロアニアはペアリスとの間にあるため、エストーラとペアリスの婚姻政策にも影響があるのかもしれない。いずれにせよ、ブリュージュという肥沃で巨大な文化先進国を明け渡さないように必死なようだ。
「……何となく見えてきました。ペアリスとエストーラの間に立ってブリュージュの権利のごたごたを有利に進めさせること、そしてプロアニアを囲んで優位に立つこと、教会の庇護から離れる事……これくらいが目的なのでしょうか」
「そうだろうね。となれば、同盟関係を結んでブリュージュとの婚姻を成功させることが優先だろう。教皇庁の件はその後だ」
シモノフは報告書をなぞりながら言う。それに合わせるように、古い紙特有のにおいがラビンスキーの鼻についた。
「……つまり、プロアニアはそれを見越した可能性もあるのでは?」
「いや、直近でペアリスと戦闘を行っている以上、考えづらいだろう。プロアニアが負けていればそうなってもおかしくはないが、あの戦はプロアニアの完勝だそうだ」
シモノフの声が小さくなる。ラビンスキーは報告書を手に、思考を巡らせる。シモノフは小奇麗な壁に囲まれた良質の杉の書棚から、ペアリスの資料を取り出す。ペアリスの戦績はかなり神経質に記録しているらしく、一戦一戦について詳細な記録が残されていた。そして、ラビンスキーは思わず自分の目を疑った。
「プロアニアは、この数で完勝したのですか!?」
ムスコールブルクに通り雨が降り始める。黒く厚い雲から降り注ぐそれは、雷を伴って巨大なベールを作り出す。
(胸騒ぎがする……)
ラビンスキーは、これから本物の戦争が始まることを覚悟した。




