プロアニアの賢王
ラビンスキーはこれから関わることになるプロアニアに関する資料を相当数読み込んでいた。とりわけ注目したのは、プロアニア王のフリック王についてである。彼は賢王とまで呼ばれ臣民に親しまれており、行軍には常に多大な食料の寄付が寄せられてきたという。土地の痩せたプロアニアにとって、食料の寄付とは即ち自分の命の一部を国家に捧げる事であり、ムスコールブルクでさえそこまでの信頼を置かれた王はいない。これが道中の略奪だという疑いもないではないが、少なくともそのような話は誰も記していなかった。むしろペアリスの王はそれよりもずっと酷い書かれ方をしており、やれ蜘蛛だ、やれ詐欺師だと酷い言いようだった。同様にエストーラを支配する皇帝も、臆病者だケチだと散々な言われようであった。
そんな賢王はつい先日ペアリスと戦ったらしかった。結果は大勝、その場にロイ王はいなかったらしいが、彼はこれを以て広大なブリュージュの銀鉱山を獲得した。これで鋳造した銀貨はブランドブラグ伯銀貨と呼ばれているらしいが、厳密には領内鋳造した銀貨がそう呼ばれているにすぎないのであり、決して銀鉱山から採掘された銀貨をそう呼ぶわけではないらしい。戦局は不明だが、巨大なペアリスの軍勢を打ち負かした彼が英雄として讃えられるのは当然と言えるのかもしれない。
城の内装にも慣れ始めたラビンスキーは、兵舎に赴いて兵士たちとプロアニアやペアリスについて話を聞いて回っていた。
「こんにちは」
ラビンスキーがそう言うと、兵士たちは敬礼して軍部特有の挨拶を返してくれた。ラビンスキーもそれに倣う。
「お疲れ様でございます、ラビンスキー様」
「お疲れ様です。今日はいい天気ですね」
「えぇ、穏やかでいい天気です。例の件はどうですか?」
彼は槍を地面につけ、リラックスした姿勢で返答した。彼ら兵士は近衛兵であり、主に王宮の警備と内勤を業務としている。とはいえやはり兵士であり、国際政治に対する関心は非常に強い。
「えぇ、親書をお渡ししました。そろそろ返事が来る頃かと思います」
「ペアリスだとまだ暫くかかりそうですね」
「一番遠いですからね。とはいえ、二正面からの攻勢を受けたくないプロアニアからすれば、願ってもいないチャンスだと思いますよ」
「こちらとしても技術交流が盛んになれば西方化にまた一歩近づけますからね」
「えぇ、エストーラの方は望みが薄いかもしれませんが……」
彼は兵舎の貯蔵庫からこっそり購入していた蜂蜜の菓子を取り出して口に放る。周囲の兵士は武器の手入れをしている者もいれば、チェスを楽しむ者もいる。勤務中というのに緊張感がかけらもないのは、この町がここ数年平和そのものだったからかもしれない。玉座や革命の血の跡も、彼らにとっては遠い日の記憶なのだろう。
「そうですか?エストーラはペアリスや教皇庁と対立していますし、直近で異教徒の侵攻に晒されているのはエストーラですよ。教会の守護者といえど、上方からの侵攻は避けたいでしょう」
「……そうですね。しかし、逆に言えば教皇庁からの守護者の威光を失いたくはないかもしれません。これまでもあったじゃないですか、そういう事件」
「ガルチアの屈辱ですね」
「そう、それです。ですから、下手な動きは見せてこないと思いますよ」
彼は蜂蜜菓子の口を結び、再び隠す。武器の手入れに満足した兵士が、今度は別の兵士の分までやり始めた。鉄のカチャカチャという音と共に、子供をあやすような野太い声が聞こえ、ラビンスキーはそれが鍛錬の類として行っているわけではないと知った。
「うぅん、どうでしょうね。先日のイグナートの俗語聖典の件もそうですが、教会へ対する不満はどこも溜まっていますから、仮想的として大衆のプロパガンダに使えるとも言えます」
「腕の見せ所ですよね。勝算は?」
兵士は鎧の間の鞣革で手を拭き、槍を持ち直す。ラビンスキーは自信ありげに答えた。
「何とかして見せますよ、こちらもプロですから」
「よろしくお願いしますよぉ、俺達だって巻き込まれたくないんですわ」
兵士は冗談めかして言う。ラビンスキーも笑って返す。武器の手入れをしていた兵士が、磨かれた刃先にうっとりしていたところ、その雰囲気を壊すように大きな開閉音が響いた。一同が思わずぎょっとしたのは、シモノフが息を切らせてやってきたからだった
「ラビンスキー君、すぐに来てくれ。大変なことになった」
兵士はラビンスキーの方を見る。ラビンスキーも身震いした。シモノフが息を整える間に、ラビンスキーはほとんど反射的に答えた。
「はい。わかりました」
兵士たちの囁きを背中に受けて、ラビンスキーとシモノフは兵舎を後にした。
はい、聖俗紛争はこれにて終了です。次章は規模が大きくなります。また、若干グロテスクな表現も増えるかと思いますが、悪しからず。
 




