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ラビンスキーの異世界行政録  作者: 民間人。
三章 聖俗紛争
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進捗

 これまで通りに戻っただけだったのにもかかわらず、何となく物足りないような、落ち着かないような感覚を覚えた。ラビンスキーさんの席が空いてまだ一日もたたないのにもかかわらず、心のもやもやは消し去ることができない。ルカさんは隣でラビンスキーさんから引き継いだ仕事をこなしている。欠伸も交えながらではあったが、それなりに様になっている。ハンスさんは相変わらずであり、眼鏡を掛けて報告書を読んだり、今度の会議の資料を確認したりしている。こちらはとにかく読むのが速く、訓練された官僚の姿を見せつけられているようだ。外は変わらず賑やかだが、教会の前ではクリメントの退陣を求めるデモが起こっているらしい。


 僕はというと、苦情の処理に明け暮れていた。最近では乞食の文句を言う人は減ったが、代わりに教会の処分に対して行動はないのかという明らかに場違いなものが増えた。そういった書類を捲っていくと、外のデモがうるさいから何とかしてくれという意見書があった。それまでの意見書の流れを思い思わず吹き出したが、そもそも都市衛生課へ対する苦情というものはこういったものの方がよいのではないかと言う気もする。


 心が晴れないままで終業の鐘が鳴り、ハンスさんとルカさんが伸びをする。僕は急いで意見書をまとめ、周りに合わせて立ち上がった。


「おい、アレクセイ。今日も呑もうぜ!」


 ルカさんは陽気に僕の肩に手を回す。僕はそれを丁寧に払い、答えた。


「えぇ?昨日呑んだばっかりでしょう」


 僕が言うと、ルカさんはいいから、いいから、と僕を部屋から押し出す。ハンスさんは資料を片付けながら、笑顔で手を振っていた。



 ストラドムスの近くにある酒場は安月給に優しい。部屋の装飾や机、椅子までとことん節約した結果、メンテナンス費用の代わりに非常に安価な商品を提供できるようになっている。立ち飲みの席もあり、そこなら代金を5%引してもらえる。勿論今夜は席について食事を摂ることになった。


「かーちゃん、エール!二杯!」


「はいはい待ってな!」


 恰幅のいい店の看板娘がそう返事をしてジョッキをガタつける。ルカさんは楽しそうに鼻歌を歌う。エールを注ぐ音に合わせて鳴らしているらしいが、僕にはそのようには聞こえなかった。


「はいおまたせ!ごゆっくり!」


「おう!それじゃあ、乾杯するか!」


 ルカさんはそういってジョッキを持つ。僕もそれに合わせてジョッキを持ち上げた。


「かんぱーい!」


 ジョッキをぶつけ合い、お互いに景気よく飲んだ。喉ごしがよく、気分を高揚させる適度な苦みがのどを突き抜ける。僕は一日の鬱憤を晴らすように豪快に一杯目を飲み干す。一気に顔が赤くなった。周囲を見回しても遜色ない色となり、微かなランプの明かりが、仄暗い店内に漂う埃に反射して輝いている。


「いい飲みっぷりだ!たまらんね!」


「ぉぉぉぉぉ……」


 自身の意志とは関係なく、空気が抜けるような声が漏れる。一気に腹に溜まる感覚が実に気持ちがいい。いつもの通りチーズをつまむ。臭いはきついが、濃厚でしょっぱい。酒のつまみにちょうど良い味だった。ルカさんは二杯目を注文し、僕もそれに追従する。周りの男達もどんどんエールを仰ぎ、声もだんだんと大きくなっている。僕は再びチーズをつまむ。


「ラビンスキーさん上手くやってるかなぁ」


 ルカさんが呟く。僕は急いでチーズを飲み込む。すでに若干腹が重たい気がする。


「大丈夫ですよ、ラビンスキーさんならうまくやってくれますって。手紙の挨拶とか天才的ですし」


「あの人文章力あるよなぁ……。俺、結構ハンスさんに怒られるんだぜ?」


 ルカさんは豪快に笑う。彼はそのまま二杯目のジョッキを受け取ると、豪快に喉に流し込んだ。気持ちよさそうな喉仏を見ながら、今度はやや大人しめにエールを飲む。酒に酔うとしおらしくなってしまう僕にとって、笑い上戸のルカさんはやはり羨ましい酒豪だった。


「……ん?どうした?」


 二杯目も随分飲み進めたルカさんが僕の視線に気づく。僕はジョッキの中の顔を見ながら、自嘲気味に答えた。


「なんというか……焦ってしまって」


「……焦る?」


 ルカさんは首を傾げる。僕のジョッキの中身を覗くあたり、本当に察しがつかないのだろう。エールに映った僕は顔を火照らせ、少し疲れた様子だった。


「ラビンスキーさんは、自分の出来ることを、ちゃんと持っていて、ちゃんとそれを活かして、そして成果を出して、評価されて出世して……。僕にはそれが出来ていないことが、とても恥ずかしいんです」


「……そうか。そうだなぁ。あの人はなんだかんだ上手くやっていけてるよなぁ……。お前は、確かに出世はしないかもな」


 ルカさんはそう言って笑う。エールに映った僕は卑屈に笑みを零す。窒息するような息苦しい笑顔だった。


「世界は俺たちがいなくても回るだろうし、この店だって、俺たちを飲み込んでかき消しちまうもんな」


 なんてことはない、僕はただの官僚。厳しく育てられた長兄、次兄に比べると、どうしても見劣りしてしまう。三人目の兄は、多少変わった人だが、それでも器用で話のうまい、凡庸でない才能を持っていて、女によくモテるらしい。その中で、僕はどうしても見劣りしてしまう。取るに足らないし、凡愚にも値しないかもしれない。遠ざかっていく背中たちに取り残される。


「頭も固い、頼まれるのは書類整理ばかり、成果を上げたと言えるほど、胸を張れる業績もない。これじゃあ僕も……乞食と変わらない」


 途端に悲しくなり、言葉を失った。エールの中身は酷い顔だ。肉の焼ける音と、薄い煙の臭いに少し咳き込んだ。


「いかんのか?」


「いかんのかって……。役に立たない人間は、社会が必要としないでしょう」


 ルカさんは頭を掻く。二杯目を飲み干し、三杯目を注文した。厨房の奥から威勢のいい女性の声が聞こえる。


「必要としないかどうかで言えば、お前は必要な人間だと思うぞ。代わりはいくらでもいるかもしれないけどな」


「代わりはいるじゃないですか」


「ラビンスキーさんや俺やハンスさんには、代わりがいないのか?」


 ルカさんは赤い顔で真剣な目を向けている。


「……」


 何も答えなかったのは、答えがなかったからではなく、答えられなかったからだ。


「この世の中は妙だよな。神様はよくできた世の中を作ってくれてるぜ。大体の奴はどこかには代わりがいて、かけがえのない命なんてなかなかない。それなのに、俺たちは必死に必要とされるように生きていく。代わりはいくらでもいるのに」


 ルカさんに三杯目が届けられた時、ほんの一瞬だったが、中年の看板娘が僕に視線を向けた気がした。ルカさんはチーズを齧り、エールを飲む。今度は勢いはなかったが、これまでのどの一杯よりも大事そうに飲んでいた。


「そんな代り映えのしない、しょうもない俺たちが、こうして社会を動かしてるんだなぁ……。地べたを這い蹲って、泥水を啜って、乞食と代り映えしない生き方で。たまにうまい酒とつまみが食えるから、ちょっとだけ幸せだけどな?」


「ルカさん。ルカさんは……」


 僕が言おうとすると、ルカさんはそれを遮って言葉を重ねる。


「代わりはいくらでもいるなら、必要とされないなら、必要とされるようにすればいいだけだ。少なくとも、俺はお前を要らないと思ったことはないぜ。今も、どうしようもなく手のかかる、かわいい後輩だ。人一倍真面目で、誰かに必要とされようと必死になって……まぁ、そりゃあ、たまに行き過ぎたこともするが、おっかなかったりもするが……。そうやってちゃんと悩んでくれるくらいに、俺たちの役に立とうとしてくれる。なるべく楽したい俺からすれば、他所で自慢できるんだけどな?」


「……」


 埃の臭いが風に乗っている。どんちゃん騒ぎの笑い声が響き、看板娘が大きな声で怒っている。それでも調子に乗った男たちは、エールを片手に大笑いする。僕はくすんだランプの色に置いて行かれないように、二杯目のエールを飲んだ。顔が真っ赤になって、火照る。空いたジョッキを机に置くと、しゃっくりが止まらなくなった。


「……ルカさぁん、今夜は、たんと、飲み、ましょう」


「うーし、飲め、飲め!おーいかーちゃん、もう一杯!」


 ルカさんは手を挙げて大きな声で言う。酔いどれの相手をしていた看板娘がこちらを向いて、威勢のいい声を上げる。


「はいよ!」


 嗚呼、今日はとても飲みたい気分だ。酒がうまくて、しょうがない。

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