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働く女は恋に落ちない  作者: おきのおるか
第2章 恋してなんていません
8/9

第8話

 昨日念入りにパックした甲斐あって、今日は肌の調子がいい。

 鏡に映る自分の顔を見て満足すると、千里は髪を軽く巻いてサイドにゆるく編み込みを入れた。


 続けて顔を作っていく。

 平日は使わないコンシーラーを使い、ファンデーションもパウダーではなくリキッドを選んだ。

 コンタクトを入れ、最近お気に入りの目尻にだけつけるタイプの付け睫毛をそっとまぶたにのせる。

 これも平日はほとんど使わないアイメイク用のパレットを開けて、悩んだ末にほんのりピンクがかったゴールドを選んだ。


 千里はけしてお洒落が嫌いなわけではない。

 ことさらセンスに秀でているわけではないが、自分なりに隅々まで気を遣ってお洒落をする休日のお出かけは大好きだった。


 玄関前の鏡でコーディネートの最終状態をチェックする。

 裾に同色異素材でパイピングがほどこされたチューリップ型の黒のミニスカートに、同じく黒のニーハイブーツ。トップスはやや甘めに丸襟とくるみボタンのブラウスと、サーモンピンクと白をベースに折り合わせたツイードのノーカラージャケット。そして白にほど近いパールベージュのすっきりと細身な革のコート。

 バッグは辛口に戻って、型押しで模様を入れた黒のスクエアにした。


 ヒールで歩く街は普段よりも少しだけ広く感じられる。

 しんと冷え込んだ澄んだ空気は心地よく、街路樹からこぼれ落ちてくる陽の光は休日を祝福するかのようにきらめいていた。


(待ち合わせの時間まで余裕があるから、本屋さんにでも寄ろうかな)


 今日は友人と映画を見に行く約束なのだ。

 もちろんメインはその後のお茶とお喋りである。

 会社の中で常に一段構えて人と距離を保っている千里にとって友人たちと繰り広げる屈託のないお喋りは貴重なくつろげる時間だった。

 平日は時間と意識のほとんどを仕事に捧げている分、メリハリをつけて休日はいつも思い切り余暇を楽しもうと決めている。


(莉央(りお)は夕方には帰るって言ってたから……

最近評判だっていう丸亀堂のパン屋さんに寄って明日の朝食べるパンを買おう。

ついでにプラタナスによって新しい服とかバッグとか見て、バーで軽く一杯飲んでから帰ろうかなあ)


 ここのところ残業ばかりで忙しかったので、余計に遊び回りたい気分が強い。

 明日の日曜日は家でゆっくり過ごすとしても、今日一日は外で思い切り好きな事をしよう。

 そう心に誓って、千里は地下鉄の改札を通り抜けた。



* * * * *


「映画、結構よかったね!

 最近生活にラブ成分が足りなくてー、ちょっとだけ補充されたかも」


 莉央はにこにこと笑いながらフルーツタルトにフォークを入れている。


「ラブ成分って、莉央は長くつきあってる彼氏がいるのに」


「だからですー。長いとだんだん日常になってラブはなくなってくる」


「そう言える地点に到着しているところが私には羨ましい……」


 半ばお世辞、半ば本音で呟きながら、千里も自分のベイクドチーズケーキにフォークを入れた。

 ポットで運ばれてくる香り高い紅茶と、ソースで飾り付けられた上質のお皿の中央にしとやかに鎮座するケーキのセットは優雅な午後のお茶にふさわしいが、会話は若干情けない。


「千里、前の彼氏と別れてどのくらいだっけ?」


「半年くらいかな。でも、当分彼氏作るの無理だと思う。

 今仕事がほんとに忙しくて、とてもじゃないけど余裕ないし。

 もう少し仕事できるようにならないと……」


「彼氏が作れないくらい忙しいって、ほんとにー?」


「ほんとに。どんなに頑張っても帰りが毎日10時はすぎるから、飲み会とかにもなかなか行けないし。

 まあ、今特別に忙しい時期だけど、あと1ヶ月くらいはこのままかな」


「ええっ! 今までそこまでじゃなかったよね? 何があったの??」


 引いている莉央に軽く状況を説明する。

 やっとサブリーダーに任命されて、しかも今回のプロジェクトが千里にとってさらに大きなチャンスになること。

 人間関係のストレスがなくなって、いい職場であるということ。

 自分がぐんぐん成長できている実感があって、仕事が今、とても楽しいこと。

 そして、尊敬できる上司に出会えた上に、最近やっと信頼関係の構築が出来てきたこと。

 今はトラブル対応中で、あと1ヶ月は身動きがとれないということ。


「でもね。

 この1ヶ月乗り切ったら、すごく自分の自信になると思うんだ。

 プロジェクトもそう。こんなにいい環境って滅多にないから、私、今はこの仕事に賭けてるの」


 千里は最後にそう言って話を締めくくった。

 ふんふんと親身になって話を聞いてくれていた莉央は、はーと溜め息をついて見せた。


「千里ー。

 すっごいチャンスなのはわかるよ。ぜひとも頑張って、と応援するよ。

 でも! 恋愛は恋愛でちゃんとしないと、今もう私たち27だよ?

 彼氏探す余裕くらい、作りなよ」


「う……それはわかってます、はい……」


「なーんか歯切れ悪いなぁ。

 毎日忙しいったって、休日出勤はないんでしょ?

 だったら明日でも来週でも、いくらでも飲みにいけるでしょー」


「……そうなんだけど……

 仲良くなるために毎日メールのやり取りしたりする心の余裕が今はない……」


「千里! この年齢でそんな事言ってちゃ駄目!

 だったら会社の人はどうなの? その上司とか、結構いい感じじゃない。

 それなら職場でも会うんだしー」


「ん? 上司??

 って、誰であっても絶対に嫌だよ、会社の人は!」


 誰の事だ、と首を傾げかけて、慌てて千里はきっぱりと言い切った。

 恋愛と仕事への情熱、2種類の全く異なる感情は別々の場所で管理しておきたいのだ。

 重ねてしまっては混乱するし面倒事も多いのに、なぜみんな躊躇なく社内恋愛に踏み込めるのか、千里は以前から不思議でならなかった。


「んー、なんかほら、千里がスケジュール管理してる人。

 あははは千里に管理されてるなんて上司って感じしないけどねー。

 でも技術は高くて顔も売れてる有名人なんでしょ?

 結構いいと思うけどなぁ。話聞いてたら千里も嫌いじゃなさそうだったし」


「桂木さんね。桂木さんはほんといい人だよ。

 頭良くて、視野広くて、技術も凄くあって、人間的に嫌なところ全然なくて。

 でも! 恋愛(ラブ)ではなく尊敬ですから、尊敬」


「尊敬できるところがないと相手のこと好きになれないくせに。

 そもそも千里、頭のいい人タイプだよねー。」


「……っ、それはそうなんだけどっ、それとこれとは別だってば……!」


 さすが付き合いの長い莉央は千里の好みをわかっていらっしゃる。

 鋭く好みを指摘されて、千里は赤面した。

 どういう男が好きかなんてはっきり話した事はないはずなのにばればれだ。


「ふふー。動揺するってことは可能性有りだね」


 莉央は千里が顔を赤らめたのを見て満足したのか、にこにこと笑っている。

 千里は必死になって否定した。


「莉央!

 そもそも私、会社では女として見られたくないし、服も顔も地味にして態度だってキツくて女捨ててるの知ってるでしょ。

 会社で恋愛なんてしたくもないし、そもそもあんなキャラで働いてて今さら会社の人と恋愛なんて出来ないよ」


「んー」


 莉央はふと真面目な顔になり、少しの間考え込んだ。


「……でもさ。

 その桂木さんて人は、結構千里の好みなわけでしょ。

 好きになっちゃうかもしれないじゃん。そしたら千里、どうするの?」


「好きになりませんっ。

 会社の人とは絶対恋愛しないし、好きにもならない!」


 そもそも好みでもなんでもない、と言いかけて、千里は発しかけた言葉を飲み込んだ。

 「尊敬できるところがないと好きになれない」「頭のいい人がタイプ」という莉央の指摘はその通りだ。そして桂木には嫌いなところがない。


(会社の人だったから今まで考えたこともなかったけど、確かに好みのタイプだ)


 一瞬頭をよぎったその考えを慌てて振り捨てる。

 これ以上動揺を誘われてはたまらないとさらなる否定を口にしかけた千里だったが、莉央は千里をいじるのに十分満足したのか、さくっとこの話題から引いてしまった。


「ふぅん、そっか。

 まあそれなら仕方ないねー。

 じゃぁ、飲み会でもなんでも、ちゃんと行きなよね」


「う、うん……」


 もっと完全に、如何にその可能性がないかを主張しようとしていた千里の胸に、消化しきれない軽い動揺が残される。


(いやいや、そんな主張するまでもなく納得できる内容だったって事だし)


 元より継続したい話題でもない。

 まだかすかに残り続けている動揺を振り捨てるように、千里も話題を切り替えた。


「ところで莉央は最近どうなの?

 彼氏とはうまくやってるんでしょ?」


「んー、それがねー。

 相手のお母さんが……」


 莉央は莉央で話したいこともあったのか、無事に話題は切り替わった。

 今度は千里が莉央の話を親身になって聞き、そのままかわりばんこにお互いの近況報告に、雑談にと明け暮れる。

 そして気付けば土曜はあっという間に夕暮れの時間を迎えていた。


 久々に会う友人とのお喋りの時間は、なんて一瞬で過ぎ去ってしまうのだろう。

 名残惜しさと、またいつでも会えるという安心感。

 それでも休日の夕暮れは、どこか切ない気分になる。


「また遊ぼうねー!」


 莉央は大きく手を振って、地下鉄の駅へと降りる狭い階段に吸い込まれていった。

 千里も自然な笑顔で手を振り返して莉央を見送る。


「うん、またねー!」



* * * * *


「西村さーん!」


 週明け月曜日。

 会社に出社中だった千里が名前を呼ばれて振り返ると、歩道の少し後ろの方にいる南が千里の姿を見つけて小走りに駆け寄ってくるところだった。


「おはよう、南さん」


「おはようございます、西村さん」


 息を弾ませて千里の隣に並んだ南は、きちんと挨拶をすませると、すぐにそのまま物珍しそうに千里の顔を覗き込んできた。


「西村さん、今日は髪をまとめてるんですね。イメージチェンジですか?

 ……なんか……普段にもまして「仕事の女!」って感じですけど……」


 口ごもり気味なのは、どうコメントしていいのか迷っているのだろう。出来るだけ当たり障りのない範囲で上手くコメントしてきたなと思う。

 眼鏡にひっつめ。1つでも地味要素たっぷりだが、組み合わせるとダサさと迫力が同時にアップする鉄板コンビである。加えて今日の服はカッターシャツに黒のパンツスーツ。

 シャツが無地の白ではないのでかろうじて新人3点セットのような印象からは外れているが、千里も今朝、玄関前の姿見で自分の格好を確認した時には我ながらなんて固い雰囲気なのだろうと自分で感心してしまった。


「うん。ちょっと気合いを入れようと思って」


「今の西村さんのプロジェクト、忙しそうですもんね。

 私ももうすぐ最後の追い込みに入るんです。その時期は忙しくなるんだろうなぁ」


「この仕事はどうしても納期直前になると残業が多くなりがちだよね。仕方ないけど」


「ですねー。仕方ないけど、でもやっぱ嫌です。

 あ、そういえば西村さん聞きました? 事務の相川さん、復帰するらしいですよ」


「へー、もうそんな時期? お子さんの保育園、見つかったんだね」


「大変だったらしいですけどねー」


 会社に着き、エレベーターが来るまで南はそのまま社内の色々な人間の近況を教えてくれた。噂話や女子トークにほとんど加わらない千里は初めて聞く話も多く、ひたすら聞き役に徹している間にあっさりとエレベーターがやってくる。


「それじゃ、ここで。またそのうちランチでもご一緒してください」


「うん、今はバタバタしてるから軽く済ませることが多いけど、落ち着いたらぜひ」


「はーい、また声かけますね!」


 賑やかに喋り散らして南が自分の机に去って行くと、千里はほっと息を()いた。


(髪型の理由、適当に誤解してくれてよかった)


 台風の襲撃は1ヶ月も前で、忙しさに向けての気合いなどとうの昔に入っている。

 それでもこの時期に急に千里が髪をひっつめにしたのは、もちろん別の気合いを入れるためでーー。


「おはようございます」


「おはようございます、西村さん。早いですね」


 自分の席にバッグを置き、コートを脱ぎながら千里は挨拶をしてきた桂木の方を見る。

 桂木は、眠気覚ましなのか湯気のたつ珈琲を持って、いつもの穏やかな笑みと力強い眼差しで、千里の目をまっすぐに見つめていた。


「最近新人さん達も仕事のスピードが早くなってきまして、高橋君の作業、予定より早く終わるかもしれないので、次の仕事の資料を早めに仕上げておこうと思いまして」


 パソコンのスイッチを起動して、まだ起動画面なのだから本当は見る必要などないのに、画面を見つめるふりをして視線をそらす。


(私はこのプロジェクトで最高の成果を出したいし、会社の中で恋愛なんてしたくない。

桂木さんを好きになったりしないし、会社(ここ)では仕事のことしか考えない。

今までだってそうしてきたし、これからだってずっとそうだよ)


 土曜日に莉央に言われたあの言葉。

 好きになっちゃったらどうするの? という問いかけ。

 あの問いに、あの時、思いっきり否定できなかったためにほんの少し残った動揺を押しつぶす。そのために千里は今日、気合いを入れて出社したのだった。


(恋って日常の中でするものだし。

仕事モードの私は恋に落ちたりしない。

働く女は恋に落ちない!)


 清々しい朝の光をうけて空中を漂う塵がかすかに光る。土日はオフィスの清掃も入らないので、週明けはどうしても埃がたまりがちだ。

 千里は暖房の温かい空気をできるだけ逃がさないように気をつけながら、少しだけ窓を開けてまわった。冬の外気は冷たくて、その冷たさが千里の気合いを凛と支えてくれているような気がした。

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