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働く女は恋に落ちない  作者: おきのおるか
第2章 恋してなんていません
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第7話

「突然ですが、これから台風が襲撃します。

 みなさん準備はよろしいですか」


 ある日、客先での打ち合わせから帰って来た桂木は、メンバー全員を見渡してこう告げた。


「え? 台風ですか?

 天気予報では特に言ってませんでしたけど……」


 そもそも11月に台風は来ない。

 よほどの異常気象でなければ、だが。

 心中で新人の高橋君のボケっぷりに突っ込みを入れながら、千里は溜め息をついて桂木を見上げた。


「どのくらいで収まりそうな台風ですか」


「んー、1ヶ月くらい?」


「わかりました」


 すうっと息を吸い込んで、事態の飲み込めていない新人たちに桂木の言葉を翻訳する。


「これから1ヶ月、残業三昧の日々です。

 残念ですが、皆さん覚悟を決めましょう」



* * * * *


「かいつまんで何があったんですか?」


 桂木と2人で会議室に入ると、千里は開口一番そう聞いた。

 これから台風を乗り切るための緊急打ち合わせをするのである。


「ちゃぶ台返しですね。

 まあよくある事なんですけど、今回は2ヶ月分が吹っ飛びました」


「に、2ヶ月分……

 なんだってまたそんな事態に……」


 それは千里がこのプロジェクトに入ってから働いてきた分が、ほぼ全部パーという事ではないか。

 既に決定事項であることは何をどう言っても覆らないという事は重々承知の上だが、千里はさすがに落ち込んだ。


「僕も詳しいことは知りませんが、向こうの社内で調整が上手くいかなかったみたい」


「今後調整をしてからうちに依頼を出すようにお客様によろしくお伝えください」


 ショックの大きさに思わず机に突っ伏し、恨めしげな表情を隠せないまま千里は低く(うめ)いてみせた。


 ちゃぶ台返しとは、言うなればお客様に「あ、そこの花壇はやっぱりチューリップじゃなくて薔薇植えたいから、変更しておいてー」と言われるようなものである。

 紙の上で様々な数字とともに資料や図面として見せられる「完成予想図」は千里たち専門職にとっては想像が容易でも、お客様にとってはそうではないらしい。


 だから途中でよく変更を求められる。たいていの場合、お客様のイメージが湧く頃には既に具体的な作業に入っているので、花壇の例で言うならば植えかけたチューリップを全て廃棄して土壌を入れ替え、薔薇を育てている職人を呼び直して植え直す、というようなことになる。


 基本的に、出来る限りの要望は受け入れつつ、本当に無理なところは断るのが鉄則だ。だから桂木が「ちゃぶ台返し」をそれでも引き受けてきたのにはそれなりの勝算があるからだろう。

 実際、未だにショックの収まらない千里と違って桂木はあまり動じた顔も見せずに飄々(ひょうひょう)としている。


「まあ、これだけ大きいプロジェクトなら道中に台風の1つや2つくらいはあるでしょう。

 想定内ですよ、想定内」


 その動じない態度は堂々としてリーダーらしく大変立派である。

 立派ではあるのだが、千里はふと、何かが記憶の底をかすめて机に突っ伏したまま顔をしかめた。

 しかめっ面のまま黙した千里の様子がさすがに気になったのか、桂木が近づいてきて千里の顔の目の前でひらひらと手を振っている。


「西村さん? もしかして怒りました?」


「いえ、怒ってはいませんが」


 ショックから立ち直るのに少し時間が、と続けかけて、千里は顔面近距離でひらひらと揺れている邪魔な手をやおらがしっと掴んで机に固定した。

 ……思い出した。

 起き上がって剣呑な眼差しで桂木の顔を思いっきり見つめ返す。


「……桂木さん」


「は、はい」


「私、最初に桂木さんにご挨拶した時の事思い出したんですが」


「はい」


「あの時、余裕綽々だと(うそぶ)きながら、客先との打ち合わせの時間、ヤバかったですよね?

 つまり、桂木さんのその態度から推測するに、やっぱり今の状況はかなりヤバいんですね?」


「……」


 いきなり迫られて、桂木は戸惑ったように瞬きした。


(あ、意外と睫毛長い……しかも、綺麗なカール)


 ついそんな事を考えてしまうのは現実逃避の賜物である。

 しかしそんな現実逃避の時間もつかの間、すぐに千里は、桂木から否定してほしかった質問を肯定された。


「はい。ですから台風です。

 今後1ヶ月はかなり厳しい状況になると思います」


 千里の経験からいっても、積み重ねてきた作業が2ヶ月分も全てなくなるというのははじめての体験だった。「ちゃぶ台返し」はこの仕事をしていく上である程度致し方のないものとはいえ、その規模が尋常ではないのだ。


 実を結ぶことなく塵芥(ちりあくた)となって消え去ってしまったこの2ヶ月の苦労の数々。

 千里が作業してきた分だけではない。千里が指示し、一生懸命働いてくれた新人達の仕事も、全て灰燼(かいじん)と化した。

 けれど過ぎ去った過去の事に拘ってはいられない。

 先の課題を見つめ、計画を立て、同じように落ち込む新人達に発破をかけながらとにかく前に進まなければ。


 1つ大きく深呼吸。そして1つ大きな溜め息をついて、千里はなんとか気持ちを切り替えた。


「わかりました。取り乱してしまって、申し訳ありませんでした。

 まずは計画の立て直しですね」


「はい。苦労をかけさせてしまって、こちらこそ申し訳ないです。

 計画の見直し用に先ほどの打ち合わせの議事録と、客先と合意してきた全体スケジュールを出します。

 えっと……出しますので」


 なぜかここで言葉を区切って、桂木は困惑したような、恥ずかしそうな顔をしてこちらを見た。


「ひとまず手を離していただけますか」


「……っ、す、すみませんっ……!」


 桂木の手を掴んでいることなどすっかり忘れていた千里は、慌てて自分の手を引っ込めた。

 他人の手を、まるでスカートの布地を握りしめるかのような使い方をしてしまった。

 かああ、と顔が赤くなる。

 自分が赤くなったことがさらなる動揺を呼び、桂木が資料の準備をしている間、千里は恥ずかしさのあまりずっと俯いていた。


 桂木とはもちろん仕事の話しかしない。

 けれどなぜか、最近話していると時々調子が狂うことがある。

 会社の人間と話す時はずっと心の中で距離を置いてきたのに、守ってきたその距離を縮めて自分から歩み寄っていることがある。

 今まで厳密に会社とプライベートを切り分けてきた千里は、そんな自分の変化に少し戸惑いを感じていた。


(桂木さんに嫌なところが全然ないからかな……)


 それにしても失礼な事をしてしまった。

 まだ若干残る恥ずかしさに、印刷された資料で顔を押し隠すようにしながらその中身を読み進める。


 しかし、資料の内容が頭の中に入ってくるにつれて、次第に千里は青ざめていった。

 頭の中身も一気に仕事モードに引き戻される。


 まず、襲撃予定の台風がどう見ても1ヶ月で収まるような威力ではない。

 そして、もう1つ、とてもとても大きな問題がある。


「かつらぎ、さん……?」


 顔を資料で隠すのをやめて、千里は乾いた声で桂木を呼んだ。

 ついでにちょっとでも相手の眼力をはじき返してやろうと目に思いっきり抗議の色を乗せた。


「はい」


「どうして、桂木さん担当の仕事が知らない間にこんなに増えてるんですか?

 こんなの、1人で片付けられるわけがないのに」


「あー。

 お客様に頼まれた事とか、問題が発生してチームだけでリカバリしきれない分とか、僕がカバーするしか方法がないのでそんな状態になっちゃいました。

 まあ締切もそれぞれ違うのでなんとかやりくりしますよ」


「駄目に決まってます! こんなの将来的にプロジェクトが破綻するのが目に見えてるじゃないですか!!」


「いや、ほっといたらそうなりますけどちゃんとなんとかしますから」


「無理です。無茶苦茶です!!」


 今更のように梶田に言われた言葉がフラッシュバックする。


「こいつは他のメンバーに任せなきゃいけない仕事まで全部自分で抱え込んで、身動きとれなくなって破滅するから。それを阻止して。無理矢理にでも巻き取って」


 脳内に蘇る梶田の言葉をそのままそっくり口に出し、千里は桂木をきっと睨みつけた。


「とても遅いですが、今ようやく梶田さんの言葉を実感できました。

 桂木さん。私は何が何でもで桂木さんを支えて台風を乗り切ってみせます。

 その代わり、今後一切隠し事はなしにして下さい」


「いえ、隠し事をしていたつもりではーー」


「では計画の立て直しの時は必ず私を呼んでください。

 1人で計画を絶対にしないと約束してください」


「いえ、でもですね、西村さんにだって今かなりの量の仕事がーー」


「桂木さんの私への信頼が足りないようならまたいつでも飲みにでもなんでも行きます。

 とにかく駄目です。絶対駄目」


「……はい」


 上司に対する態度とはとても思えないが、もうそんなの今更だ。

 今までだって、散々遠慮のない口をきいては「辛口の西村」としてやってきたではないか。


 それに、梶田に忠告もされていたのにこんな事態になるまで気付けなかった自分が情けない。

 何よりも、他人を信用しない事を梶田に注意されると言っていた桂木が、千里の事もやはり信用してくれていないのがひどく悔しいし、寂しかった。

 何が何でもこの台風を乗り切ってみせる、と千里は心中で鼻息荒く誓いを立てた。


 こうして、台風の1ヶ月ーーいや、千里の読みでは2ヶ月であるーーが幕をあけた。



* * * * *


「最近、なかなかいい調子じゃない」


 机に張り付いて髪を振り乱し、目を血眼にしてパソコンに見入っている状態を評して「いい調子」とは梶田も相変わらず性格が悪い。

 内心でそう毒づきながら、側に立つ梶田に目もくれずに千里はキーボードを叩き続けた。


「ありがとうございます何か御用ですか」


 今忙しいんです。と全身全霊でアピールする。

 が、梶田は千里の主張を一向に意に介さずに話を続けた。


「うん。

 桂木が信用ならない事がわかって、西村さんの仕事のスピードあがったよね。

 2人の関係も上手くいってるようだし、よかったなと思って」


 この、狸。

 と思うが、相手は現在千里の部署で最上の役職にいる人間である。

 会話を続けるつもりであれば相手をしないわけにもいかないので、千里は仕方なくキーボードを叩く手を止めた。


「……お褒めに預かり光栄です」


 会話している場所は千里の机だ。

 当然、同じプロジェクトで仕事をしているのだから近くには桂木の机がある。

 そして桂木も千里と同じように机に座って必死に仕事をしている。見えていないわけもないので、梶田は桂木にも同時にこの話を聞かせているのだろう。

 千里の口も相当に辛いが、梶田には負けると千里は思う。


「で、どう? 全部やってみての感想」


「……梶田さんの仰る通り、出来ないことでは、なかったですね」


 妙に言葉を区切ってしまうのは梶田に対して色々と思うところがあるからなのだが、梶田の読みは確かにどれも全て正しかった。


 千里が目を光らせて桂木の仕事を巻き上げなければ桂木はなぜか勝手に自分の仕事を増やしている。

 それではプロジェクトが崩壊してしまうので、千里が取り上げて他のメンバーに分配する。

 それを教育やスケジュール管理の仕事と並行して行うのだが、よくよく考えれば桂木が抱え込んでいる仕事は千里でなければできないものばかりではないので、難易度を見て桂木のチームの他のメンバーに割り振るか、自分のチームで巻き取ればいいのだった。


 要するに、少しスケールを広げて桂木や桂木のチームのメンバーのスケジュール管理も千里がやる事でこの問題はおおむね解決した。

 リーダーである桂木の仕事の管理をサブリーダーである千里が行うのはどうにも外聞が悪いような気がするのだが、桂木はその点はあまり気にならないらしい。

 むしろスケジュール管理は本当に苦手な分野だったようで、1度千里が無理矢理仕事をもぎとってしまった後は、集中してどんどんと仕事を片付けているようだった。


 驚くべきはその技術力の高さである。

 造詣も深ければ手も早い。

 なるほどこれは誰かに任せるより自分でやった方が早いと思うはずだ、と納得した。

 実際、他の誰かにやらせるスピードの2倍、3倍のスピードで桂木は仕事を片付けるのだ。

 そして他には誰も解決できないような難題も、桂木に任せるといつの間にか解決している。


 なぜこんなにスペックが高くてスケジュール管理だけが苦手なのかが謎だったが、桂木と千里のコンビは確かにいい組み合わせだと言えた。


 そして千里は、台風の襲来で死にものぐるいで仕事を片付けていくうちに、気付けば今までの仕事ペースよりもはるかに早く仕事を片付けられるようになっていた。

 判断力もあがったと思う。

 どの作業を切り捨てて、どの作業を行うか。どんなやり方で進めれば工期が短縮できるのか。

 今までは自分の専門や他人の専門という区切りで切り分けて、ミクロな視野だけで物を見ていたのだと今ならわかる。

 もっと大きな視野で見渡してみれば、今までには思いつかなかった大掛かりな切り落としや担当する人員の配置かえなどで、昔なら絶望的な状況だと感じることでもまだまだ打てる手はたくさんあったのだ。


 けれど千里自身が、自分がここまで伸びるとは思っていなかった。もっと小さな器に閉じこもっていた千里をたたき壊して大きな器に放り込んだのは確かに梶田なのである。

 その洞察力には感服するしかなかった。


「桂木も。仕事もぎ取られてみて、西村さんが優秀な人間だってわかったでしょ。

 少なくとも細かい管理の仕事は現状、西村さんの方が才能あるから。

 それと「自分がやれば早い」っていう仕事を取られて、本来そんな事より先にやらないといけない仕事も見えたでしょ」


「先にやらないといけない仕事?」


「リーダーの仕事。

 桂木にしか見えないしできない仕事なんて山ほどあるのに、末端の仕事にとらわれ過ぎ」


 つい口を挟んで聞いてしまった千里に、梶田は解説してくれた。

 桂木も仕事の手を止め、静かに梶田の質問に答える。


「……はい。

 西村さんが来てくれて、本当に助かりました」


 じわりと千里の胸に嬉しさが広がった。

 少し前に、上手く動けなくて申し訳ないと謝ったあの頃とは違う。

 自分が確かに役に立っている、上手く動けているという実感がある。

 その実感を桂木も同じように感じてくれているのだとしたら、それはとても嬉しい事だった。


 こうして、本当の意味で組んで一緒に仕事をしてみればわかる、桂木の優秀さ。

 その優秀さに驚き、少しでも追いつきたいと思った。

 自分は本当に凡人で、仕事の視野も自分が自負していたよりもずっとずっと狭くて、まだまだ破らなければいけない殻がたくさんある。

 桂木が戦って来た戦場(フィールド)よりもずっと小さな場所で千里は戦っている。

 それでも少しでも桂木に認めてもらえているならば、幸せだ。


 千里は知らず顔をほころばせた。

 千里のその表情を見て、うん、ほんとにいい関係になったねと言って、梶田は去っていった。




【修正履歴】

2015.10.20 作中の「12月」表記を「11月」に変更

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