表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
働く女は恋に落ちない  作者: おきのおるか
第1章 仕事、仕事、そして仕事
5/9

第5話

 このプロジェクトに来てから、時間の流れが早い。

 ちっとも仕事が進んだ気がしないのに時計の針は早回しでどんどん回って行き、いつのまにかとっぷりと日が暮れる。

 1日の流れだけではなく月間(カレンダー)の流れも同じだったようで、気付けば千里が配下のメンバーと共にプロジェクト入りしてから1ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。


 この1ヶ月を振り返っても、何をしていたのか千里はすぐには思い出せない。

 確かに1つ1つ些細な仕事内容をたよりに記憶をたどれば、ああこの頃はこんな仕事していたなとか、その前はこの仕事を片付けていたとか思い出すことができる。

 けれど普段ならば1ヶ月も経てば「これをやりました!」といえる大きな区切りの成果が出ていたのに、こまごまとした用事に追われて、この1ヶ月は無情にも無為に千里の上を通り過ぎていったように思うのだ。


「なかなか慣れることができなくて、上手く動けなくて申し訳ありません」


 打ち合わせの時に正直に思っていることを申告して千里が謝罪すると、桂木は意外そうな顔をした。

 そんな事考えてたんだ、と顔に書いてある。


「このプロジェクトは規模が大きくて、今までのような区切りにたどりつくまでに何ヶ月もかかるから、西村さんの能力の問題ではないです。

 それに、西村さんが来てくれて僕すごく楽になりましたし」


「……」


 何がどう楽になったのかさっぱりわからない千里は、桂木の言葉にすぐにお礼を言う事ができなかった。かといって、ここでそんな事ありません、などといっても悩み相談になってしまう。

 自分を否定し続けることで、相手から肯定の言葉を引き出し続けるのは一種の甘えだ。慰めてもらう事が目的でないのなら、自重するべき。

 そう考えて、やはりお礼を言おうと千里が口を開きかけると、一瞬早く桂木が続きの言葉を口にした。


「それに西村さんとのやり取りって話してても見てても面白いし。いやー、プロジェクトに笑いの元があるのはいい事ですね」


「……っ、狙ってません!」


 真剣に申し訳ないと思っていたのに、と恨めしげに千里は桂木をにらみ上げる。桂木はそんな千里の様子を全く意に介さず、にやにやと悪ガキのような顔をしている。相も変わらず力強い眼差しはそのままに。


 1ヶ月桂木と共に働いてわかったのは、桂木には結構子供っぽい所があるという事だった。といってもその元となる感情は素直で、手塚のような比較、差別化、妬み、優越感などといった上下や男女に関する感情の類いを桂木からはあまり感じない。

 むしろ感じるのは、もっとずっとシンプルで心地のいい冒険心や気概などだった。そして、悪ガキっぽいなと思うのは、そこにささやかな悪ふざけやからかい、小憎らしい混ぜっ返しなどが大量に含まれているという点だ。

 それら全てを統合して得られる印象を率直に言うならば、放課後いの1番にランドセルを放り出して裏山に探検に行くガキ大将である。


 そして千里の立ち位置は、ガキ大将についていく副将……ではなくて、ガキ大将の「ちゃんとしてなさ」に小言を浴びせかけつつ、捨て置かれたランドセルを拾い上げているクラスの委員長という感じだった。

 ガキ大将は、委員長が乱雑に放り投げられたランドセルに悲鳴を上げながら、ガキ大将について後を駆け出すクラスメイトに堅物な注意を繰り返すのが、それだけで面白くてたまらないらしい。

 実際にはクラスメイトというか千里が教育を任されている新人なのだから、注意して当然だと思うのに、それでも桂木は千里とみんなとのやりとりが面白いようなのだ。

 はっきり言って全く理解できない。


 そもそも桂木が新人に下す仕事の指示が、ガキ大将のたとえで言うなら「行けー!」だの「駆け抜けろー!」だの「とにかく敵を倒せー!」だのとひたすら曖昧なので、千里が声をはりあげて「そこ、水たまり飛び越えて!」だの「生け垣の方に突入したら時間かかるから空き地の方からまわって!」だの口うるさく言うことになるのである。


 現状言われたら言われたままに実行してしまう素直な新人たちに「行けー!」などといったら、泥だの水たまりだのありとあらゆる箇所にはまった上に、ぼろぼろの状態で敵に立ち向かって壊滅することなど目に見えているではないか。


 と、千里がこの例えをーーさすがにガキ大将だの委員長だのとは言えないので、指示周りの部分だけーー出してはじめて桂木に苦情を言ったとき、桂木は大ウケした。

 仕事でこんな例え使う人はじめて見た、などと爆笑しながら、敵ってなんなの? 水たまりは?? などと細かい事をいちいち訊いてきた。あの時のやり取りを思い出すと千里は今でも頭が痛くなってくる。


「お客様が敵です。

 水たまりは、そうですね、例えばExcelでデータをまとめるのに関数を使わなければ水たまりに落ちます。果てしなく効率が悪い上に精度も悪い。水たまりに落ちて運動靴の性能が悪くなって駆け足のスピードが落ちる上に転ぶ確率があがるのと同じです。

 新人には1から教えないと関数だって使えなーー」


「あははっはははははは!

 お客様が敵! 言い切ったよこの人、ははっはははは、敵だって!

 やべーしかもこじつけなのに全部整合性取れてる。

 ひー、腹いてー。あははははは」


 桂木は普段の丁寧な口調を完全に投げ捨ててさらに笑い転げた。


「桂木さん! 真面目に話してるんですから真面目に聞いてください!」


「無理。もー無理、堪忍して。ははははは」


 結局、桂木が笑いに耐えきれずにこの話はこの時、先に進まなかった。

 我ながらわかりやすくていい例えだと思ったのに、と千里はちょっぴり傷ついて、その分今でもこの件を根に持っている。ところが根に持っている千里がこれまた桂木にとっては面白いらしく、以降桂木の中で千里は「面白い人」扱いなのである。

 会社でそんな扱いを受けたことがなかったので、千里にとっては非常に不本意な事態だった。


 そもそも苦情を呈したかった最初の問題ーー桂木が指示を出す時に注意事項や仕事のコツ等のフォローをしない事ーーについて、千里はいつも小言を言うのだが、桂木は一向に意に介さない。そんな事では新人たちに任せる仕事の完成度がいつまでたってもあがらないし、そもそも成長スピードが遅くなるではないか。


 と、そんな風に千里が先ほどまでとは別の視点からこの1ヶ月を振り返って苦々しく思っていると、その思考を読んだかのようなタイミングで桂木は言った。


「まあ、僕は多少経験も積んだから、仕事のどの部分になら手を抜いてもよくて、どの部分はけして手を抜いてはいけないかわかるからいいんですけど、新人たちはわからないしね。

 僕そういう所細かく教えるの苦手だし、そもそも性格が大雑把で気付かないこともたくさんあるので、西村さんが全部フォローしてくれて助かってます」


「……うまくまとめた上に慰めてくださってお礼を言うべきなんだと思いますが、とても複雑な気分です」


 千里が正直にそう返答すると、桂木はまたも大笑いした。



* * * * *


 ガキ大将。

 そう思いながらも、千里は桂木の事を徐々にとても居心地のいい人だと思うようになってきていた。

 側で見ていると色々なことがわかる。桂木から冒険心と気概を感じるのは、おそらく桂木が今、仕事を義務だと思っていない証拠なのだと思う。きっと、今の桂木にとって仕事とは、人生における最大の娯楽であると同時に、自分の可能性を切り拓くための試練なのだ。


 妬みやひがみ、周囲を不当に落とすこと、自分がいかに出来る人間であるかを主張すること。そして、無意識のうちに女は鑑賞物だと思っていること。

 千里が今まで他のリーダーについて嫌だと感じてきた点を、桂木はどれ1つとして持ち合わせていなかった。ただただ無心に目の前の仕事に立ち向かい、どんなに小さな難所でも上手くいった時には子供のように快哉を叫んだ。上手くいかなければムキになって取り組んで、何度か失敗しても、最終的には必ずなんとかしてしまう。


 それは端から見ていて心地よい感情の動きだった。桂木のひねくれた所のないまっすぐな挑戦心や喜びや悔しさは、側にいる人の心に負荷を与えず、むしろ微笑ましさや愛着を生むのだ。


 気が付けば、千里の人間関係に関するストレスはゼロに近くなっていた。もちろん多少はある。桂木は机を丁寧に整頓しないのでいつも雑然としているし、その性質は仕事にもいかんなく反映されて千里が後片付けを買って出る事が多い。

 けれどそんな事は今までのストレスに比べれば本当に些細な事で、千里は今や自分の心を押し殺すことをほとんどせずに仕事をしている。この環境を手に入れて、今までどれだけ自分が無意識にストレスに耐えてきたのかに改めて気付かされたといってもいい。


(転職の理由ってほぼ人間関係か収入っていうけど、納得だなあ)


 ストレスをストレスだと思ったら負け。

 気付かないふりをして、心を押し殺して、どんな人とも上手くやろうと頑張って。

 嫌いになったら顔に出てしまうから、相手を好きになれるように努力して。


 今まで会社での人間関係は、千里のそうした努力の元に成り立っていた。

 もちろんそれが千里だけの苦労だとは思わない。相手だって同じだったろうと思う。

 それでも千里は今、晴れ晴れとした開放感を味わっているのだった。


 この環境は今だけだ。桂木とのプロジェクトが終わったら、桂木も千里も、また別のプロジェクトにうつる。同じ人と一緒に仕事をし続けることが当たり前ではない業界だ。


 だから、この場を大切にしようと千里は思った。

 今までにないチャンスを与えられた職場。

 そして、嫌いな人間のいない職場。

 この絶好の環境で、最高の仕事をしよう、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ