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働く女は恋に落ちない  作者: おきのおるか
第1章 仕事、仕事、そして仕事
4/9

第4話

 桂木啓介。

 前職も同業種だが、在籍は千里の会社よりもずっと大手のいわゆる「有名ブランド企業」だった。

 日本よりも海外の方が先行しがちな新手法の知識の研究と紹介に努め、講演歴多数。著作も数冊。


 梶田に言われた通り、自宅で桂木の事を調べていた千里はさすがに驚いた。

 今まで千里の会社にここまで華々しい外部向けの顔を持つ人など皆無だったはずだ。

 一体千里の会社のどこが気に入って入社してきたのか疑問を持ってしまうほどのハイクオリティな人である。


 さらに遠慮なく付け加えるならば、打ち合わせ用の資料の作成もぎりぎりまでままならずに「完璧ですよ」などと(うそぶ)いていた先日の桂木と、検索で出てくる桂木のイメージが全く一致しない。


(あ、顔写真も載ってる…)


 講演の時に撮られた写真なのだろう、マイクを持って壇上で何かしらの説明をしている男は、まぎれもなく千里の会話したあの桂木啓介だった。

 写真の載っていたブログの記事を読んでみる。


Title:「憧れの桂木さんの講演!」


「ずっと憧れていた桂木さんの講演をようやく聞きにくることができました。

 桂木さんといえば現在はACK手法で有名な方ですが、私がはじめて感動したのはVCE手法を紹介した著作で…」


 なんとファンもいるようだった。

 うわ、この人、桂木さんの著作を買ってそこにサインもらって嬉しそうに写真あげてる。

 千里はなんだかくらくらしてきた。


 凄い人と仕事ができるのかもしれないという期待感がないといえば嘘になる。

 経歴を見る限り、とにかく凄い。凄いの一言だ。

 しかし千里の中の慎重で臆病な性格が、この一見幸運な事態を素直に幸運とは喜べずにいた。

 このそこはかとない桂木への不信感はなんなのだろう。


 実際に目にした桂木が凄そうな人に見えなかったから?

 プロジェクトがひっちゃかめっちゃかな様相だったから?

 経歴の凄い男はたいてい強引で人の話を聞かないから?


 どれも違う気がした。

 でも強いて言うならばこの華々しい経歴が気に食わない。

 というより胡散臭いと思ってしまう。


 胡散臭い。

 その言葉は、今まであげたどの理由よりもしっくりと千里に馴染んだ。

 桂木を胡散臭いと感じる理由はなんなのだろう。

 色々と思いを巡らせたが、千里はその日はついに回答にたどり着くことができなかった。



* * * * *



 桂木に感じる淡い胡散臭さの原因はわからないまま、千里は忙しい日々に突入していた。

 なにせ社会人1年目の新人を3人も受け入れて、新人教育をしながら仕事も進めるのである。

 千里の方も、教育もスケジュール管理もはじめての仕事だったから、日中は教育に追われ、新人を返してから自分の仕事をするという状態で、とにかく(せわ)しなかった。


 桂木は桂木で常に自分の仕事に没頭していて、千里の渡した資料を確認する時に少し会話をするくらいで、基本的に交流があまりない。チームには桂木直属配下のメンバーもいるため、完全に2チームで分かれて仕事をしているような状況だった。


 今日も今日とて残業、残業、残業……。

 でもこれは千里が仕事に慣れないせいで時間がかかっているので、自分の責任である。

 口元をきつく引き結んで、明日の朝から新人に任せる仕事の下準備をしていると、会議室から梶田と桂木が出て来て千里を呼んだ。


「西村さん、ちょっと来てください」


 3人が思い思いの席に座ると、梶田は例の感情の読めないは虫類の目を2人に向けてこう言った。


「いきなりダメ出しから入りますが。

 ……桂木、西村にもっと仕事させて。もっと信用して色々預けて。

 西村、桂木がどんな仕事してるかちゃんと見て、桂木の仕事巻き取るようにして」


「!!?」


 今の一瞬の驚きは絶対顔に出た。現状でもこれだけ残業三昧の日々である。

 これ以上仕事を増やせとはどういうことだろう、と思ったが、さすがにそれは言えなかった。


「梶田さん、でも西村さんにはもう既に教育とスケジュール管理をやってもらっていて、西村さんも手一杯だと思います」


 桂木が穏やかな口調でそう言った。

 あ、よかった、桂木(こっち)の認識は私と一緒だ、と思ったのもつかの間、梶田は桂木の主張を粉砕した。


「桂木。この間、客先からもらった資料をメンバーに展開しないまま打ち合わせに行って、どういう状況になったかわかってるよね? チームメンバーが半日動けなかったわけだけど、これが金額にしてどのくらいの損失なのかリーダーとしてわかっていないと駄目」


 どうやら、桂木のチームで何かトラブルがあったらしい。

 一体何の話をしているのかさっぱりわからない千里は、お説教の場に同席している者に相応しい神妙な顔をして、ひとまず座っていた。

 と、は虫類の視線が今度は千里の方を向いた。


「西村も。確かに教育もスケジュール管理も西村の仕事です。

 でも俺が一番西村にお願いしたい仕事は桂木を支える事なので、それをおろそかにしないように優先してください。

 今、俺の話自分には関係ないことだと思って聞いてたでしょ? 関係あるから。

 桂木がそういう状況にならないように支えるのが西村の仕事だから」


 支える…と言われても、完全に分担になっている現状からどうすればいいのだろう。


「具体的に例えば何をすればいいですか?」


「こいつは他のメンバーに任せなきゃいけない仕事まで全部自分で抱え込んで、身動きとれなくなって破滅するから。それを阻止して。無理矢理にでも巻き取って」


 桂木にとっても千里にとっても、色々な意味であんまりな言いざまである。

 そもそも千里もこれ以上仕事を巻き取るのは厳しいものがある。会議室に呼ばれたこの時間だって、終業時刻をとっくに過ぎているのだ。

 無理です、と言うのは梶田の期待にこたえられていない自分を露呈するようで嫌だった。

 けれどこれ以上仕事をどう抱えていけばいいのかよくわからない。

 さんざん迷った末、千里は結局正直に申告することにした。


「ええと…私が不慣れなせいですが、桂木さんの仰る通り、今私も一杯一杯で。桂木さんのフォローを優先すると、教育などに手がかけられなくなってしまいます」


「別に俺は目一杯残業して、きりきり働けとは言ってないよ。まだまだ出来ることたくさんあるでしょ。仕事のやりくりについて真剣にこれ以上ないって位、考えた?」


「…いえ。もっと考えます。申し訳ありませんでした」


 知らなかった。梶田がこんなにスパルタな人間だなんて知らなかった。

 気付けば口調もぞんざいになり、名前もいつの間にか呼び捨てにされている。もしかしてこれが素なのだろうか、と千里が指摘に忸怩(じくじ)たる思いで半ば現実逃避に走っていると、梶田はさらなるだめ押しをした。


「ああ、それから。

 2人は信頼関係の構築が足りません。飲みにでもなんでも行って、もっと仲良くするように」


 言いたいことだけ言うと、梶田は俺はまだ仕事があるから、と言って部屋を去って行った。

 パタン、と扉のしまる軽い音がして桂木と共に会議室に取り残される。

 会議が終わったのだから、いつもなら千里もこのまま退出する所なのだが、仲良くしろと言われた手前さっさと戻ることもできずに途方に暮れる。

 途方に暮れたままとりあえず桂木の方を見ると、千里との距離感を測りかねて遠慮がちな桂木の顔がこちらを見返してきた。


「うーん……。

 とりあえず、言われた通り飲みにでも行く?

 あ、西村さんが嫌じゃなければだけど」


「……行きます」


 行けば仲良くなれるのか、という疑問はあるが、行くしかない。

 誰かと仲良くしろだなんていう業務命令ははじめてで、千里はとても戸惑っていた。



* * * * *



 桂木の選んだお店は、デートにも使えるようなシックな内装でまとめられたワインのお店だった。

 そのお店のチョイスにまず驚いた。もっと安居酒屋のようなところで軽く飲んで帰るのかと思っていた。

 テーブルの上には千里の好みを聞いた上で桂木が頼んだつまみがところ狭しと並んでいる。


 薄く薄く切られた綺麗な色の熟成生ハム。

 色つやのいいサラミ。

 新鮮な温野菜のサラダに、完熟アボガドを使ったディップ。

 ソーセージのグリルとツブ貝のオイル焼きは熱々の鉄板にのせられていかにも美味しそうだ。

 そして、小腹も満たせるようにと注文された、食べやすいサイズにカットされたBLTサンド。

 とりあえず白から行く? と桂木が頼んでくれた白ワインは、シャブリが苦手な千里の好みを取り入れて、ソーヴィニヨン・ブランである。


 美味しいワインとつまみが楽しめるのは嬉しいが、千里はなんだか落ち着かなかった。

 こんなお洒落なお店に来るならさすがにもうちょっとまともな格好をしていればよかったと思う。

 自分の服装とお店の雰囲気があまりにもミスマッチでいたたまれない気分なのだ。


(ええい、(まま)よ。仕事なんだから仕方がない)


 とにかく仲良くしろとの仰せなので、会話をしよう。

 普段ほとんど会話をしないのでそのままになっていたが、聞きたい事もいくつかあるのだ。


「前から気になってたんですけど、桂木さんてうちの会社に入社したの3ヶ月前ですよね。

 でもプロジェクトは半年前からやってたって……どういう事ですか?」


「ああ、それまでは別の会社にいたんですけど。

 このプロジェクトの企画は僕と梶田さんが一緒にはじめたもので、プロジェクトが本格始動するにあたってこちらに転職してきたんです」


「……梶田さんが今のプロジェクトごと桂木さんを引き抜いたってことですか?」


 巨額が動くプロジェクトと優秀な人員を同時に自分の会社に引き入れるとはやり手にもほどがあるというか、どうしたらそんな芸当ができるのだ、と千里は内心舌を巻きながら聞き返す。


「まあ結果的にはそうなるのかな。

 でも僕、元々前の会社ではやりたいことがなかなか自由にできなくて、窮屈さを感じていたので。

 色々な事に挑戦できるこの会社の風土が気に入って、自分で決めました。

 それに、このプロジェクト自体は個人で梶田さんとやっていたものだったから、前の会社にも別に損害は与えてないよ」


 何度も繰り返すが、億単位のお金が動くプロジェクトである。会社と関係なく個人で動いていたとはどういう事なのか、梶田だけでなくこの人もやはりただ者ではないのだと、改めて実感する。


「梶田さんと前からお知り合いだったんですね。

 なんとなくお互い気やすい雰囲気だったので不思議に思ってました」


「僕自身は梶田さんの事は本当に尊敬していて、気やすいって感情はないんだけど。

 でも梶田さんが多少なりとも気やすく感じてくれているなら嬉しいですね」


 驚きに一瞬目を見開き、それから少し照れたように桂木が笑う。

 千里が最初に挨拶した時もそうだったが、表情の豊かな人なのだと思う。

 そして、目にはいつも強い輝きがある。自信にあふれる男特有の存在感、仕事が楽しくて楽しくてたまらない仕事中毒(ジャンキー)特有の精力のある雰囲気。

 そういったものを桂木は全て持っていた。

 なのになぜだろう、この人からは押し付けがましさを感じない。

 今までに会ってきた堂々たる仕事をしている男は、例外なくどこか尊大なオーラを漂わせていて、千里はあまり好きではなかったのに。


 つい桂木の顔をしげしげと眺めていると、桂木が視線に気付いて見返してきた。

 千里にまっすぐに注がれる眼差しは、強い輝きを(たた)えて心の中にまでしみ込んでくるようだ。

 それなのに桂木は、その強すぎる輝きの眼差しとは裏腹にいつもの遠慮したような、照れたような笑みを浮かべている。

 表情だけでなんでしょう? と訊いていた。


「えーと」


 特に何もないけれどただ見ていました、とも言えずに千里は話題を探した。


「明日から仕事どうやって進めましょう……?」


「あー……。

 梶田さんにばっさり言われちゃったよね、僕」


「それは私も同じです」


「うーん。

 梶田さんには前から、他人を信用しなさすぎって注意されてるんですよねえ。

 でも今まで預けられるような人材もいなかったし、だから西村さんをつけてくれたって事なんですけど」


「と、とりあえず、仕事を奪い取れという命令なんですが、桂木さんは今どんなタスクをどれだけ抱えてらっしゃるんですか…?」


「そういえば僕、ちょうど全体のスケジュールの資料作ってる途中なんでした。

 じゃぁ、まずそれを一緒に作ってみますか?」


「そうですね。そうすれば今後の予定とか、うちのチーム以外の状況とかわかるでしょうし」


「あ、しまった。僕明日、講演で1日いないんですよ。

 こういう予定を西村さんとも共有しておけって事ですね」


 すみません、と謝られても千里も今までは特に知る必要を感じていなかったのだが、この場にいない梶田にでも言っているつもりなのか、桂木は律儀に謝って来た。


「明日金曜日だから、では打ち合わせは週明けですね。

 明日は、今までの仕事とどう両立させていくのか私も考えてみます」


「はい。あまり無理はしないでね。

 何か面白い話があったらお土産に持って帰ってきます」


「はい。ありがとうございます」


 正直な所、外での講演だとか新しい手法だとかに千里はあまり興味がなかったのだが、そんな事も言えないので素直にお礼を言っておいた。

 話が一息ついたところで、ちょうどワインも空になる。

 千里のグラスが空になったことにすぐに気付き、桂木が再びワインリストを手に取った。


「西村さん、お酒飲める方ですか?

 赤ワインも飲んでいく?」


 いつもならば用事が終わったらすぐに帰っているところだ。

 けれど、聞かれた瞬間に梶田のは虫類の視線を思い出して千里は言葉に詰まる。

 それにこのお店の料理も、ワインも、美味しかった。


「桂木さん、赤ワインはどんなものがお好きなんですか」


「僕は結構渋めのフルボディが好きなんだけど。

 あ、でも、軽めも飲めるから合わせるよ」


「……私も赤ワインはフルボディが好きです」


「気が合うね」


 桂木は嬉しそうに屈託なく笑って、赤ワインを注文した。

 最近ずっと家で保存食ばかりを食べていた千里にとって、それは久しぶりに人と分かち合う美味しい食事だった。

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