第3話
「西村千里さん。
現在のプロジェクトは後一週間ほどで目処がつくと手塚さんから聞いていますが、間違いないですか?」
「はい。今後多少のトラブルがあっても、一週間以内に終わると思います」
「では一週間後から次のプロジェクトに入ってもらいます。
プロジェクトリーダーは桂木啓介。
最近うちの会社に来たばかりだけど、交流は?」
感情の読み取りにくい褪めた目線が千里に注がれる。
梶田は綺麗な顔をしているのに、目だけは時折は虫類のように見える、とまたも内心失礼なことを思いながら、千里は返答した。
「ありません」
「そう。会社の外でも結構有名な男だから、色々と話を聞くといいよ。
西村さんには上手く組んでやってもらいたいなと思っています」
「……? はい」
今まで、誰と組むのでも「上手く組んで」と言われたことはなかった。
相性の悪そうなタイプなのだろうか、と内心考えていると、その考えを読み取ったように梶田は言った。
「西村さんには、今回はサブリーダーをやってもらいます。
新人ですが、部下もつけます。部下の教育を行いながらチームをまとめて、リーダーである桂木を助けてください。
取引先との交渉や全体の計画は桂木が行いますが、チーム内の細かな作業の割り振りなどのメンバー管理は西村さんに任せます」
「はい!」
思わず返事に力が入った。あまりの嬉しさに、ここが次の辞令を言い渡されている場である事を忘れて笑みがこぼれそうになる。
入社して5年目。サブリーダーに抜擢されたのは同期の中で千里が2番目だ。
最初のサブリーダー昇格は体力と根気のある、けれど千里がこっそりと自分の方が能力が上だと軽んじていた男だった。あの時の悔しさは忘れられない。
それでも、やっと、やっと。
1段階、目指している位置に近づいたのだ。
千里の目の輝きが一瞬にして増したのを見て、梶田はほんの僅かに目を細めた。
反応に満足した、のかもしれない。梶田の考えている事はいつもよくわからないけれど。
「現在の予定ではプロジェクトの期間は残り1年半です。
2年計画のプロジェクトで、桂木が数名のメンバーと共に半年、先行着手しています。
今回大幅増員をすることになり、西村さんはその新メンバーのサブリーダーという事になります。
詳しい事は後で桂木から説明してもらいますが、現状で何か質問は?」
ああ、2年計画という事は小さなプロジェクトでもないのだ。おそらく社内でも有数の大きなプロジェクトのはずだった。大きな金額の動くプロジェクトでサブリーダーをやれるのは、本当に運がよかった。
金額の大きなプロジェクトは数が少ない上に年数も長い事が多く、その分リーダーやサブリーダーの位置につける人間は限られている。そして大規模なプロジェクトでは、小規模のプロジェクトでは経験できない様々なスキルが積める。
今後のキャリアにも役に立つに違いなかった。
自分は確かに、チャンスの神様の前髪を掴んだのだ。
興奮と嬉しさに高鳴りのおさまらない心臓を落ち着かせようと息を深く吸って、千里は訊ねた。
「1つだけ。桂木さんが会社の外でも結構有名な男、というのはどういった点でですか?」
「ああ。新しい技術の学習や手法の確立に熱心で、業界でやってる研修や勉強会なんかでも名前の売れてる男だよ。
名前で検索してみれば、おそらく色々と出てくるだろう」
「承知しました。調べてみます」
「西村さん。君の仕事は手堅くて、過去に携わってきた色々なプロジェクトのメンバーからも評判がいい。
でももう少し技術がないと、リーダーを一人でやるのは難しいだろう。
逆に桂木は技術のある男だが、計算が甘い。2人で補いあって仕事を進めるのが今の時点では一番いいと考えています。
頑張って、リーダーを支えてください」
「はい。そのように努力します」
「では、話は以上です。ご苦労様」
「ありがとうございました。失礼します」
* * * * *
梶田に与えられている一人部屋を退出すると、目の端にすぐに手塚の姿が映った。
手塚はひらりと手を振って、さわやかな笑顔でこちらに近づいてくる。
「よっ。俺ちゃんと、約束果たしたよね?」
その問いかけに部屋の中では堪えていた笑みをこぼしながら、手塚はこういう所が本当に義理堅いと千里は思った。
約束を守ってくれただけではなく、自分が千里の望む成果を出せたかどうかを確認したくてここで待っていたに違いない。直接的な仕事面では本当にいい上司なのだ。
「はい。十分すぎるほどのいいお話でした。
口利きありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ、色々使いっ走りまでしてもらって、ありがとうございました。
まあまだあと一週間は俺の部下として働いてもらうけど」
「もちろんです。この際できることは全部片付けていきます。
手塚さんはまだ、今のプロジェクトに残るんですよね?」
「総責任者はもう少し状態を見届ける必要があるからね。
バリバリの活動期ほどお金はかけられないから他の人員は切るけど、俺は残ります。
…じゃ、会議の時間もせまってるし、一緒にお客様先に参りますか」
千里の会社は大きなものから小さなものまで、いくつものプロジェクトを同時に走らせる。
デスクワークではあるが、建築と近いものがあるかもしれない。それぞれの専門家が集まって1つの家を建てるのと同じように、千里たちもそれぞれ専門分野を持ち、自身の専門分野を携えて寄り集まる。
各々が自分の仕事をする中で、適切な時間で適切な成果を出しているかチェックし、スムーズに工程を進めるために全体の進行を管理するのがリーダーの役目だ。
もちろんその他に、決められた予算でどのような人材を引き込み、どのような手法で顧客の望みを叶えるかという骨子の計画も仕事である。
今回の話でいうなら、おそらく骨子の計画は既に桂木が進めていて、進行管理は一部千里に任せるという事だろう。
骨子の計画は当然ながら様々な分野の専門知識を組み合わせて作る。全てに秀でている必要はないが、知識があればあるだけ確実な計画が立てられる。
一方で思い切りと決断のための度胸が必要な仕事でもある。
対して、千里が求められた役割はどちらかといえば綿密な計算と細かな見直しの必要な仕事だ。各人員の仕事の進み具合を確認し、何かトラブルがあればそのたびにスケジュールを引きなおす。最終的な帳尻があうように、節約の努力と完成度の向上を同時に目指す。
器用かつ慎重な性格の千里には向いている仕事だった。このプロジェクトで桂木の仕事ぶりを今までよりも近い位置で見ながら1年半頑張れば、その頃にはリーダーの仕事も少しは盗んで覚えているものもあるだろう。
そうやって少しずつ成長していくことで自分の専門分野以外の知識も身に付いていき、やがてはリーダーができるようになるのだ。
手塚の仕事を手伝っていたのも、1つも無駄にはならなかった。
手塚の仕事は総責任者の仕事である。とはいえ秘書がつかない分雑用も多く、千里はもっぱらその雑用を片付けていたが、仕事に対する考え方1つにしても参考になることが多かった。
自分の仕事だけに目を向けていると視野が狭くなりがちだが、いずれリーダーを目指すのであれば、大局観というものを持ち合わせておきたいと千里は常々思っていたのだ。
手塚はとてもお喋りなタイプで、仕事のことから娘や妻のことから雑談までとにかく色々な事を千里に話してくれた。中には先日のように非常に腹立たしくストレスの溜まる事もあったとはいえ、手塚もやはり、千里を育ててくれたのだ。
と、一週間後にせまったお別れを控えて千里がどことなく感傷的な気分に浸っていたら。
「あらー。女史のお通りだよ。なんか機嫌悪そうじゃない?
恋人に慰めてもらえばいいのにねー。更年期かなあ」
手塚が先ほどまでのさわやかな笑みとは打って変わって、にやりとした笑みを浮かべてつぶやいた。
見れば、手塚と千里が手がけるプロジェクトで何度か関わりのあった取引先の女性が、顔中に「不機嫌です!」と書いて荒々しく通り過ぎるところだった。
この人のこういう所が嫌なのだ、と千里は感傷的な気分を放り投げた。
通り過ぎていった女性は、女史というあだ名の通り非常に気位の高い女性で仕事に対する要求も高い。
時にとんでもない無茶ぶりをするので会議中に手塚も何度もやり合い、手こずらせられた相手である。
だから手塚の好感度が低いのは知っているし、無理もないと思う。
それでも、これが男性だったならば、手塚は不機嫌そうな様子を見て真っ先に更年期だの恋人などとは言わないで、仕事のことを口にするはずなのだ。
女には恋愛しかないとでも思っているのかと皮肉を言いたくなってくるが、40代後半になってなお独り身のその女性の独身歴を様々な角度からあてこすっているに違いなかった。
ほんとに、こういう所さえなければいい上司なのに。
感傷を台無しにしてくれた上司に、千里は心中でいくつもの大きな溜め息をついた。
* * * * *
ところで、桂木啓介とは一体どういう人だろう。
千里も入社5年目となり、参加したプロジェクトの数もそれなりに増えて、今では社内のたいていの人間の名前と顔くらいはわかるようになった。
しかし桂木はつい最近転職してきた人物で、千里も入社のお知らせで名前を見たに過ぎなかった。
梶田は調べてみればわかると言っていたが、なによりも先に知りたいのはやはり人柄である。
あれから社内の何人かに桂木の事を聞いてみたが、詳しく教えてくれる者は一人もいなかった。
社内の交流関係は主にプロジェクト単位で育まれていくので、桂木のプロジェクトに絡んだ人間がまだそんなにいないのだろう。
(できれば女癖ましな人だといいなあ)
手塚にさんざん呆れさせられたので、ついそんな事を思ってしまう。
直接的な被害はなかったとはいえ、やはりストレスが溜まる。
(ま、最終的には仕事できる人ならなんでもいいけど)
座席表で桂木の席を確認して、とりあえず挨拶だけでも、と千里は桂木の席を訪れてみたが、あいにくと空席のようだった。
「あの、桂木さんて今どこかに行かれてますか?」
「あー、これから客先で打ち合わせの予定だけど、まだ社内にいるはずです。
大方印刷機のところだと思いますけど」
「そうですか、ありがとうございます」
出直そう。
そう決めて千里が立ち去りかけた時、男が走って来た。
「よし、資料出来ました! 出発一分前、これぞ全て予定通り、完璧な配分ですよ!
というわけで僕客先行ってきますので後よろしくお願いします」
「……」
その発言内容にちょっと千里がひいていると、男は今気付いた、というように千里を見た。
「えっと、何か?」
「桂木さんという人にご挨拶だけでも、と思って来ました」
「ああ、僕が桂木です。ごめんなさい僕今から打ち合わせに行かなきゃいけなくて、」
「後一分で出るんですよね? また今度でいいです、というか一人でその資料のファイル詰めやってたら間に合いませんよ。手伝います」
「ああこれなら大丈夫。お客さん慣れてるから、向こうで整理します」
「……そうですか」
お客様、それに慣れてるんだ。ダメでしょう、そんな状況が頻発している時点で。
という心の突っ込みが声に出ないように、千里はぐぐっと飲み込んだ。
桂木は印刷されたてで物理的にもまだほかほかしている大量の紙の束を自分の鞄に押し込んでいる。
「では行ってきます! 時間ぴったりじゃないですか。いやあ、完璧」
ああやっぱり色々と突っ込みたい。
「あ! あのう、お名前は?」
鞄を抱えてドアまでダッシュしたと思ったら、桂木は遠方からくるりと振り向いた。
「西村です。今のお話で30秒過ぎましたから、とにかく今は行って下さい」
千里の名前を聞いた桂木は、ああ、と合点した顔になり、次にぱっと明るい顔になり、そして最後に少しはにかんだ顔をしてみせた。
そして軽く頭を振ってーーおそらく会釈のつもりなのだと思うーーまたダッシュで階段を駆け下りていった。
これが西村千里と桂木啓介の、最初の出会いだった。
結局桂木の人となりについてはさっぱりわからなかったが、それでも千里には1つわかったことがある。
それは、このプロジェクトがおそらく大変に多忙で、かつ、ひっちゃかめっちゃかな状況になっているという事だ。
(プロジェクトに馴染んだ頃からしばらくは、残業確定だよね。
日持ちのする食料品、今のうちに買いだめしておこう……)
同じものばかりだと飽きてくるし、何がいいだろうか。
千里は頭の中で買い物の算段をはじめながら、毎度毎度やっかいなプロジェクトに放り込んでくれるよね、と、最初の説明で「忙しい」とは一言も言わなかった梶田をちょっと恨めしく思った。