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働く女は恋に落ちない  作者: おきのおるか
第1章 仕事、仕事、そして仕事
2/9

第2話

 早く仕事ができるようになりたいと切に思う。

 使いっ走りとか便利屋のような立場じゃなくて、もっと裁量と責任のある大きな仕事がしたい。

 同じ時間を使うなら単価があがった方がいい。どうせ一生のほとんどの年月、多くの時間を仕事に割くことになるのだから。

 それに、責任ある仕事の方がやりがいだってあるだろうし、何より面白そうだ。


 千里は、退屈するのが嫌いだった。

 休日にごろごろして過ごすのは大好きだ。

 けれど自分の好きに過ごせない時間なら、退屈しない方がいいに決まっている。


「というわけで出世したいし、お給料もあがって欲しいんです」


「西村さんは相変わらずはっきり言うねえ」


 残業前の一時、細めの身体に似合わず大食漢の上司の「夕食前のラーメン」につきあいながら力説すると、上司ーー昨日南にちょっかい出していた手塚(てづか)という男ーーは、ははっと笑った。


「このお仕事が上手に片付けられたら、次のプロジェクトもいい所に入れるように口利きしてください」


「いいよ。期待通りの働きをしてくれたらね」


「はい。頑張りますので」


 手塚はけして「酔っては絡む赤ら顔のセクハラおやじ」ではない。

 役職の割には年齢は若くて出世頭の一人だし、前職がアパレル関係だっただけあっていつもお洒落だ。どちらかといえば、伊達男が年くってチョイワルおやじになったという方が正しい表現だろう。

 もっとも、いかなる褒め言葉であっても「おやじ」と名のつくような表現を手塚が喜ぶとは到底思えないが。

 端から見ていて思うのは、手塚はまだまだ若いつもりなのだ。

 結婚してから片手の指以上の年月がすぎて、そろそろ上の子供は小学校にあがろうかという年齢になっても、自分が年を取ったという実感がないのだろう。


 若い頃は相当にモテたらしく、千里はよく自慢話に近い昔話を聞かされる。

 奥様と結婚を決めたきっかけは、「相手にプロポーズされて、冗談のつもりでうんと言ったら、相手が本気だったから」で、「そんなに俺がいいと思ってくれるなら俺も年貢のおさめ時かなと思った」そうだ。


 しかし。

 いくら過去に相当モテたとしても、それは何年も前の独身時代の話である。

 結婚して、子供もいて(しかも女の子だ)、子供の話を嬉しそうに口にする手塚が同じ口で会社の二十代の女の子を口説き、口説くどころかちょっかいも出すその神経が千里には理解できない。


 そもそもこの上司、さりげなく猥談が多いのだ。猥談とまでいかなくても、職場においても「男性」「女性」として区切りをつけて人を見ているんだろうなあと思わされる事が多い。

 そういう所さえなければ結構いい上司なのにな、と思う。


「でもなー。俺昨日、もうちょっと飲みたかったのに、邪魔されちゃったしな」


「拗ねないでください。というか昨日の件については邪魔をされて当然です」


「ちょっとは俺の機嫌取らないと出世できなくなるかも、とか思わない?」


「手塚さんじゃなくてもっと性悪な人相手だったら思いますけど。

 そこまで酷い人となりだとはさすがに思ってません。

 私が仕事のできない人間ならば別ですが、仕事でちゃんと成果を出していれば、女の子にちょっかいかけたのを邪魔したくらいで仕事の評価に反映させる人ではないと思います」


「…信用厚くて俺は嬉しいよ」


 でもちょっとくらい大目に見てくれても、とかなんとか、手塚はまだカウンターでいじけている。


「ですから拗ねないでください。

 ……そもそも、なんで急にあの子に手を出したんですか?

 今まで、そこまで興味なかったですよね。接点だってなかったですよね」


「んー。それはまあ、ちょっと」


「ちょっと、なんですか?」


「いやー、梶田が南に振られたって噂話を聞いちゃってさ。

 なら俺が落としてやろうじゃないかみたいな」


「……やっぱり、邪魔されて当然だなって、思いませんか?」


「えー」


 梶田というのは、手塚の同期だ。手塚も出世のペースが早い方だが、梶田はそれをはるかに越えて、今では社長をのぞけば会社のツートップの一人である。うちの会社がそれほど大きくない会社であるとか、設立年数が若くて若手も出世しやすい、という事情を差し引いても異例の大出世だ。

 手塚の事を好まない社員が、よく、梶田を引き合いに出して手塚は梶田に完全に負けた、などと言っては憂さを晴らしている事は千里も知っていた。

 つまるところ手塚は、梶田に現状負け続けている事を痛感しつつ、今でもなおライバル意識バリバリなのだ。


 しかし、だからといって。


 いやー、などと悪びれずにこんな事を言うあたり、この上司は色事に関してーーそもそも結婚している上司になんで色事が関係あるのだと千里は文句を言いたいーー本当に、千里とは全く価値観があわない。

 こんな人間に女として見られたら面倒極まりない。千里は、南に心の底から同情した。


 ふつふつと沸いてくる怒りや、軽蔑の感情を静かに抑えつける。

 こういう面倒事に巻き込まれさえしなければ、手塚は優秀な上司である。

 …仕事に関してだけを、言うならば。


「私、仕事に戻ります。手塚さんに言われた資料のまとめ、そろそろ取りかからないと今日帰るまでに終わらないし」


「お、ありがと! ラーメンはいいよ、俺の奢り」


 財布を出しかけた千里を押しとどめて、手塚はさらりと伝票を確保した。

 全然女として見ていない千里に対しても律儀に奢ってくれるつもりなのか、と千里は毎度のことながら感心した。

 夜に会話しながら駅まで歩いていくときも、この上司はいつもさりげなく車道側を確保している。

 フェミニストって結局たらしって事なのかな、などと失礼な事を思いつつ、千里は頭を下げた。


「すみません、ありがとうございます。ご馳走さまです」


「代わりに今度南さんとの飲み会セッティングしてね」


「お断りします。ご馳走になった分は、仕事でお返しします」


「えー」


 またも拗ねてみせる上司を無視して、千里は今度こそ職場に戻るために歩き出した。



* * * * *



「西村さんって」


 カーペットの上でクッションを抱え込みながら、南は珈琲を淹れてくれている自分の恋人を見上げた。


「変わってるんだよね。

 いつもすごく地味な服着てて、コンタクトじゃなくて眼鏡で、それだけだとただのダサい人なんだけど。

 仕事早くて的確で、頭のいい人で。

 で、すごくはっきり物を言うの」


「へー、仕事人間なんだ」


「……そうだね。そんなに仲いい人もいないし、よくトイレで女の子集まってお喋りしてるんだけど、西村さんは絶対加わらないでさっさと出て行くんだよね。ランチも基本1人」


「まあそんな感じの人は、周りの女の子とあまり合わないんじゃない」


「うん。でも、話しかけると結構こたえてくれるんだよ。

 だから単に自分からは他人に声をかけられない人なのかなって思ったんだけど」


 ちょっと違うみたい、と呟いて、南は抱え込んだクッションに顔をうずめた。


「助けてもらって、嬉しかった。もうちょっと仲良くなりたいって思った。

 でもダメみたい。嫌われてはない…と思うけど、壁を感じる」


「話しかけたら返事してくれるんでしょ? 積極的に話しかけて仲良くなるの、香奈(かな)得意じゃん」


「得意だよ。でもなんか……こっちの話聞いてくれるし、聞いたらこたえてくれるけど、西村さんは全部義理でやってる気がする。色々話しても全然近づいた気がしないし、話しかけなくなったらあっさりそこで終わっちゃいそう」


「香奈がそんな事言うのは確かに珍しいな」


「なんだかしょんぼりだよ」


「いいじゃんお礼言ったんだし、それ以上関わらなくても」


「そうだけどー」


「香奈は全員と打ち解けようとしすぎ」


 いいじゃん俺がいるんだから、と軽口をたたいて男は南を引き寄せた。

 南も男の首に手を回す。

 間接的に味わう珈琲と甘い感触に、南は次第に思考を手放していった。



* * * * *



 見た目が地味である、という事に加えてもう1つ千里の会社での印象をあげよと言われて、1番多く出てくるのはおそらく「辛口」あるいは「仕事人間」だろう。

 千里は基本的に歯に衣着せずに物を言う。

 本人なりにここまでは言っていい、これは言ってはいけない、というラインはあるが、そのラインが他人と大きく異なっている自覚はある。

 まだるっこしいのだ。


 そもそも、好きではない相手に愛想1つ言うのすら面倒くさいと思ってしまう性格で、婉曲的ににこやかに物事を伝えるなんてやり方に馴染むはずもない。

 客観的に見て、私すごく嫌なヤツだよなあ、とは思う。


(プライベートではそんな事、ないと思うんだけどな)


 プライベートは自分が好ましく思える人間とだけ付き合っていればいい。

 だから千里も、必要以上に誰かを警戒する必要もなければ、距離を取り続けることもない。

 親しみを感じた分だけ素直に仲良くなれる。プライベートで付き合いの続く人たちを、千里はとても大切に思っている。


 でも会社の人間はダメなのだ。

 嫌いな種類の人間が必ずそこには混じっているし、それでもコミュニケーションを取り続けなければいけない。プライベートは何かが行き詰まったら関係が終わるだけだが、会社では一度関係が壊れても、一緒に仕事を続けなければいけないケースもある。


 だから、つい人間関係に距離を取ってしまう。

 ストイックに仕事のことだけを考えてしまう。


 南が愛想を武器に何かを手に入れようとしているように。

 千里は仕事に対するストイックな姿勢を武器に、辛口の物言いで自分を守っているのだ。


 口は災いの元ともいう。

 辛口の物言いは、冷静に考えれば支障を来すケースもあるのだろうが、千里は幸いにして今までそういうケースにあたったことはなかった。


 トラブルにならない理由の1つには、千里の発言内容がほぼ仕事に関する内容に限定される事、何かに否定的な意見を出す時は、必ず解決方法も一緒に提案している事があげられる。

 誰のことであっても、人となりについては極力口にしない。女子社員がトイレに集まってしている噂話に混じるのも苦手だった。


 もう1つは、千里がそこそこ仕事のできる人間だということだ。少なくとも自分の上下2,3年の範囲(レンジ)の社員で、千里ほど頭の回転が早く仕事の処理も的確な人間はいない。

 だから千里は、昔から同期に比べてハードなプロジェクトに放り込まれがちだったし、仕事量においても、仕事内容においても、難度の高いものと常に格闘し、忌憚のない意見を述べて来た。

 最初は生意気なやつと軽んじられても、主張を続けていくにつれ、千里の意見は信用するに値すると耳を傾けてくれる人が増えた。

 もちろんいい成果を出すために、千里も仕事には常に全力で向き合って来た。


 今は手塚の指揮するプロジェクトで働いているが、千里がこのプロジェクトにいるのは、手塚の引き抜きである。

 それも職種通りの規定の仕事だけでなく、手塚の担当する仕事の簡単な手伝いまでやらされている。一度挑戦すれば全て完璧にこなせるほど天才なわけではないが、器用で勘所のいい千里は使い勝手のいい部下として手塚に重宝されていることをよくわかっていた。


 仕事上においては、簡潔にはっきりと意見を言えるのは長所でもある。だから手塚も、ちょっとした会話においても千里が遠慮なく物を言っても気分を害したりはしないのだ。

 ……まあ、もしかしたら内心はたまに害しているのかもしれないが。


 少なくとも表面上はそれなりに呼吸のあった上司と部下である。

 互いが互いに努力して相手を理解し認めあった結果、いい関係にうまく収まった、と千里は思っている。

 仕事の人間関係などそれだけでいい。その信頼関係さえ構築できれば、それ以上、プライベートに関わる会話をしたり、仲良くならなくてもいい。


 まして会社で恋愛なんてもってのほかだ。

 あんな壊れやすい関係を会社に持ち込んで、破綻してしまったらその後の負荷が高すぎる。

 破綻までいかなくとも、喧嘩をした日も相手と気持ちがすれ違っている日も、毎日会社で顔を合わせるなんて冗談ではないと思った。

 恋人は、生活圏の被らない相手に限る。


 手塚にしても、手塚から女として見られていない今の方が、どう考えても仕事がやりやすいのは確実だった。

 手塚の手癖の悪さを思い出し、またもふつふつと沸いてくる怒りを抑えて、千里は頭を仕事に切り替えた。


 このプロジェクトももうすぐ終わる。

 今まではなかなかいい成果を出してきたし、今まとめている資料も成果を後押しする自信作になりそうだ。

 このプロジェクトが終わったら、次はできればもっといい役割で新しいプロジェクトに参加したい。

 今までのような下っ端ではなく、もっと直接的に決定権を持てるような……。


 早くもっと大きな仕事をしたい、という渇望が千里をいつも駆り立てていた。

 一人前に。

 一人前以上の存在に。

 一生食い扶持に困らないくらいのスキルを手にした人間に。

 早く早く早く。


 男だったらもっと出世が早かったのではないかと思うことがある。

 千里の会社は特に男性優位なわけではなく、仕事に関しては等評価(イーヴン)だ。

 でも時々感じる。手塚のように男性と女性を明らかに分けて考えるタイプの上司にあたると余計に感じる。

 彼らは無意識のうちに女性と真剣に仕事の話をしない。女性の給料があがらなくても、パートナーの男性がいれば問題ないだろうと思っている。女性の上司に仕える事を嫌う。使い勝手のいい部下は女でも男でもいい。けれど上司となればおそらく話は別なのだ。

 きっとこれを手塚に言えば否定するだろう。査定も、手塚はおそらく真剣に「公平を期して」やっているつもりだろうと思う。

 でも、無意識の中のほんの少しの切り分けが、自分の出世を遅らせているような気がして、千里はもどかしかった。


 だからそういう相手であればあるほど、自分の中の女を削ぎ落としたいと思った。

 自分は野心のある男と同じだと、ライバル心をもって同期と出世を争う手塚と同じなのだと、思ってほしかった。

 手塚には、一体どのくらい伝わっているのだろう。

 仕事上でどれだけいい信頼関係を築いても、その気持ちは半分も伝わっていないような気がした。


 だけど後少し。

 後少しで、きっと、1つ上のランクには手が届く。

 実績は積んできた。後はタイミングよくチャンスが転がってくるのを待つだけだ。


(仕事、ほんとに頑張りますから。手塚さんよろしくお願いしますよ)


 チャンスの神様に前髪しかないと言うのであれば、その前髪を、私はきっと掴んでみせる。

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