『二枚のドガの絵』
本編のタイトルは、邦題の方が勝っているように思える。テーマを忠実に表していると同時にミスデレクションにもなっている。
犯人は美術評論家で、ロス・マーティンが演じている。世界的な絵画蒐集家でもある富豪の伯父を、その財産目当てに殺す。画学生の女性を共犯者に選ぶところもお決まりであるが、それには犯行上の必然性もあった。コロンボが捜査のはじめに行なったことも、共犯者が女性であることを突き止めることだったが、それこそ犯人の思惑通りでもあった。コロンボが、評論家に目串を立てたのは、彼のアリバイが余りにも整然としていたからだった。アリバイ作りのために訪れた画廊では、ドアボーイにも時間を聞いているし、時間観念の乏しい売れない画家にまで時間を印象付けることに成功している。こんなことはありえないと言うことで、コロンボは徹底的にかれをマークする。
ところが、遺言状が発表された途端、雲行きが怪しくなる。遺言では、蒐集された名画はすべて、別れた妻に贈られることになっており、そのことを、甥である犯人も承知していたと言うのだ。それを聞いたコロンボの表情が面白い。実に困ったと言う顔をしているのだ。犯人も、そして視聴者さえも、それは、コロンボの捜査の行き詰まりを暗示したものだと捉えるが、実は違う。これ以上まだ悪巧みがあるのだと、憂えている表情なのである。これは一度見ただけでは気付かない。コロンボを見る楽しみのひとつは、一度目だけでなく、何度も見ることで、その伏線の巧みさや役者の演技の重層的なところを堪能できることにある。共犯者の足音をわざと警備員に聞かせて、女性だと気付かさせるのは、実は被害者の元妻に疑いを抱かさせるためだったのだ。そのことから、逆にコロンボはトリックを作り上げることになる。
コロンボは最初から犯人を疑っていたし、できることは必ずやるから、犯人の家を家捜しして、盗まれた二枚のドガの絵がないかどうかを確かめていた。しかし、なかったので、どこかで犯人がその絵を取り戻すに違いないと待ち構えてもいた。ここに、今回の名場面が登場する。テレビ局で犯人と対面したコロンボに、激高して「いくらでも家捜しすればいい」と言って鍵を渡す場面だ。「いやいやそれでは余りにも好意に甘えすぎです」と断るかと思いきや、すっと鍵を取るのだ。このときの犯人役の表情も面白い。意味合いも実は見かけとは違っている。コロンボは家捜しするために鍵が欲しかったのではなく、犯人を待ち構えるために鍵が欲しかったのだ。もっと正確に言えば盗まれた「二枚のドガの絵」を待ち構えるために。そろそろ、犯人が共犯者から絵を受け取って持って帰る時分だと睨んでいたのだから。案の定、犯人は絵を持って帰宅する。鍵は犯人がコロンボに言ったとおり、ドアマットの下にあったから、安心して部屋には行って電気をつけたところ、コロンボが椅子で眠りこけていたのだから、犯人も驚いただろう。コロンボは本を読んでいるうちに眠ってしまったのだと言い訳するが、実のところ待ち構えていたのだ。そしてここも、二度目以降見るときに注目するシーンになるのだが、確かにコロンボは、犯人が隠そうとする絵に手を触れているのである。
本当によくできたトリックである。元妻の家を家宅捜索するように犯人に仕向けるのも、コロンボの仕掛けであるし、コロンボを外すために、弁護士を通じて刑事課長に捜索の指揮を取らせるのも、実はコロンボの知ったところであった。まさにお釈迦様の手のひらで踊らされているのだ。元妻の家で、二枚のドガの絵は見付かるが、もちろん犯人が隠したのである。元妻を犯人とすることで、財産を得ようとするのが周到に考えた犯人の手口だった。しかし、コロンボがその上をいっていた。絵の指紋を調べさせ、確かにそこに指紋があることを確かめた上で、犯人を指名する。犯人の指紋ではない。甥である評論家にはその絵を何度も触る機会があったのだから、指紋があったところで何の証拠にもならない。それはコロンボの指紋である。あのときコロンボがわざとつけた指紋が決定的な証拠となる。しかも、それは偶然のことではなくて、最初からコロンボが仕掛けようとしていたトリックの一環だったのだ。
この回は、犯人対コロンボのトリックの応酬だけで魅せる、代表作ともいえる話だ。この前の何回かに出ていたチリの店も出てこないし、おんぼろ車のエピソードもない。それだけ純粋なミステリドラマに自信があったのだろう。