『ルーサン警部の犯罪』
原題は「殺人へのフェイドイン」で、テレビドラマの主役が犯人であることを示唆しているけれど、邦題の方が相応しいと思われる。この「メタ」感があふれるタイトルがいい。ルーサン警部って誰って、普通は思うわけだけれど、ドラマの中では有名な刑事ドラマの主人公であるわけで、つまりこれは「コロンボ警部の犯罪」と同義でもあるということなのだ。「宇宙大作戦」のカーク船長がそのルーサン警部を演じている。
よく言われるように、犯人の弄したトリック自体は大したものではない。アリバイトリックであるわけだけれど、いまやHDヴィデオまで登場しているご時勢であるから、この程度のトリックでは子供騙しもいいところだ。しかしこのドラマの肝要はそんなところには無い。最後の最後、コロンボが発見する決定的証拠ですら重要ではないといったら言い過ぎだろうか。確かにミステリとしては、指紋の拭き忘れをするとすれば何か、という謎は魅力的だろう。ところが、このドラマではそれよりも重要なものがあったのだ。
「警部どうしじゃないか」と、最後に犯人が阿るようにコロンボに囁く。この科白を聞いたとき、わたしたちは涙しないではいられない。実はここにこそ犯人の動機が隠されている。この科白の前にルーサン警部はこういうのだ。「今回の犯人は同情される役なんだ」つまりこれが動機だったのだ。ルーサン警部役の役者はプロデューサーでもある元愛人に、脅迫されて、ギャラの半分を搾り取られている。それを辞めさせることが、表向きの動機として語られている。しかしそうではないのだ。それは名目上の動機に過ぎないのだ。犯人である俳優は、もちろん被害者を憎んでいるわけだけれど、それは恐喝のためでもなければ金のためでも昔の愛情のためでもない。彼は彼女にある企画書を書いていた。その中で、彼が演じるべきは「同情される犯人役」であり、それを彼は俳優としてチャレンジしたかったのだ。けれど彼女はそれを一笑に付した。つまり馬鹿にされたわけだ。犯人の動機は、実はここにあって、自分の役者としての才能を認めてもらえなかったこと、母親のように抑圧する彼女からの独立を勝ち取ることこそが、動機だったのだ。
ドラマは犯人対コロンボではなく、名刑事対名刑事のように展開する。犯人もはじめは上手く犯行を隠すことが目的で様々なトリックを弄したのかもしれない。けれどコロンボの登場でそれは様相を変化させた。ルーサン警部はコロンボを有能な探偵であると理解したがゆえに、最初とは違う構想に転じたように思えてならない。彼は途中から、コロンボによって逮捕されることを目的として行動している。拳銃につけた糸くずを、別の容疑者から取ったのも、コロンボの目の前でだったではないか。それに気付かないような刑事ではどうしようもないけれど、コロンボが気付かないはずがない。ヴィデオテープをわざわざ見せたのも、ヒントを出すためだった。最後の証拠は、犯人自身も気付いていなかったけれど、どんな決め手を持ってくるのかと、わくわくしながら観ていたのは視聴者だけではなく、犯人もだったに違いない。だからこそ、例の最後の科白が生きている。「警部どうしじゃないか」これはこう言い換えてもいいのではないか。
「役者どうしじゃないか」そこまで突っ込んだメタドラマの大傑作がこれなのである。同じ背の高さ、そしてシークレットブーツ。ギャラを上げることを要求するピーター・フォークの実話。すべてを取り込んで成立したドラマだった。