『第三の終章』
この邦題はおかしい。第三の終章なんてどこにも存在しないからだ。終章は二種類しか存在せず、これを取り違えることが決定的な証拠として犯人に突きつけられる。原題は「出版か戦死か」というような意味で、ヴェトナム戦争を扱った小説も示唆している。
犯人役がジャック・キャシディで、殺されるのがベストセラー作家となればどうしても「構想の死角」を連想してしまう。被害者役にホンモノのベストセラー作家であるミッキー・スピレインを起用することでそのことを和らげようとしたのだろうか。まあ日本の小学生は「裁くのは俺だ」の作者など見たことなかったけれど、ミステリファンなら知ってて当然なのかもしれない。
ここでも犯人は小細工を巡らせるがゆえに追い詰められるし、コロンボはそれに乗じて罠を仕掛ける。被害者がたまたまドアを開けていたから鍵は必要なかったのだから、新しい合鍵を用意するなんてことはしなくてもよかった。それでもなぜ古い鍵が現場に落ちていたのかという疑問は残るけれども、それは真犯人が自分に罪を着せようとしているということで解決できる。全く余計なことをしなけりゃいいのにといつも思う。まんまと「合鍵を持っているものが真犯人ですね」というコロンボの口車に乗ってしまう。コロンボがさらに鍵を変えさせていることなんていつものことだ。まあ、犯人は一度しかコロンボに合い対さないからそんなことは知らんだろうけれど、視聴者は知っているので「またか」と思ってしまう。共犯の実行犯の部屋に、動機を現す証拠を捏造してしまうのもどうかと思う。「なぜ奴がうらんだのか見当もつかない」と白を切ったほうが助かる見込みは高いのに。まあそうすると、コロンボはまた別の罠を仕掛けてくるには違いないけれど。
全般的に、できは悪くないけれど、犯人像といい被害者像といいトリックといい目新しさに欠ける話しになっている。実行犯の狂い方がヴェトナム戦争の悲しさを物語っていることが、唯一の見所かもしれない。そういう意味でも邦題は全くおかしい。