『別れのワイン』
原題は「古いポートワインはみんな嵐を越えて来ている」というような意味合いだけれど、シェイクスピアか何かのもじりかもしれない。ラストの場面の時間帯から、つい「夜明けのワイン」と言ってしまったりするけれど、タイトルがどうあれ「別れのワイン」は、シリーズの最高傑作であり代表作である。ことあるごとに再放送されたし、ビデオやレーザーディスクの傑作選には必ず入っていたし、おかげで私はこの話を何十回と観ることになったし、今回この文章を書くに当ってDVDを見直そうとしたときも、なかなか観る気になれなかったりした。現に、始めのほうを何回も再生しなおしてはやっぱりやめるということを、幾度繰り返したか分からない。もう本当に何度も何度も見ていて殆ど中身を覚えているんだから、わざわざ見返す必要もないんじゃないかと言ういいわけを結局はしないで済んだのは、前半部を見直すのに何か月もかかったとはいえ、半ばを過ぎてしまえばやっぱり面白くて最後まで見てしまい、やっぱりラストシーンでは泣いてしまったのだから。
この話の最も面白いシーンは、終盤に差し掛かったところのレストランのシーンだ。犯人役のドナルド・プリーゼンスは、ワイナリーの責任者で、社長である弟を殺した。秘書役のジュリー・ハリスの証言で、潔白であることが分ったお詫びにコロンボが有名レストランに招待するところだ。まずお約束の車が古いと言う指摘を駐車係に受けるところから始まって、給仕頭から風体を見られてあまりよくない席に案内されるというくすぐりから、今ではソムリエという言葉も一般的になったけれど吹き替えでは「ワイン係」が白ワインと赤ワインとに担当が別れているのにコロンボが驚くところまで、このドラマによってレストランのマナーを学んだような気がする。そうそう「食い逃げはこの手に限りますな」とコロンボが言うのも、面白い。犯人は確定できるしレストラン代は払わずに済むし、コロンボにとってはいいことずくめだ。もっとも最後にいくらかのチップは払ってたけど。ここで最後に出されたデザートワインが、高温によって酸化してしまい、ワイナリー曰く「泥水」になってしまったことに激昂して喚き散らすおかげで、食い逃げもできたし犯人も分かったのだから。
雨の中放置されていたはずのオープンカーが全然汚れていなかったのはなぜか、異常気象で高温になってワインが駄目になってしまったのはなぜか、など気象に関するトリックが多く、その都度コロンボは気象台に問い合わせているけれど、この辺が原題と関係しているのかもしれない。レストランのシーンのあと、弟を殺すために空調を切ってしまっていたから、ワインが駄目になっていることに気付いた犯人がワインを捨てに行くのが夜明けだった。もちろんコロンボはそこを待ち伏せしていて御用となる。でも、コロンボが粋なのは、車の中で最後に白のポートワインを用意して、乾杯のあとボトルを犯人に抱かせるところだ。ここでほろっと来てしまうんだよね。
DVDのジャケットには「悪意のほとんどない犯罪」と書かれているし、憎めないむしろ同情を買う犯人役の代表として評価されていることも、これが最高傑作とされる理由の一つだけれど、本当にそうだろうか。いや、傑作なのは疑いがない。疑うのは本当に「同情すべき」犯人なのかどうかというところだ。実のところ、序盤ではけっこう嫌なやつとして犯人は描かれている。コロンボが捜査に乗り出すきっかけとなる、被害者のフィアンセも、フィアンセの兄を嫌っているし、被害者の友人たちも、被害者のスポーツマンシップを褒め称え、その兄貴である犯人を「気取ってる変人」と評している。むしろこの見方こそが、従来のシリーズの路線を踏襲しているもののような気がする。しかしここで相対的なものの見方が現れて嫌われているほうも実は嫌っているのだという真理が白日にさらされる。犯人からすれば、被害者は「高尚なワイン作りを邪魔する遊び人」でしかない。でもそんなにワイン作りが高尚なのか。これを反転させる力をもっていたのは実はコロンボの捜査方針だった。コロンボは犯人と目したワイナリーを追究するために、自分自身もワインのことを勉強してその心理や犯行を思い描こうとした。視聴者は当然のごとくコロンボに感情移入しているから、その過程で犯人役にも同情してしまうのだ。コロンボは捜査上の必然として、犯人に同化して、結果的に「同情」しているような恰好になってしまうのだ。その名残としての夜明けの乾杯に至るわけだ。むしろ最後の乾杯は、同情から来るものではなく戦友との別れの手向けとしての意味合いが深いと、私には思われる。その意味でこの邦題は見事にはまっているといえるかもしれない。
それにワインと言ったってたかがカリフォルニアワインじゃないか、と思ってしまうのは言い過ぎだろうか。犯人役もコロンボもイタリア人であることからより一層視聴者と探偵→犯人への浸透圧が強くなるのだから、いっそイタリアロケでも観光したほうがよかったのではないかと思えるほどだ。また、あれ、と思った方もおられると思うけれど、実は社長は「弟」なのだ。兄である犯人と社長は腹違いの兄弟で、父親は最初、兄に現金を、弟にワイナリーを遺している。これは何を意味しているのだろうか。父親もホンモノの醸造家だったらしいけれど、その父親が選んだのは実は弟の方だったのではないか。現に兄である現醸造家は、遺産としてもらった現金を食いつぶしてしまって、弟に拾われる形で現在の職に就いたという経緯があるのだ。兄の母親はイギリスの貴族だったらしい。その血を継いでいる犯人は、実はプライドと教養に偏っただけの放蕩息子だったかもしれない。弟の母親はアメリカ人で、被害者はアメリカ人らしくスポーツと経済を愛する現実的な人間だったのかもしれない。被害者は本当に嫌なやつだったのか。犯人は本当に同情すべき人物だったのか。疑問は尽きない。
実際に犯人を自供に導いたのは、ワインの酸化という事実ではないと思える。それだけでは決して証拠にはならないのだし。むしろ、秘書が犯人に同情し、嘘の発言をしてしまったことで、彼女の犯人への愛情が吐露されたことによって、彼女との結婚から逃げるために、進んで自供したとしか思えない。やはり皮肉な話だった。ワイナリーの行く末について「どうなるのでしょうか」と犯人が訊くと「なんとかなるでしょう」とコロンボは応える。それは恐らく従業員たちへの聞き込みの過程で得た信頼感によるものだったに違いない。コロンボの人間観察力はものすごい。秘書が犯人を愛していることなど、秘書と始めて会ったときから気づいていたに違いない。そのときコロンボは秘書の名札を見てこう言ったのだった。「名は態をあらわすといいますからね。カレンさんですか。お美しい名前だ」