『ロンドンの傘』
原題は「マクベス」からの引用になっていて、日本の視聴者には分かりにくい。邦題は、最後のコロンボのトリックにも絡んでいるし、ラスト近くでコロンボが言うように「ロンドン土産に何がいいかと思いついたのが傘」とあるように、ロスアンゼルスでは傘はあまりさされないが、ロンドンではみんな傘をさしているし、今回の被害者のサー・ロジャーも、いつも傘を持ち歩いていたのだから、いい邦題だと思える。
今回の犯人はリチャード・ベイスハート演じるニックとオナー・ブラックマン演じるリリアンの、シェークスピア俳優夫妻で、殺されるのは劇場の持ち主である。しかし、その殺人は、殺人というよりはもみ合った末の過失致死とでもいえそうなもので、恐らく、最初の目論見どおり自首すれば、そう重い罪にはならなかっただろう。しかし、かれらにとって重要なのは、明日開幕の「マクベス」であって、このところ不遇を託っていたふたりにとっての復活劇だったのだから、そういうわけには行かなかった。それでも、死体はそこらの川にでも捨て、車もどこか山の方にでも乗り捨てておけば、見付からなかったのではないか。色仕掛けで役を射止めたのは、かれらも悪いが、それに乗ってしまった方も、いみじくもリリアンに「ヒヒジジイだった」といわれてしまうので、天が味方したかもしれないし。せっかくの偶発事故をあとからいろいろ細工するのは、発覚のもとだろう。そもそも計画殺人でさえなかったわけだし、せっかくのロンドンが舞台なので華麗な推理劇画行なわれるかと思えば、どたばたの追いかけっこみたいだし。それはそれなりに面白いのだけれど、やはりコロンボはロスにいるべきだろう。
少なくとも死体の発見は遅れ、そうなれば少なくともたまたまロンドン視察に来ていたコロンボに目を付けられることはなかったはずだ。それが下手に策を弄するから、コロンボの目に留まってしまい、嘘に嘘、罪に罪を重ね、さらに第二の殺人まで行なう羽目になってしまった。推理ドラマとしてはイマイチである。最後の最後までコロンボの推理は正しくとも、犯人側が先回りをしてしまう。コロンボがかれらが犯人と確信したのは、別々に事情を聴いたのに、全く同じ供述がしかも自然に出てきたからだ。そこをコロンボに突かれてリリアンが言った科白がいい。「あんないい芝居をしてやったのに」そうかれらは役者としては一流だったのだ。「マクベス」も成功したし「完全犯罪」もうまく行くはずだった。この辺りの丁々発止は面白い。
しかし、決め手はなく、最後はコロンボの引っ掛けで蝋人形館の傘の中から出てきた真珠のたまだった。そこでも白を切れば、多分証拠はなかったはずだ。しかしニックの精神はそこで切れてしまった。彼は役者としては一流だったが、人間としては繊細な小心者だった。気が触れた様にマクベスの科白を言おうとする夫を庇うように、マクベス夫人が供述を始める。実際の殺人は演技力だけではできないと言うことだ。
関係ないけれど、舞台の成功パーティの客のひとりがビル・マーレイに見える。このころは無名なのでクレジットはされていないのは当然だけれど、それでもまだ若すぎるか。