『悪の温室』
原題は「温室のジャングル」であり、示唆に富んでいる。邦題では「温室」の語感に引きずられて「悪」といういささか安易な単語をくっつけた。何が悪なのだろうか。もちろん殺人は悪である。
今回の犯人はレイ・ミランド演じる園芸家だけれど、蘭を栽培しているといっても趣味の域を出ず、それで生計を立てているわけでもなさそうだし、金持ちでもない。レイ・ミランドは「指輪の爪あと」で被害者の夫を演じていたが、あのときは新聞王という大物だった。このレイ・ミランドはその弟だろうか。兄がどんな人物だったかは描かれていないが富豪だったらしく、息子はその信託財産で生活をしている。レイ・ミランドも同様に信託財産で生活をしているのかもしれない。だが、息子よりは額がすくないだろうし、蘭の栽培には金がかかる。どうにかして金を得ようと、兄の息子である甥と組んで狂言誘拐を仕組んだ。甥を演じるのはブラッドフォード・ディルマンだが、声を当てているのはルパン三世の山田康雄である。ルパン三世の癖に度胸も才覚もなく、ただ妻や叔父の言いなりになるばかりの情けない役であるが、殺されるほど悪いことをしただろうか? 叔父はこの甥を狂言誘拐の最中に殺害し、身代金を独り占めしようとした。
そこへコロンボが登場、となると納得が行くのだけれど、実は今回コロンボは殺人が行なわれる以前から登場している。しかも、狂言誘拐の捜査にかかわり、犯人が金を持っていくあとを尾行さえしている。それなのに、コロンボは殺人を止めることができなかったし、そのことを悔やんでいる節すらない。コロンボはまるで殺人を予期していたかのごとくに登場し、殺人を行なわせ、そのあとでその犯人を挙げているように見える。つまりは、コロンボは殺人を看過しているように見える。これは単にコロンボが万能ではないということを示すエピソードだろうか。しかし、いつものコロンボの神通力からすれば、この程度の殺人は未然に防ぐことができたように思える。はじめに、犯人と被害者の妻が、誘拐犯からの連絡を受けたところへあらわれたとき、コロンボは何か変だと気づいたはずなのである。それから、犯人を尾行していったときに、途中でまかれてしまった様子だが、なぜもっと執拗に追いかけなかったのか。コロンボが、犯人に目星をつけたのは、やはり殺人が起こった後なのだろうか。
犯人が拳銃を、刑事に捜索させて見つけさせるシーケンスは、「二枚のドガの絵」の二番煎じに見えるけれど、そのときようやく犯人が誰か分かったとでもいうのだろうか。証拠を見つけるのがあとになってしまうのは仕方ないけれど、いつものコロンボならもっと早く犯人が誰か分かったはずだし、それならば殺人は未然に防げたはずなのだ。それならば、コロンボはこの殺人を望んでいたことになる。一体何のために?
今回のコロンボは意地悪でもある。被害者が狂言誘拐に乗ったのは、金が欲しかったからだけれど、その金は妻の愛人に手切れ金として渡すためのものだった。愛人は金さえもらえれば別れてもいいといったのだ。そのことを、コロンボは当の愛人とデート中の妻にわざわざ告げに行く。それを聞いた妻は愛人が自分を愛しているのではなく金を愛しているのだということに気付くわけだけれど、おせっかいではなかろうか。まるで愛なき寂しさの伝道師みたいだ。これが犯人なら、テーマも浮き上がってくるけれど、そうでないなら余計なことにしか見えない。もちろん妻も愛人も犯人ではないし、コロンボもそのことは重々承知だ。このときには既に誰が犯人か分かっている。一方で被害者の元秘書に対してはどうだろうか。この秘書は、一見愛人タイプのグラマーだけれど、実は被害者と肉体関係はなく、被害者が唯一心を許して愚痴ることのできる親友だった。コロンボもそのことは分かっている。コロンボが彼女に会いに行ったのは、彼女が犯人をそそのかしてシッポを出させるためだった。その結果犯人は拳銃を隠すというやらずもがなのことをやってしまう。コロンボは徹底してマキャベリストなのである。
トリックは面白い。もう一つの銃弾がみつかることで、証拠の意味合いが最後にひっくり返ってしまう。そこにもっと焦点を当てて、コロンボを殺人以後に登場させれば、大傑作になったかもしれない惜しい話だと思う。そうしなかったのが単なる失敗でなければ、コロンボの冷徹さを浮き上がらせるエピソードといえる。