『黒のエチュード』
これは珍しく原題どおりの邦題がついている。ミステリのタイトルに「黒」の色を当てるのは、ウールリッチ以来の伝統だろうか。ジョン・カサベティス演じる指揮者が、愛人であるピアニストを殺す。指揮者だけでなく楽団全員が黒のタキシードを着ているので、そこにかけたタイトルかも知れない。現にミスデレクションで登場する楽団員のひとりが、黒のタキシードを着ていることによって疑われることになる。目撃者がいたのだ。ただし単に帰るところを見られたというだけで、コロンボもかれを疑わない。犯人が用意した容疑者ということに過ぎない。辣腕プロデューサーでもある、犯人の義母も、そのミスデレクションには引っかからず、公平な立場を貫く。
はじめ気になったのは、犯人はどうして舞台衣装であるタキシードを着て、殺人を行なったかということだった。私服もしくは変装をして行なうのが普通ではないか。楽団員のひとりに罪を着せるために似たような服装をしたとも思えない。変装を行なう時間がなかったというのは分かる。あとになって被害者も、同じコンサートに出るピアニストであると分かるので、油断させるためだったと分かる。これからコンサートに出る正装で訪れることで、共にこれからコンチェルトを行なうのだと思わせる。犯人は周到で、ピアニストがいなくなることによってできなくなるコンチェルトがなくてもコンサートができるように他の曲も練習済みだし、カメラの位置もそれに合わしたものを指示している。
ただ一つうかつだったのは、妻が胸に付けてくれたカーネーションを殺人現場に落としてきたことだし、それを拾うために現場に駆けつけたことだ。もうそれだけでコロンボに捕まったも同然だった。アリバイ工作はすぐに見抜かれてしまう。ただそれだけでは、犯人でないとは言えない、というだけであって証拠はない。証拠は、ビデオに写ったコンサートの最中は、胸にカーネーションをつけていないのに、事件現場から出てきたときのニュース映像では胸にカーネーションをつけていたことだ。しかし、これは当初からのミスであり、それほどコロンボの手柄のようにも思えない。
無論凡百の警官なら見逃したかもしれないが、単に犯人のミスである。有能な警官ならコロンボでなくても犯人を捕らえたのではないか。そもそも、コロンボはなぜ彼が犯人だと思ったのかという点も弱い。被害者は、自殺に見せかけられているわけだが、こんな有能で美人なピアニストが自殺するわけがないと言う根拠に過ぎない。それでは、殺人とは分かっても犯人が誰かは分からない。まあ、他に犯人はいそうにないと言う消去法である。そして、真っ先に現場に現れたのがかれであるからだ。二番目に現れた人物は、彼女を愛していたが犯人ではない。愛していた人物よりも、殺した人物の方が危急なのだ。
妻との関係、妻の母との関係も丹念に描かれるが、事件と直接関係があるようには思えない。コロンボは拾った犬の予防注射のために訪れた動物病院で、当の犯人のコンサートのテレビ中継を見ているが、これもさほど重要とは思えない。ラストで犯人は妻に「愛している」と言って証言を翻させようとするが、愛しているならなぜ、カーネーションの花にもっと気遣いを見せなかったのか。そもそも愛していないからこそのミスだったと分かるところが、唯一の見どころか。最後にコンサートのビデオを見るコロンボも、そのことが分かっていて切ない気持ちになっているのだろう。芸術家とは、才能と引き換えに、移り気な非人間性を持ってしまうのだろうか。