大樹海にて
大樹海はこの国の半分以上を占める広大な木々の海だ。広大すぎて、全部をひっくるめて大雑把に“大樹海”と呼ばれているが、もちろん接している地域ごとの呼び名もある。たとえば“ヴァルテンブルクの森”のように。
“守護者の森”というのは大樹海の奥まったところにあるほんの一部の地域のことで、森の奥深くまで入らなければいけない場所にあると、ウォーカーは説明した。そこで外部との交流をほぼ断絶して生きているのが、“守護者”と呼ばれている人々だと。
「“守護者”というのは、その森を守護してる部族を指しての呼び名なのですよ」と、ウォーカーは言い、「そのままじゃないですか」とユーディットは返した。
ヴァルテンブルクを出発してもう7日。当然ながら、森には道がない。目的地までまっすぐ進めるわけでもない。危険な場所や魔獣がいる場所を迂回して、時には藪を切り開いてぐねぐねと進む。馬を連れて行くのは困難であるため、全員徒歩だ。
……聖騎士なんて、馬での旅しかしたことがないのではないだろうか? そもそも旅をすることなんてあるのだろうか? それに、あんなにがっちり重たい甲冑を着ていて、まともに森を歩けるのだろうか? ユーディットはちらりとクロを見たが、彼は意外に平然としている。ジリオンも、初めて会ったときはたおやかなお嬢さん風に見えたのに、今は勇ましく板金鎧を付け、腰に剣まで下げている。意外というか、さすが戦神の司祭というか。
ウォーカーは斥候役として少し先に進み、あらかじめ危険がないことを確認している。ユーディットは殿だ。大樹海ではいつ魔獣が出てきてもおかしくない。ここまでにトラブルらしいトラブルがなかったのは、斥候が優秀だったからだろう。
何せ、大樹海の最奥には恐ろしいドラゴンの巣があると、ほんとうかどうかわからない噂まであるくらいなのだから。
もちろん、森の中には村どころか人家すらなく、日が暮れればウォーカーが知っている「野営にちょうどいい」という場所で火を焚き夜を明かす。
……本当に、師匠はこの森のことを何でも知っていると、ユーディットは感心した。今までは一人前として認められることに必死で、あまり師匠についてじっくり考えたことはなかった。彼はいったい何年生きているのだろうか。ユーディットが聞いた話では、妖精には寿命がないのだそうだが、それは本当なのだろうか。
「気になっていたのですけれど、ウォーカー殿は上の妖精のかたですよね。どちらのご出身なのですか?」
その日の野営で、食事をしながらジリオンが口を開いた。
ウォーカーが少し考えるそぶりをしてから、にっこりと微笑んで答える。
「秘密です。……実は、まだほんの若造だった頃にやんちゃをしてしまいまして。家出の挙句にこちらへ来たので、故郷のことは話しづらいのですよ」
「え? 師匠、そうだったんですか?」
「冗談です」
ああもう、この師匠は、とユーディットは溜息を吐いてから、ジリオンに向かう。
「……司祭さま、上の妖精とは、普通の妖精と違うのですか?」
「ええと、実は私の後見が上の妖精の方なのです。彼女の話では、町に出てくる妖精に、上の妖精はめったにいないのだそうです。そもそも、上の妖精はそのほとんどが妖精界にいて、この人間界にはほんの少ししか住んでいないのだとか。それに、普通の妖精は一般的に暗い色の髪で、金や銀の髪色は上の妖精にしかいないのだとも仰ってました。ウォーカー殿は銀の髪でしたから、上の妖精の方なら、もしかして私の後見の方と知り合いではないかと思いまして」
「ジリオン司祭の後見人……シルヴァリィ殿ですか。私は湖の町へ移って5年ですが、一度だけお目にかかったことがあります。銀の髪に深い青の目のたいへん優雅で美しいお方でした。聖騎士団では、妖精の姫君なのではないかと言う者もいましたよ」
クロが思い出し笑いを浮かべる。その話をした聖騎士は“妖精の姫君”という考えにかなりのこだわりを見せていたのだ。
くつくつ笑うクロに、青の目ですかとウォーカーが呟いた。
「ええ、町の名になっている湖の水底のように深い青です。
……シルヴァリィ殿はジリオン司祭の後見となる前から、戦神の教会の高司祭の方々ともお付き合いがあるそうですね。けれど、戦神の司祭というわけではないと聞いて驚きました」
「ええ」と頷いてから、ジリオンは少し考え、続けた。
「私の身の上話になってしまって恐縮なのですが、私はシルヴァリィさまの養い子なのです。ほんの赤ん坊の頃にシルヴァリィさまが私を拾ってくださって、お付き合いのある教会の司祭に預けたのだと仰っていました。
おかげで、私もこうして立派に戦神の司祭となることができましたし、その後も、自分が後見だからと仰って、いろいろと便宜をはかったり、手助けしてくださったりするんです」
「ええと、そういえば」
ユーディットはずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「司祭さま、戦神の司祭は剣の訓練もされるのですか? 剣を使われるのは、聖騎士の方々だけかと思っていました」
「はい、戦神のお使いになる武器は剣ですし、戦神の教会では、戦士のように武器を扱う訓練もします。本職の方々のように戦えるほどではありませんが」
ジリオンがそう言うと、クロが笑いながら言葉を継いだ。
「そうは言っても、司祭には神の奇跡がありますからね。もしジリオン司祭に本気で来られたら、私でも敵うかどうかわかりません」
「そんなにですか!?」
実際にクロとジリオンが戦うことになるなんてありえない。が……「もしも」か、とユーディットは、全身を甲冑に固めたクロと今もたおやかに微笑むジリオンが戦う姿を頭に浮かべようとして、失敗した。ジリオン司祭が勇ましく剣を振り回す姿か……。
気づくと、くっくっとウォーカーが笑っている。
「ユッテ、戦神の司祭は戦い向けの奇跡を多く授かることができるのですよ。高司祭の戦いぶりは熟練の戦士をも凌ぐと聞いたことがあります。
……ジリオン司祭、残念ながら、あなたの後見人は私の知らない方だと思います。私の故郷には、青い目の上の妖精はいませんでしたから」
ジリオンが、そうなのですかと少し残念そうな顔になった。
「では、念のためにですが、私は今のうちにもう一度周囲を確認してきます。
……予定通りなら、おそらく明日中には守護者の森と呼ばれる地域に入れるでしょう」
ウォーカーは立ち上がると、森の中へと入っていった。
時折差し込む月明かり以外何も明かりのない、真っ暗な森の中を歩きながら、ウォーカーは先ほどの話を反芻していた。
「“青い目”のシルヴァリィと名乗る上の妖精、か」
確かに自分は上の妖精だ。だが、生まれてこの方、“青い目の上の妖精”が存在するなど聞いたことはない。上の妖精の目の色は、大抵自分のような琥珀か紫だ。ふと、自分がまだ子供だった頃に聞かされた話を思い出し、一つだけ可能性があるとしたら……と考えて、いやいやいや、まさかそれはあるまいと打ち消した。
……未だについつい気になっては手を出してしまうが、ユッテ……ユーディットもそろそろ完全にひとり立ちすべきだろう。“守護者の森”まで彼女を送り、用事を済ませて無事帰ったら、自分もそろそろ本来の場所へ戻る頃合かもしれないと考える。
彼女を教えた5年は、久しぶりに楽しい5年だった。
本当に偶然とおりかかって彼女を助けたら、弟子にしろと食いついて離れないとは。つい、昔のあの子のことを思い出し、訓練を引き受けてしまった。
これまで名残惜しくてずるずるとここに居続けたけれど、もう十分なんじゃないだろうか。
「ああそうだ。伝言を送らないと」
顔を見るのは何年ぶりだろうかと考えながら、ウォーカーは野伏の“伝言”を任せる動物を呼んだ。