前篇
「まただ」
村からさほど奥へ入ったわけでもない森の中に、明らかに野営を行ったと思われる痕跡を見つけて、ユーディットは小さくつぶやいた。今度の痕跡はまだ新しい。慎重にあたりを伺って何も潜んでないことを確認する。
痕跡の主は、おそらく人間ではないだろう。よほどの訳ありでければ、こんな場所に野営を張るよりも村で一晩の宿を頼んだほうが安全だ。ここは大樹海の端で、運が悪ければ寝ている間に魔獣に襲われて死んでもおかしくない、危険な場所なのだから。
それに、乱雑に切り広げられた下生えや、ぞんざいに散らかした焚き火跡からもそれは伺える。残された足跡から見て、人間と変わらないサイズのヒューマノイド……おそらく、オークあたりだろうか。でか鼻に鋭い牙を持っていて、人間のように集団行動もするし武器も使いこなす、けれど野蛮で、およそ理性とは無縁の危険な種族だ。
大樹海のどこかに、彼らの集落があるらしいとは聞いている。けれど、このあたりまで出てくることはあまりない。それが何故こんなところで野営をしているのか? わからないが、よからぬことであるのは間違いない。たまたまこのあたりを通りがかっただけならまだしも、村を襲撃するために出てきた部隊であれば大問題だ。
これまでも何かと師匠から「うかつな行動は自分の生命を危険にさらすのだから気をつけなさい」と言われている……が、野伏としての厳しい訓練を3年、ようやく1人で行動できるようになってさらに2年経っているのだから、そこまでうるさく言わなくてもよくわかっているのに。そんなことを考えながら、ユーディットはなおも慎重に周囲を調べた。
隣には、あたりをふんふんと嗅ぎまわるアレフもいる。
3年前、森で拾った小さな子狼は、今ではアレフという名前の大切な相棒になっている。アレフの鋭い耳や鼻は、これまでもずいぶん自分を助けてくれた。そう、自分だけじゃなくてアレフもいるのだから、大丈夫だ。
「もう少し調べたら、兄さまに報告したほうがよさそうね。長靴の足跡に武器かなにか引きずった跡もある。これ、どう見ても穏やかな集団じゃないもの。数は、たぶん15ってところかな……え? これ?」
おそらく集団が去ったと思われる方向の藪に、衣服の切れ端が引っかかっていた。野蛮なオークの衣服の切れ端とはとうてい思えないやわらかい布地だ。かなり汚れているけどきれいに染色され、刺繍もされている。
「まさか、だれか連れられているの? 人間を? 村から誰か浚われたの? 誰が?」
すうっと背筋が冷たくなった。オークが人間を浚うのはよくあることだ。奴隷にしたり……最悪……。
「急がなきゃ。アレフ、跡を追おう」
兄さまに報告している時間なんてない。一人は無謀だとわかっているし、できれば師匠にも連絡をしたいけれど、この浚われた誰かがどうなっているかを考えると悠長なことはしていられない。“動物の伝令”の魔法はまだ習得できていないから、今すぐ誰かにこのことを伝えることもできない。
どうかすぐに師匠が気づいてくれますように、と祈りつつ、野伏の間でよく使われる合図だけを残し、オークの歩いた後をたどり始めた。
不覚、だ。
野営中、オークどもの襲撃を受け、気づいたときにはすでに囲まれていた。すぐ応戦したが、いかんせん数が多かった。司祭殿からも徐々に引き離されて、最後に見えたのは彼女の馬がオークの戦斧の一撃を食らって倒れるところだった。
それでもどうにか目の前のオークどもを始末し、彼女がいた場所に目を向ければ、すでに姿は消えた後で……。
やはり、彼女がなんと言おうと無理をせず、ひとつ前の村で宿を請うべきだった。ここはヒューマノイドと魔獣で悪名高い、大樹海の辺縁なのだから。
通常、土地勘のないこの地で、オークどもの跡を追うことは困難だが、幸いにも奴らの痕跡は素人目にもわかりやすいもので、きちんと追跡の訓練を受けていない自分にすら、たやすく追えるものだった。
一瞬だけ、一度領主のところへ馬を走らせて……と考えたが、すぐに馬を引き、後を追い始める。
向かった方角に何があるのかわからない。やつらが彼女を連れてどこへ向かったのか、何にせよ、その目的は良からぬものに決まっているだろう。
「猛き戦神よ、ジリオン司祭に御身のご加護を」
どうか彼女が無事であるようにと、戦神に祈る。この場で殺されたわけではないのだから、少なくともすぐに彼女をどうにかする意思はないのだろう。しかし、だから安心などとはけして言えないのだが。
今、自分にできるのは、とにかく少しでも早く追いついて、彼女を助け出すことだ。
オークたちはあまり警戒心を持っていないらしい。ユーディットはそのことに少しだけ安心する。そこかしこに痕跡を残したまま、それを隠そうともしていないのだから、このままやつらの跡を見失うことはない。
やつらが何をしに来ているかはわからないが、迷わず一直線に進んでいるのだから何か目的があるのだろう。
……しかし、このまままっすぐ進んだ先には、100年くらい前の魔獣の襲撃で放棄された村跡があるだけだ。今となっては崩れた教会の廃墟しか残っていないし、もちろん、オークたちが欲しがるようなものも何もないはず。
「もしかして、根城を作ろうしているのかな? アレフ、どう思う?」
傍らの狼に話しかけながら、考える。
廃墟を根城にしたオークが近隣の住民を脅かすというのはよく聞く話だが、あそこにそんなことができる建物は残っていただろうか?。
痕跡をたどりながら、他に、浚われた者の手掛りとなるような痕跡はないだろうかとなおも探す。残されていたはぎれから女性だろう。無事ならいいのだけど……。
後を辿り始めて数時も経つ頃、そろそろ森の端に出ると思われるあたりで、急にアレフが後ろを振り向き、唸り声を上げた。
まさか、後ろを取られたのだろうか?
ユーディットが慌てて剣を抜き、身構えると、ガサガサと茂みが揺れて、りっぱな軍馬を連れた騎士……クロが警戒もあらわに姿を現した。
お互い、意外な相手に驚き、一瞬ぽかんとする。
「なんで、騎士がこんなところに?」
「きみは誰だ?」
疑問をそのまま口に出し、クロはまじまじとユーディットを見つめ……それから剣を納めた。
「……私は、この大樹海とヴァルテンブルクの野伏、ユーディットです。オークの集団に、領民と思われる人間が攫われ……あ、もしかして、攫われた方の連れ?」
「私は戦神教会の聖騎士クロ。オークの集団に襲われ、私の連れのジリオン司祭が連れ去られてしまったんです」
ここで野伏に……このあたりの地理に詳しいものに会えたのは僥倖だと、クロは考える。これならジリオンに何か起こる前にオークどもに追いつけるのではないだろうか。
ユーディットも剣を納めた。これから相手にするオークのことを思うと、ここでクロに会えたのは運が良かったと言える。ほっとしながらアレフにも問題ないと合図を送った。
「オークは、たぶん、この先の廃村を目指してるんだと思います。事情は後にして、急ぎましょう」
クロは頷いて、ユーディットの後に続いた。
数時ほど辿ると、森の木々がまばらになって奴らの目的地と思われる村跡が見えてきた。
慎重に身を隠しながら進むと、ほとんど崩れ去って壁の一部と土台しか残っていない教会に、ちらりとオークの姿が見えた。崩れずに残った壁際に立っているのは、歩哨のつもりだろうか。浚われた人間の姿は見えない。
「クロ殿、私がギリギリまで近づいて、弓で仕留めます。ここで少し待っていていただけますか」
「しかし……」
「クロ殿の鎧では、音で気付かれてしまいますから」
私も、と言いかけたクロに、ユーディットは苦笑する。自分とアレフだけなら気付かれずに近寄る自信はあるが、クロを伴ってはとてもそうはいかない。
「そのかわり、最初の1体を倒したら、すぐに援護をお願いします」
クロは仕方ないと同意し、くれぐれも注意してくれと言った。
木陰を渡り、死角から近づけるところまで近づいた。自分だけでなくクロがいてくれるのは心強いが、できれば師匠が来るまでは待ちたかった。
だが、待っていたらジリオン司祭がどうなるかわからない。このままなんとかするしかないと覚悟を決める。ユーディットには、この地域の野伏として彼女を助ける義務があるのだ。
十分に近づいたところで弓を用意してアレフに合図を送ると、きりきりと引き絞り……しっかりと狙いをつけて矢を放つ。吸い込まれるように矢が飛んでオークの首を貫くと、すかさずアレフが飛び掛って、止めを刺した。
ここからは時間勝負だ。物陰を飛び出し、腰の剣を抜きながら廃教会へと走る。後ろからクロが走ってくるのもわかった。
教会の壁の裏から出てきたオークは3体。先に飛び出してきたほうにアレフが飛び掛ったのを見て、後から出てきたオークへと斬りかかった。すぐにクロも追いつき、ユーディットを庇うように立ってオークと切り結ぶ。
瞬く間にオークを倒し、ユーディットがまた辺りを伺うが、他のオークが来る気配はなかった。ついでにクロと自分とアレフを見て、大きな怪我もなく、無事なことを確認してほっとする。
「オークはこれだけじゃないと思います」
そうユーディットが告げると、クロも頷いた。
「私たちを襲ったオークはもっと多かった。この先にでも隠れているんでしょう」
他に奴らの潜みそうな場所は……と考え、地面の痕跡をさらに調べようとしたとき、アレフが廃教会の、もと礼拝堂と思われる場所に向かって唸り声をあげた。何かを聞きつけたらしい。
「あちらに何かいるみたいです。確認してきます」
有無を言わせず、クロを押しとどめ、ユーディットはゆっくりと隠れながら近づいていく。アレフが警戒している先をそっと伺ってみると、床石を剥がして掘られた大きな穴があった。奥からはかすかに……おそらく、オークの声と思われるものが聞こえる。
「何これ……」
思わず呆然と呟くと、クロが低く抑えた声で「何がありましたか?」と尋ねてきた。
「穴、が」
「穴?」
クロがゆっくりと慎重に近づいてくる。
ユーディットが知る限り、この廃教会の地下に何か残されているいう話は聞いたことはない。もちろん、地下室はあったけれど、そこに置いてあったものは教会の移転と一緒にすべて移されたはずだ。ここにはもう何も残ってない。なのに、なぜわざわざ掘り返してまで地下に潜っているのだろうか?
「わかりませんが、オークが掘り返しているようです。少しの間、音を立てないようにお願いします」
じっと耳をすませて、ユーディットはオークの声以外に何かないかと探ってみたが、聞こえてくるのは壁か何かを殴りつけるような音だけだった。
……ユーディットは森の中での行動には慣れているけど、こんな穴の中の調査、しかもオークがいるとわかっている穴の中へわざわざ入ったことなんてない。オークが相手では動物を落ち着かせる魔法は効かない。間違いなく斬り合いになるだろう。
だが、ひとりではなく、クロもいるのだと考える。アレフとユーディットとクロ。3人なら、なんとかなるかもしれない。
師匠もすぐに来てくれるだろうと希望を込めて、入り口の横に石を積んで簡単なサインを残す。森の女神に加護を願う祈りの言葉を呟くと、ユーディットはクロを促し、穴の中へと踏み込んだ。