大樹海の夜
木陰で火の番をしながら、クロは悩んでいた。何故こうなった、と。
「ええと、アレフ、撫でてもいいかな?」
そう言ってから、耳をあちこち向けつつ傍らに寝そべったアレフの背を撫でる。なるほど、これはいい感触だ。ユーディットが暇さえあれば何かと撫でている気持ちがわかる。
そのクロの背後からは、女性陣のはしゃぐ声が聞こえていた。
「もうね、限界だと思うんですよ。だから、ちょっと早いですけど今日はいい場所があるので、そこで野営にしましょう」
明日には森を出るだろうという場所まで来たところで、ユーディットがそう言い出した。特に反対する理由もないので、その“いい場所”で野営をすることにしたのだが……。
「お湯、ですか? 温泉? まさかこんなところに温泉があるなんて思いませんでした。これは嬉しいですね!」
ユーディットが、川の横で湯気を立てて湧き出る小さな泉を得意げに指さすと、ジリオンが驚いた声を出した。アレクサは物珍しそうに泉を覗いている。
「ええ、前に、師匠と巡回してるときに見つけたんです。そのままじゃ熱すぎるので、そばの川からすこし水を引き込めるようにしてあるんですよ。
このあたりで野営するときは絶対ここって決めてるんです。見張りはアレフがやってくれますし」
ユーディットは嬉しそうに頷いた。これが、森の巡回のささやかな楽しみのひとつなのだという。
「それに、もうずっと、まともに水浴びもしてないじゃないですか。守護者のところは蒸し風呂で、あれも気持ちいいことは気持ちいいんですけど、物足りなくて。ここのところ日が落ちるとすぐに冷えるようになったから、水浴びでは寒いですしね」
「……もしかして、これに入るの?」
「そう! すごくさっぱりするし、あったまるし、疲れも取れるのよ」
ユーディットは、信じられないと声を上げるアレクサに笑い、それから、満面の笑顔でクロのほうに振り向いた。
「じゃあ、クロ殿、アレフと一緒に火の番と見張りをお願いしますね!」
「で、ジリオン司祭。前から思ってたんですけど、“様”はやめませんか? ただのユーディットでお願いします」
「まあ……じゃあ、“ユッテ”と呼んでもいいかしら。ウォーカー様がそう呼んでおられたじゃないですか。かわいいなあって思っていたんですよ」
「え……」
「“ユッテ”って絶対かわいいですから、そうしましょう。そのかわり、私のことは“ジル”でお願いしますね」
「いや、かわいいって、私はそういうタイプではないですし」
「“ユッテ”と呼ばせてもらいますね?」
バシャバシャという水音と一緒にジリオンがくすくすと笑う声が聞こえ、焚火をかき回しながら、クロは考える。ああ見えて、ジリオン司祭は意外に押しが強い……それにしても、全部聞こえてますけど、声大きくないですか?
「かわいいって……ジリオン司祭……じゃなくて、ジルみたいな方を言うんですよ。
私はどちらかというと父さまに似たから、あんまりかわいいってタイプじゃないです。むしろ、10年前の兄さまのほうが美少女でした」
「レオンハルトさまが?」
「ええ、兄さまはあの通りの金髪碧眼に母さま似の顔で、昔はもっと体格も華奢でしたし。
母さまがドレス着せようとしたら、さすがに全力で逃げてましたけどね。子供心に、兄さまと自分は、容姿か性別が逆だったらよかったんじゃないかって考えてましたよ」
「それはなんというか、見たかったですね……」
「でしょう? たぶん当時の兄さまとジリ……ジルを着飾って並べたら、いい勝負だと思うんです。ジルはかわいいし女性らしい体つきだし、素敵なレディだと思うんですよ」
「いえ、やはりユッテもきれいだと思うのですよ。私とタイプが違うだけだと思います。……そうですね、スレンダーなクールビューティーで押せると思うんです!」
「いえ、私は筋肉ばっかりでゴツゴツしてますから、ちょっと無理があるんじゃないかと……なんというか、ないですし。いろいろと」
クロは背後の様子に溜息を吐く。いや、あるとかないとかはともかく、自分はいつまでこの会話を聞いていればいいのだろうか。
あふ……と、退屈そうにアレクサが欠伸をし、ザバッと音を立てて立ち上がった。
「いいかげん、暑いから、出るわ」
「あ、ちょっと待って、アレクサ。出るなら、髪を洗いましょう。きちんと」
アレクサは呼び止めるジリオンを面倒臭そうに見やった。
「なんで?」
「あなたも、そもそも外に行きたいと言っていたのですから、外のことをちゃんと知っておくべきです。町では身なりはきちんと整えなくてはいけません。なるべくなら毎日髪も洗いましょう。せっかくこんなにきれいな黒髪なのですから」
「……自分でやる。ほっといてちょうだい」
目を眇めるアレクサに、ジリオンはそうはいかないと首を振る。
「これだけ長さがあると、一人で洗うのは大変ですよ? さ、手伝いますから洗いましょう。ちゃんと髪用の香油もありますから、徹底的にやりましょう」
2人を眺めていたユーディットは、ふと思い出して聞いてみた。
「そういえば、ジルは私より年下だと思うんですけど、しっかりしていますよね。おいくつなんですか?」
「……え?」
ぽかんと口を開けるジリオンを尻目に、ユーディットはじっと考え込む。
「私は18ですから、16か17ってところでしょうか。そんなにお若いのに司祭だというのは、すごいと思うんですよね」
「え……ユッテ? その、私、これでも……21なのよ……」
おろおろと、どう言ったらいいかわからないというようすのジリオンに、今度はユーディットがぽかんと口を開けた。
「……えっ!? うそっ!」
「ええ、まあ、童顔だという自覚はあるわ……酒場ではよくお嬢ちゃんて言われるし……」
「あ、あの、ごめんなさい……」
「いえ、いいんです。あとでアレフのお腹を撫でさせてもらえれば、それで」
ほう、と息を吐くジリオンに、慌てて取り繕うように、ユーディットはアレクサを見た。
「ええ、それはもう……あの、じゃあ、アレクサは?」
「……私は19」
「もしかして……この中じゃ、私は最年少だったんですね……なんだかすみません……」
ああ、実際、ジリオン司祭は可憐な美少女として聖騎士団でも評判だったなと思い出す。かといって、万一にでも手を出そうとすれば、シルヴァリィ殿が絶対黙っていないだろうから怖いと言われていたことも。
うん、全部聞こえてますよジリオン司祭。絶対声大きいです。でも、ここで聞こえてますよと言ったら、自分が非難されるのだろうな……せめて、ウォーカー殿が一緒なら、ここまで居た堪れない気持ちにはならなかったのではないだろうか。いや、あの人のことだから「周りを見回ってきます」とかなんとか言って、しれっといなくなるに決まっている。
クロはアレフの背を撫でながら、ともかく、ここは聞こえなかった振りを貫こうと決めた。
「でね、聖騎士団の方々は、なんというか、見目のよい方が揃っているのですよ。なんといっても聖騎士の方々が所属する騎士団ですしね」
話題は、いつの間にか聖騎士団のことに移っているようだった。
「女性司祭からの評判は、実はそれなりなのですけどね。やはり、普段を知っていますし。それと、役職的に、どちらかといえば司祭は聖騎士を率いる立場となることも多いので、評価はどうしても厳しいんです。
でも、町の女性にはさすがと言わんばかりの評判ですよ」
「じゃあ、クロ殿もそうなんですか」
「この際ですから、クロ殿もクロで行きましょう。湖の町まで結構かかりますし、堅苦しいと疲れます。
ええと、そうですね。クロも町の女性に人気があると思いますよ。淡く赤みがかった金髪にアイスブルーの目というのは、ポイントが高いようですね」
「たしかに、きれいですもんね」
「ええ、あの色合いが貴公子のようだっておっしゃる女性はかなり多いのですよ」
ああ、居た堪れない、真面目に居た堪れない。だが、立ち上がってここを去る機会はとうに逸している。それでも自分はこのままここに居続けていいのでしょうか、ジリオン司祭。お願いですから声を落としてください。
クロは思わず神に祈る。
「でもねえ、私としては、もう少しがっちりしている方のほうが……やはり、全身鎧は体格が良いほうが似合いますし」
「はあ……」
「そうですね……ええと、ヴァルテンブルクでお会いした、マルクス殿。彼くらいがっちりしていると良いですね」
「ああ、マルクスは確かに鍛えていますから。ヴァルテンブルクで一番の戦士ですし、兄さまの剣の師匠でもあるんです」
「まあ、そうなんですか。アレクサはどう思いますか?」
「は? どうって言われても……森には筋肉ダルマなんてほとんどいなかったし……」
「そういえば、守護者の一族の方は、みなさん細身でしたね」
「ジル……そんなによく見ていたんですか?」
「あら、だって人間観察は、初めて行く土地ではとても重要なことですよ?」
「私、そこまでじっくり見てません」
「まあ、もったいない」
「……森じゃ、身が軽いほうが有利だし」
「たしかに。野伏も身が軽いほうが何かと便利だったりしますから、あまり力ばかり鍛えることはないですね」
疲れた。森を歩くよりも、ずっと疲れた。
ぐったりとしているクロに、ジリオンがにこにこと機嫌よく声を掛けた。
「クロ殿、お待たせしました。
それでですね、これから先も長いですし、堅苦しいのはやめて、私のことはジルでお願いします。私もクロとお呼びしますから。ユーディット様のことも、ユッテで。アレクサは、まあ今までどおりアレクサですね。
先ほど、皆で決めたんですよ」
ええ、わかっておりますと思いつつ、クロは頷いた。「了解しました」
「それでは、クロもさっぱりしてきてください。火の番と見張りは、私たちでやりますから」
大樹海の夜は更けていく。