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外の者から離れ、賢者の小屋へ戻る途中にアレクサがいた。
「……ミナ」
「アレクサ、どうしたの?」
彼女とは、子供時代の訓練を一緒に受けた仲間だ。お互い、それぞれの師についてからは会う機会も減り、訪ねあうこともほとんどなくなったのだが……急に、どうしたというのか。
ミネルヴァは、首を捻る。
「ねえ、外の者たちはどう? 何か話した?」
「特には。一族のことや賢者さまのことを聞かれたけど、外の者に教えられることは何もないし」
ああ、外の者が珍しくて、様子が聞きたかったのかと納得する。
「そう……外のことは?」
「……何も。外のことなんて、聞いてもしかたないでしょう。一族には関係ないじゃない」
急に、アレクサが笑う。口の端を釣り上げて、何かおもしろいものでも見つけたかのような顔で。
「そう? 一族に関係なくても、自分には関係あるんじゃないの?」
「どうして? 外に出ることなんてないのに、聞いてどうするの」
不意に、アレクサはミネルヴァの目を覗き込むように、じっと見つめた。
「……ミナ」
「アレクサ?」
ミネルヴァは、怪訝そうにアレクサを見返す。アレクサはますます笑みを深め、口の端を歪める。
「私、知っているの」
「え?」
「あなたも私と一緒でしょう?」
「何……?」
いったい何が一緒だというのか。ふと、ミネルヴァはアレクサが怖いと感じた。何故か、アレクサがすごく怖い。
「外に出たいと、考えたことが、あるでしょう?」
「え……あるわけ……」
「あるでしょう? 私は知ってるの」
「アレクサ……」
急に何を言い出すのか。
いったい、何を知ってるというのか。
彼女に見つめられ、恐怖が増し、息が苦しくなる。
思わず心臓の位置に拳を当てるミネルヴァに、アレクサはくすくすと笑い……そして、真剣な顔で囁いた。
「ミナ……森があるから、私たち、ここに縛られるのだと考えたことはない?」
どきりとする。一瞬、自分のことを何もかも見透かされているように感じて、心臓の鼓動が激しくなる。
「何を、言ってるの」
ミネルヴァの掠れた声にはまるで気づかないように、アレクサはうっとりとした表情を浮かべた。
「私はあるの。外に出たいわ……外に出て自由になりたいけど、ここがある限り、私は出られないの。この森が私を縛りつけて、私から自由を奪っている」
そう言って、アレクサは、ぎらぎらと底光りのする目を、ミネルヴァに向ける。
「アレクサ、何を……」
たじろぐミネルヴァに、アレクサはまたふっと笑う。優しく、なだめるように。
「考えたことないなんて、言わないでね。私は知ってるって言ったでしょう?」
アレクサに気圧されてか、ミネルヴァはごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
底知れない、深淵のようなアレクサの目……ほんのりと笑みを浮かべたまま自分をじっと見つめるアレクサの目は、何の色も浮かべていない。深く、呑み込まれそうな……アレクサはこんな目をしていたっけ? これは誰?
ミネルヴァは混乱した。
……たしかに、賢者さまの後継として選ばれてからずっと、なぜ自分なのかと思い続けてきた。
本当に自分でよいかと。
もっとふさわしいものがいるはずだと。
──そして、選ばれたことで、ミネルヴァが何かを選ぶことはできなくなってしまった。
なぜなら、自分は賢者さまの後継となるのだから。
それ以外を選んではいけないのだから。
自分は子供たちの中から選ばれて、その選ばれた子供たちの中からさらにまた選ばれた。
自分はこれまで何も選んでない。これから何かを選ぶことはない。
ふと、空を見上げる。浮かぶ月は丸く満ちている。生い茂る木々の枝に囲まれた、狭い空に浮かぶ月。
「空……」
「ミナ?」
放心したように呟くミネルヴァを見て、訝しむようにアレクサが眉を寄せる……が。
「外に行くと、どこまでも続く空が見られるって聞いたの。そんな空を見てみたいと思ったことなら、確かにあるわ」
「……そう」
アレクサが、今度こそ、心の底から嬉しそうに笑った。
【ミナ……ミネルヴァ、私たちはわかり合える者同士なのよ。その証をあげる。証の囁きをよく聞いて、従って。そうしたら、貴方の願いが叶うわ】
アレクサが押し付けた何かを受け取り、手に握りこむ。どくどくと脈打っていて、変に冷たく感じる、何かを。
頭の中が熱を帯びたようにかっとなって、何も考えられず……衝動が、ミネルヴァを支配する。
支配する何かに囁かれて、たまらずミネルヴァは走りだした。
アレクサが、押え切れないという笑い声を上げた。
痕跡を追いはじめてさほど経たないうちに人影を見つけ、ユーディットは身を潜めた。
人影は2つ。目を凝らすと、ミネルヴァともう一人……あれはたしか、この森に入ったとき、最初に会った集団の中にいた一番年若い女の子だ。
出て行くわけにもいかないので、このままミネルヴァが動くのを待つことに決める。じっと息を潜めていると、風向きのせいか、聞くともなしに会話の断片を拾ってしまった。
「森があるから、私たち、ここに縛られるのだと考えたことはない?」
何の話をしているのかと、ユーディットは首を傾げる。ミネルヴァはかなり緊張しているようだし、よくない雰囲気だということも伺える。このまま話を聞いてしまっていいのだろうかとも悩むけれど、今ここで動くと見つかってしまうから、動けない。
とにかく、不穏な気配もするからとこのままここにいることに決めて、改めて2人を観察することにした。
そうしたら……。
哄笑する女の子の姿に、手が震える。
あれは、彼女が渡してたものは……だめだ、私だけじゃ手に余る。
「アレフ、アレフ……2人を呼んできて……早く!」
アレフが木陰から飛び出し、もと来た方向へ全力で走り去った。ユーディットは、自分も姿を現して、女の子……アレクサに対峙する。
「あなた……ミネルヴァさんに、何を渡したの」
アレクサはくすくすと笑いながら、ユーディットを振り向いた。
「こんばんは、月の美しい夜ね。私はアレクサンドラ……アレクサでいいわ。外の話を聞かせていただけないかしら」
「外? 今は、そんな話をしているんじゃない。あなたは、あれが何か知っているの? なぜミネルヴァさんに渡したの? ……あなたは、何をしようとしているの?」
アレクサからミネルヴァに何かが渡された。ちらりと見えたのは、あの日、兄が皆に見せたあの黒いメダルだった。月の光を反射して、黒く光るあのメダル。
見えた瞬間、心臓が鷲掴みにされたように苦しくなって、なぜかぞっとした。
あの日、手を伸ばそうとしたユーディットを止めて、ジリオンは、邪悪なものだから触ってはいけないと言った。よくない影響を受けると。……それを、手渡し?
「……私は、外に行きたい」
不意に笑みを消して、ぽつりとアレクサが言う。唐突に何を言い出すのかと、ユーディットは首を傾げた。
「一族は、一生この森に縛られる。
……この、狭い世界に縛られて生きていかなきゃならないの。ばかばかしいと思わない? 外は、この森なんか比べ物にならないくらい広いのよ? とても広い世界があるのよ? なのに、一生、森の外を見ることはないの。森の外に、他にも世界があることを知らないで死ななきゃいけないの。
──この森がある限り、私は、一族とこの森以外を選べないの」
アレクサが、再び笑みを浮かべる。ぞっとするような暗い笑みを。
「なら、一族も森もなくなってしまえばいい」
……ウォーカーに出会った日。
あの日、父に閉じ込められて森へ行けなかったら、自分はどうなっていただろうかと、ユーディットは考える。剣を取り上げられて、自分も呪ったのだろうか。彼女のように、父さまのせいで自分のやりたいことは何一つできないと、父を呪いながら、今を生きてたのだろうか。
「違う」
ユーディットの声が掠れる。
「絶対違う」
本当は剣士になりたかった。一人前の剣士に憧れていた。今でも、まだ未練はある。
でも、なれなかった。
でも、父のせいで剣士になれなかったとは思わない。
自分は、剣を禁じられたせいで、父のせいで、仕方なく、今、野伏としてここにいるのではない。
確かに、あの時はもうなんでもいいと思った。
確かに、父や兄の役に立てればなんでもいいと思った。
しかし結局は自分が選んだのだ。自分で野伏になると決めたのだ。
だから、今野伏としてここにいる。
だから、自分は違う。
「選べなかったんじゃなくて、あなたが選ばなかっただけだ」
不意にふわっとしたものが脚に触れる。アレフが戻ってきた。身体を摺り寄せながら、アレフが私を見上げてる。
【アレフ、今すぐミネルヴァさんを追って。ミネルヴァさんを止めて】
アレフがわかったと頷いて、また駆け出した
「選べないとか選ばないとかよくわからないが……いつからだ」
後ろから鎧を鳴らしながら重たい足音が近づいてくる。クロが来てくれた。
クロは、いつもとは違う、硬くとがめるような声でアレクサに問う。
「お前はいつから堕ちていた。まさか最初からってことはないよな?」
すらりと金属の擦れる音がして、クロが剣を抜いた。
「余所者にはわからない。お前たちに、わかるわけがない」
アレクサが怯んだように後退る。
「……なんで今になって外の奴らがこの森に来るんだ。
ここに来る者なんて、誰もいなかったのに、なんで今更……そうだ、今更だ!
なんでもっと早く来ない!
なんで、今頃!」
なぜか、アレクサが泣き出すんじゃないかと感じて、どきりとした。
「──もう遅い。今日この森はなくなるんだから! 私を縛るものはすべて消えてなくなれ! お前たちも一緒に消えてしまえばいい!」
じりじり後退り、アレクサは顔を歪め、癇癪を起こしたように叫んで……そして、くるりと踵を返して走り去ってしまった。
「だから邪悪に身を落としたっていうのかよ! 馬鹿か!」
「待って!」
そう吐き捨て、すぐに彼女を追おうとするクロを、ユーディットは引き止めた。そして、後ろに立つジリオンを振り返る。
「彼女より、ミネルヴァさんが先。たぶん、ミネルヴァさんのほうが、危ない」