影からの支え
諜報科特別部隊B系統第五小隊の隊長エリアス・オブスキィトは、トレリ王城の一角に与えられた部屋で頭を抱えていた。
彼は実際にはテーブルに頬杖をついている状態であり、頭を抱えていたわけではなかったが、比ゆ的な意味で頭を抱えていたのだ。
「人手が足りない……」
エリアスの前に立って、少し困ったような表情を見せているのは、金髪碧眼の少女ヒラリーだった。その色合いがトレリ標準装備である彼女は、容貌すらも標準的なものだった。つまり、まともにかかわったことのない人間には憶えてもらいにくい見た目である。
エリアスは、ヒラリー・クルクマの顔立ちは諜報科諜報部の方で役に立つに違いないと確信していた。諜報部は人に顔を覚えられないことこそ、最も重要なことであるのだから。
「あの、研修のことなら、レティスが帰って、きてから、でも……。私、それまで、剣の練習を……」
つっかえながらもヒラリーは一生懸命そういうが、エリアスは首を横に振った。
「クロッカス科長が出てくるなんてよっぽどなんだよ。今日は帰ってこないと思った方がいい。ダグラスもそっちに取られたし、リリイは違う仕事をしてる。他の隊員はみんなこの時期はしばらく出払ってるし、僕がここから出たらこの部屋が空になる。でも、今日の研修を後回しにしたら、明日の第一次研修進度調査にひっかかる。問題を起こしたレティスはたぶん本人の反省文で済むけど、問題に関係ないヒラリーの研修が終わってないとなれば、余計な始末書をかかなきゃいけない」
半分愚痴をこぼすように一気にたくさんのことをまくしたてると、ヒラリーは頷いて行った。
「でも、明日までに、しなきゃ、いけない研修で、残って、るのは……」
「城内説明だけ。ようするにこの部屋を出れない僕には不可能なんだよ」
明日の進度調査では簡単なテストも行われる。そのうちの一つに、城の特定の場所に行って用を済ませてくるというものがあり、それは一度城をきっちり案内されていないと絶対にクリアできないのだ。
城内説明は、初期にやるとテストの時に忘れるだろうと配慮して今日に持ってきていたのだが、それが仇になった。
どうすればいいだろうか。研修進度が一度遅れていると判断されると、その後も面倒なことになると聞いたことがある。それはヒラリーにもマイナスになるから、絶対に避けたい事態だ。
「隊長」
打開策を考えていると、ヒラリーが声をかけてきた。
「ちょっとまって。考えるよ」
しかしもう少し考えたいエリアスは、顔を上げることなくヒラリーに待ったをかける。
「いえ、そう、ではなくて……」
「いいわ。自分で話すから」
「え」
ここで聞こえるはずのない声が聞こえて、エリアスは慌てて顔を上げた。
何故か目の前に後ろできっちりと黒髪を結い上げた女性が立っていた。深い緑色の瞳がまっすぐとこちらを見据えている。飾り気のない朱色の軍服を着ていても、彼女はやはり美しかった。
「ルフレ……? え、なんでここに?」
そもそも彼女はいつ部屋に入ってきたのだろうか。全然気づけなかった。
「勝手に入ってごめん。ところで二人の話は聞こえてたわ。ヒラリーの城内説明の研修が残ってるのね?」
「あ、うん。そうだけど……」
「私の隊でヒラリーを預かるわ。セレスの隊のもう一人の研修生も私が預かるから、ついでに」
「それは有難い話だけど……」
ヒラリーの目がきらきらと輝いていることに気づいたエリアスは、ルフレの提案を素直に受け入れることが出来なかった。
そもそも問題になったのはルフレとエリアスの関係性の話が発端だったはずである。それなのに二人が親密であるかのような行動をとるのは火に油を注ぐようなものではないだろうか。
「クロッカス科長からの指示よ。セレス隊長とエリアス隊長の隊の研修生は私が預かるようにってね」
エリアスの懸念をふきとばすようにルフレが明るくそう言った。
相変わらず仕事が早い。
どうせルフレのことだから、クロッカス科長に直接かけあって、そういう指示を出してもらいに言ったに違いない。
「ありがとう。それなら任せるよ」
「どういたしまして」
ルフレはヒラリーの方を向き直ってにっこりと笑った。
「順番が逆になったけど、初めまして。諜報科特殊部隊A系統第五小隊の隊長を務めているルフレ・ルミエハよ。よろしくね、ヒラリー」
「は、はじめまして。ヒラリー・クルクマと、申します。よろしく、おねがい、します」
クルクマという家の名前にルフレは少し驚いたような表情をみせた。そして一度エリアスに視線を送る。ルフレの意図を理解したエリアスは首を横に振る。するとルフレはほっとしたような表情になり、そして小さくうなずいた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
ルフレが扉を開けて押さえる。ヒラリーは慌てて代わろうとしたが、早く早くというルフレの言葉に従って廊下に出た。
「ありがとう」
ルフレが扉を閉める前に、エリアスは声をかける。
閉まっていく扉の向こうで、微笑みながら小さく手を振ってルフレが見えて、エリアスは思わず椅子から立ち上がる。
しかし扉はそんなエリアスをまたずに音を立てて閉まった。
これは、ルフレがヒラリーを引き取りにエリアスの元を訪れる二十分ほど前だった。
ジオを含む研修生が起こした問題を聞いたルフレは、まっすぐクロッカスの元へと向かった。先ほどの段階で概要は見えていたようだが、クロッカス科長に後で報告書を書くためにはもう少し細かい調査が必要だろう。そうなれば、そのための猶予を彼らに与えているはずなのだ。
だから今クロッカス科長を訪ねても研修生はいない、はずだ。
諜報科科長と副科長の部屋の前に来てルフレは一度深呼吸した。そして扉をノックする。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けて部屋の中に入り、一礼した後に音が立たないようにゆっくりと扉を閉めた。
部屋の壁の両サイドには大きな本棚が並んでおり、部屋の中央部にこの字型に並べられた机がある。
入り口から真正面の位置にある机に座っている人物こそ、諜報科科長のクロッカス・ストケシアその人だった。
トレリ標準装備である金髪碧眼の持ち主で、顔立ちは比較的整っている。しかしながら、少し吊り上り気味の眉のせいか、はたまた下がった口角のせいか、どことなく不機嫌そうな表情をしてクロッカスは書類に目を通していた。
ルフレがざっと部屋を見渡すと、いつもは入り口から見て左手の机に座っているウル副科長がいない。珍しいこともあるものだとルフレは思った。
「さきほどシリヤから報告を受けました」
「私も受けた。まさか殿下が引き金を引くとは……」
クロッカスはその先を言わなかったが、ルフレはなんとなく彼が言いたいことを理解した。というのも、クロッカスがいかにも呆れてものも言えないという表情をしてたからである。
「ジオは私の隊の研修生ですから、私の監督不行き届きとも言えます。そこで、迷惑をかかけたセレスとエリアスの隊の研修生を引き取って研修をしようと思うのですが……」
「スミアとレティスを?」
「いえ、それはクロッカス科長からお話ししてくださると聞いております」
「ヒラリーとユリアの方か」
「はい」
「私が命じればいいんだな?」
流石話が早い。
「ご明察の通りです」
何を言わずともルフレの意図を読み取ってくれるのは流石クロッカスというべきか。
「じゃあ、頼む」
「はい」
無事クロッカスの承諾を得て、ルフレが早速研修生を引き取りに行こうとした時だった。
「意外だった」
「え?」
唐突すぎるクロッカスの言葉で、一度出入り口に向いたルフレの体は、一回転してもう一度クロッカスの方を向いた。
クロッカスは机の上に積んであった書類をとんとんと人差し指で軽くたたいた。
「ルフレ・ルミエハとエリアス・オブスキィトの同時入隊は、トレリ王国軍では歴史に残るほどの大問題だった」
懐かしき入隊式の日。五年前のあの日のことはルフレも記憶している。
ただし入隊式で感じた緊張感は、新兵たちのものだと思っていたが、もしかするとそんなことはないのかもしれない。
「しかも二人とも諜報科の特殊部隊を希望するから、私がどれだけひやひやとしたことか。何せあの時は皆こう思っていた。二人を同じ科に入れるなど、爆弾と火種を隣同士に置い ておくようなものだと」
二つを合わせれば爆発する。そう思われるほどルミエハとオブスキィトの確執は深い。特にルイス・ルミエハが当主になり、青い空と白い月が失われてからは、両家の対立は顕著になったという。
「だからこそ、あの日の歓迎会での出来事は我々の度肝を抜いたんだ」
「歓迎会……?」
歓迎会で何かあっただろうか。
ルフレが首をかしげると、クロッカスは信じられないとばかりに目を大きく見開いてかすかに身を乗り出した。
「覚えてないのか? カンナ様がお前たちを引き合わせただろう?」
「あ」
そうだ。
歓迎会でルフレは初めてカンナと会ったのだ。
深紅ではなかったが、あの日も今年と同じくらい派手なドレスをまとったカンナは非常に浮いた存在だった。人目でもカンナを見ようと群がる同期生たちを横目に見ながら、ルフレとセレスは極力カンナに近づかないように気を付けていたのだ。
セレスはカンナの存在に対して懐疑的であるし、ルフレは自分が周囲から特別視される原因となったカンナにあまり良い感情を抱いていなかった。
しかしカンナは、あろうことかエリアスを連れて、ルフレの目の前に立ちふさがったのだ。
比喩ではなく、文字通りルフレの目の前に立ったのだ。
『あなたがルフレ・ルミエハ?』
あの時彼女はそう言った。
ルフレと同じく黒い髪をもつ彼女は、何故か非常に懐かしい友に会ったかのような温かみを帯びた視線をよこしたのだ。
後ろにエリアスがいたから、名前を言い当てられたことは驚かなかった。しかし、カンナがルフレに見せたあの表情だけは、今のルフレでも理解できないものだった。
「いくらこの国を守るカンナ様と言えども、あの時の行動にはみんなひやりとさせられた。まあ結果的には、ルフレもエリアスもあっさりと自己紹介をして談笑していたが」
「懐かしいですね」
カンナに気を取られてエリアスに反応できなかったルフレに対し、エリアスはあっさりと“はじめまして”と挨拶をしてきた。
それがエリアスの決意を示しているようで、ルフレはそれを真正面から受け止めた。ロイとシアの関係は封印し、ただ軍の同期生として振る舞うようになったのである。
「不穏分子だったお前たち二人が、あの日公私混同はしないと宣言したようなものだった。あれを見たからこそ、私はお前たちに隊長の座を任せてもいいと思えたとも言える」
「エリアスをただの同期扱いすることが、あれほどの反響を呼ぶとは思いませんでした。両家の溝の深さは、私が認識しているよりも深刻なのだと思い知らされましたから」
ルフレを育ててくれた乳母のアンナは、いつでも中立の立場で物事を教えてくれた。オブスキィトに対する認識も彼女は極力ルミエハに寄らない意見を述べてくれていたのだ。ルフレがオブスキィトに対する抵抗感が少ないことは、もちろんエリアスと出会っていたことも大きい。しかしアンナによる教育もかなり大きな影響を与えているのだと思うのだ。
「二十年以上続く異常な空に、ルミエハの不穏な動き。文官たちは表立って動くことができないからこそ、軍部では両家の抗争を警戒している」
「それをルミエハ長姫である私に言うのは間違いでは?」
それがクロッカスなりの信頼だと分かってはいても、少し不用心ではないかとルフレは戸惑ってしまう。
「お前が本当に望むなら、その程度の情報は手に入るはずだ。それこそ“ルミエハ”の名を使ってな」
クロッカスはルフレの方を見て、そして思い出したとばかりに手を叩いた。
「そうだ。レイラが会いたがっていた」
急な話の転換についていけず、ルフレはしばらく惚けていたが、ようやくその言葉の意味を飲み込んで短く言葉を返す。
「……レイラさんが?」
幼いころルフレの数少ない味方だったレイラは、クロッカスと結婚し、レイラ・ストケシアとなっていた。
レイラが結婚したことは知っていたが、レイラの夫がクロッカスだと知ったのは入隊してからだ。まさか自分の上司の妻が知り合いだとは思わなくて、非常に驚いたのを覚えている。
「つぎの週末に屋敷に来れるか?」
「王都の、ですか?」
「ああ」
「それなら、大丈夫です」
久しぶりにレイラと話したい。
レイラは結婚してからもルフレと定期的に連絡を取り、ルフレの味方をしてくれている。
彼女は非常に情報収集能力に長けていて、いったいどこからそんな情報を集めてくるのかと諜報科にいるルフレでさえも呆れるほどなのだ。正直に言って、そういう情報を集める作業はリスクが伴う。レイラには息子もいることだし、あまり危険なことをしてほしくないというのがルフレの本音だ。
ちょうどいい機会だから、そのことについても話してみるべきかもしれない。
「レイラが喜ぶな」
ふっとクロッカスが珍しく笑みをうかべる。
その優しい微笑みには、レイラへの愛情が感じられて、なんだかルフレまで幸せな気分になったのだった。