騒がしい朝
朝の風はひどく冷たい。一年を通して温暖な気候のトレリ王国とはいえど、最も寒い時期である一の月の朝は冷え込むのだ。
カンナはゆったりとした上着をしっかりと体に巻き付けた。簡素なスカートが朝の風に揺られている。歓迎会の時とは打って変わって地味な格好だったが、彼女の美しさはやはり変わらなかった。
「お出かけですか?」
「ええ」
まだ人の往来の少ない早朝の王城の裏門。門番以外には気づかれずに城を抜け出せると思ったのだが、甘かったようだ。
顔だけを後ろに向けると、歳以上に幼い顔立ちをした少年がそこにいた。
彼の柔らかそうな金髪が風にあおられて乱れている。
雰囲気はやわらかく甘い少年の蒼い瞳が、すっと細められるのを見てカンナは背筋に震えが走るのを感じた。
「どちらへ?」
グラジオラスが問いかけてくる。その見た目に似合わぬ王子としての威厳を持って。
「答える義務はないわ」
カンナは顔の向きを門の方へと戻して冷たく言い放った。
「私は理を異にする者。シュトレリッツ王国における全ての自由が許されているもの」
シュトレリッツ王国を守る存在であるカンナには、全ての自由が許されていた。死ぬこと以外の全ての自由が。
「それがアンリの愛ゆえだとしても?」
再び歩き始めようとしたカンナは、ジオの言葉に思わずくるりと体ごと振り返った。
この少年によく似ている男と出会ったのは六百年以上前のことだと思うと、カンナはなんだか不思議な気持ちになった。
建国者アンリの魂は六百年以上の月日を超えても生きている。グラジオラスを見ているとそんなことを考えさせられるのだ。
「私が自由なのは、私を害することが無意味だからに他ならない」
少しだけ、意地悪をしたくなった。
グラジオラスはアンリではないと分かってはいながらも、困らせてちょっとした優越感を得たかったのだ。
「何を……?」
急にカンナはがばりと上着を脱ぎすてた。薄手の長袖のワンピースだけが彼女を守るように体にまとわりついている。
そんな行動に疑問の声を上げたグラジオラスは、次の瞬間顔色を変えた。
「なっ!」
グラジオラスの驚愕した声と同時に、ドンと体中を突き抜ける衝動が走る。
カンナは護身用に持っていた短剣を自らの胸に突き刺したのだ。じわじわと赤いしみが洋服中に広がっていく。
茫然としているグラジオラスの顔を見て、カンナは不思議な充足感に包まれた。
「バカね。死なないってこういうことよ」
一思いについた短剣を思いっきり引き抜いた。せき止めていた血液がいっきに溢れ出し、白い石が敷き詰められた道に紅い花が咲く。しかしその花々はゆっくりとカンナの胸に集まって、カンナの胸に開いた穴をふさいでいくのだ。
「ね? 無意味でしょう? 痛くもないんだもの」
短剣をかざしてみると、さきほどついたはずの血液はどこにもなかった。すべてカンナの身体に戻っているのだ。
グラジオラスは青ざめていた。強くかみしめられた唇は血の気を失っている。しかし彼が先ほどの光景を幻だと思おうにも、カンナの服に開いた穴がそれを否定する。
「ふふ。あなたはあの男よりよっぽどまともね」
「まさ、か……アンリは……」
「どうかしらね」
彼の言葉を遮ったあと、カンナは短剣を鞘にしまって、懐にいれた。そして脱ぎ捨てた上着を拾い上げて、しっかりと前を合わせた。
「あなたは何故、僕を気に入っているなんて嘘をついたんですか?」
「どうして嘘だと思うの?」
「あなたは……あなたは恨んでいるのでしょう?」
「感謝してるわよ。こうやって平和に過ごせているのはあの男のおかげなんだから」
よく考えてみると、カンナが不老であることはカンナと長く付き合った者ならば受け入れている事実だが、不死であることは案外受け入れられていないのではないだろうか。
カンナの“不死”を目の当たりにしたのは、アンリとグラジオラスのみ。
「でもね、あなたに近づいたのは、もっと他に理由があるわ」
「他の理由……?」
「あなたはきっと、この国のために残酷になれる」
それ以上は言うまいと思った。
この王子が自分で気づかなければならないことだ。
「アレクシオスは、人間味にあふれてるから心配なかったのよ」
「父上が人間味に……?」
国王としてのアレクシオスを見てきたグラジオラスには意外だろうか。
「オブスキィトの当主に聞いてごらんなさい。面白い話をしてくれるわ」
懐かしい思い出にカンナは目を細めた。六百年以上この国にいるが、あの数年ほど楽しかった時期はないだろう。
二度と戻らぬ時間ほど美しく感じるものはない。青空の下で笑い合ったあの時間は永久に失われた。
「もう行くわ」
今度は引き留められなかった。
門番に敬礼されながら、カンナは城の外にでる。
薄い雲の向こう側で太陽がにぶく輝いていた。
手の中で光る銀細工のネックレス。ルフレの目の色と同じ色を持つ石が一つだけ着いているシンプルな意匠のものだ。
それはルミエハ家の長女であるルフレが身に着ける物にしては質素であり安価である。
しかしルフレはそれをそっと握り締めて、そして鏡の前で身に着けた。白いシャツの下にしっかりと隠して、さらに朱色の制服を羽織る。
「そういえばいないんだった……」
自分と同じ黒髪を持つ女性のことを思い出して、ぽつりとつぶやいた。
カンナはつい数日前に城をでたばかりだ。
ふらりと旅にでると、しばらく戻ってこない。不死身の彼女には怪我の心配もないし、そもそもトレリでカンナを害そうとする度胸のある人間をルフレは知らなかった。
どんな凶悪な賊でも、さすがにカンナを害するのは抵抗があるようだ。特に青空を知らないルフレ達の世代は、天災に対する恐れが大きい分、カンナへの畏怖も大きい。
身支度を終え、寄宿舎の自分の部屋を出たルフレは、まっすぐに自分の隊に割り当てられた部屋に向かう。
諜報科は情報を扱うことが仕事のため、各隊に部屋が割り当てられている。
普段は朝食をとってから仕事部屋に向かうのだが、今日はなんとなく朝食を食べる気分にはなれなかったのだ。
城で働く侍女や見回りの兵士などとすれ違っては挨拶をしてを繰り返しながら、仕事場へとたどりついた。
部屋の外に設置されている箱を開けて中に入っていた書類を取り出した。それは民間からの依頼や、城で定期的に出されている連絡書類などが入っている。
それらに目を通しながら誰もいない部屋に入り、自分の机に座った。
勤務開始時間よりも一時間ほど早いため、しばらくはのんびりできるはずだ。書類を種類によって分類し、それらすべてにざっくりと目を通していく。勤務時間ではないため、リラックスした状態で書類に臨んでいた。
しかし一時間ほどあるはずだったルフレの時間は、わずか二十分ほどで終わりを迎えた。
「ここにいたんですね!」
勢いよく開けられたドアの方を見ると、シリヤがすこし興奮気味な紅い顔をして立っていた。
ルフレの隊の副隊長を務める彼女は、いつも眼鏡の奥にあるシャープな目で冷静に物事を見極めている。その彼女が取り乱しているのは非常に珍しいことだ。
「どうしたの?」
「研修生が問題を!」
ルフレの隊には研修生はジオしかいない。つまりはジオが何かをやらかしたということだ。王子の癖に何をしているんだとルフレはすこし呆れた。
「ジオは何をしたの?」
「あ、いえ、彼は事の発端ではありますが、特に何もしてはいないんです」
少し落ち着いたのか、シリヤはドアを開け放して廊下に立っていたことを思い出したらしく、部屋の中に入ってドアを閉めた。
「事の発端……?」
ルフレが聞き返すとシリヤは頷いて答えた。
「問題になったのは、セレス隊長のところの研修生が、エリアス隊長のところの研修生に皿を投げつけたことから始まるのですが……」
「皿を投げつけた? あの、栗色の髪の子よね? スミアだったかしら?」
セレスと挨拶回りに来た少女は、いろんな意味で女の子らしい子だった。いろんなところに嘘がある彼女は、ルフレが苦手とするタイプだが、男受けはよいタイプだ。とても皿を投げつけるなどという暴力的な行為に及ぶとは思えない。
「そうです。そのスミアです。その行動にキレたレティスという研修生が、食堂で飲んでいたお茶をスミアにぶっかけまして……」
「幼児みたいな喧嘩ね」
喧嘩の光景を想像したルフレが思わずそうつぶやくと、シリヤはげんなりしたようにうなずいた。
「近くにいたセレス隊長やダグラスと一緒にその場をどうにか収めたのですが、よくよく話を聞いてみるとジオが発端ではないかという話になったんです」
「それで、そのジオは何をしたの?」
ようやく核心の話にたどりついたと思ったら、何故かシリヤは急に黙り込んだ。
そんなシリヤの様子をいぶかしげに見つめていると、彼女は大きく息を吸った。そして気まずげにルフレを見た。
「どうしたの?」
「あの……その。実は、騒ぎになった原因はジオがスミアに話したことなんです」
彼女にしては珍しくしどろもどろと話す様子に、ルフレはようやく合点がいった。
「私のこと?」
そう問いかけてみると、シリヤはこくりと頷いた。
「隊長にも関係があります。ジオはこう言ったそうです。ルフレ隊長とエリアス隊長が二人で親しげに話しているのを見かけて驚きました、と」
「エリアスと親しげに……」
思い当たる節のあるルフレは、大きくため息をついた。歓迎会の時にエリアスが感じた視線というのはジオのことだったに違いない。
あの王子がわざわざそんなことを言うと言うことは、必要以上に関わるなという渓谷だろうか。
「おそらく二人でいがみ合いもなく話していたところを見てそう思ったのではないでしょうか。たしかにルミエハとオブスキィトの後継者同士にしては“親しい”と思いますから」
どうやらシリヤはジオの言葉をルフレにとって都合よく解釈してくれたようだ。事情を知るセレスはフォローしてくれるだろうし、クロッカスもジオの言葉については深く追及しないだろう。
「それで、どうして喧嘩に?」
「どうやらスミアはエリアス隊長に気があるようなんです。それでジオの話を聞いて、スミアはジオに言い返して、それを聞いたレティスが反論して……という流れのようです」
ジオの時とは違い、シリヤは一度言葉を切った。
そして驚くほどあの栗色の髪の少女にそっくりな声色で言った。
「エリアス隊長はいつでも話し相手になってくれるって言ってくれたのに、そんなはずないわ!」
スミアが言ったという言葉にルフレが固まっていると、シリヤが今度は少し低めの声で言った。
「いつでもなんて言ってねえだろ! 勝手に隊長の言葉を改ざんすんなよ! この勘違い女!」
おそらく後の言葉がレティスという研修生のものだろう。その言葉にルフレは安心して、ほっと息を付いた。
「それを朝の食堂で言い合ったのね」
ジオの声真似をしなかったのは、シリヤがその言葉を聞いていなかっただろう。逆にスミアとレティスの声真似ができるということは、シリヤにも届くほど大声だったということになる。
「はい。しかもその後には皿とお茶が飛び交う始末です……」
スミアとレティスの行動ももちろん問題だが、おそらくそうなることを確信してスミアに火をつけたジオが一番性質が悪い。
「それで、クロッカス科長には報告した?」
「はい。問題にかかわった三人はクロッカス科長からお説教があるそうです。ただ、彼らが研修生ということもあって、各隊から一人一緒に説教を受けろと言われています」
「シリヤに任せていい?」
「はい。もとよりそのつもりでした。スミアがジオの言葉を信じている以上、隊長が顔を出すのは面倒なことになりかねませんから」
シリヤが有能で助かる、とルフレは本気で思った。
クロッカスからの説教の場で、ルフレとエリアスの関係をスミアに問いただされるような事態だけは避けたい。何せその場にはジオもいるのだ。
「じゃあ、お願いするわね」
「ではいってきます」
シリヤが部屋を出ていくと、再び静寂がその場に訪れた。
しかし今度はのんびりと書類に目を通す気にはなれない。ルフレはため息をついて、分類した書類を丁寧に机に並べた。
そして上着の襟をただし、部屋の外に出たのだった。