シアという少女
ルミエハの少女シアには、生まれ持った“力”があった。
その力は人の嘘を見抜くことができる“力”で、彼女は常に嘘にまみれた両親を見て育ってきた。
あの日もそんな両親に嫌気がさして、一人でふらりと森にはいったのだ。
幸い両親はシアには無関心であったし、唯一心配してくれる乳母のアンナもでかけていていなかった。だからシアが森にいようがどこにいようが夕食に顔さえ出せば、誰も咎めなかったのである。
シアは青い空を知らなかった。アンナは時折空の鮮やかさを語ってくれたが、シアが知る空はいつだって白かった。もっと悪ければ灰色になるし、黒にもなる。
今日は白い雲に覆われているだけだから、シアにとっては“晴れ”だった。
白い雲を通した太陽の光は鈍く、大きな木々をくぐりぬけてやってくる森の中の光はもっとやわらかいものだ。通称オブルミの森と呼ばれる森を手慣れた様子で歩いていくと、川が流れているところまでやってきた。
両親に川を越えてはいけないと強く言われているシアは、この川を越えたことはない。この向こうにはオブスキィトという悪人が住んでいるのだと両親は言っていたが、それが“嘘”であることがシアには分かっていた。
ただアンナによると、オブスキィトの別荘があることは事実であり、そのオブスキィト家がルミエハ家と対立していることも事実であるらしい。
アンナの言葉に“嘘”はなかったので、シアは川をあえて越えようとは思わなかった。川の向こう側に興味はあったが、ルミエハと似たような屋敷があるだけだといったアンナお言葉にもっともだと思ったからである。
川向うに興味のないシアは、川自体は好きだった。暑い夏に触れる川の水は冷たくて心地よいし、静かな森に響く川の流れる音を聞くと、嘘にまみれた大人たちに汚された耳も洗い流されていく気がした。
あの日も一人でぼんやりとすごそうと川に来たら、なんと先客がいて驚いた。
少し癖のある赤銅色の髪をもった少年。背は自分と同じくらいだというのに、顔立ちがなんだか幼い。
少年は川を見つめて、何やら難しい顔をしていたので、つい話しかけてみたのだ。
それからのやり取りはその後ずっと忘れられないものだった。少年の名はエリアス・ロイ・オブスキィトと言って、あのオブスキィト家の人だった。ロイは悪人ではなかったし、少なくともシアの敵ではないように思えた。
そして何より感動したのは、少年には嘘が一つもなく、彼は先入観を捨ててまっすぐとシアという人間と向き合ったことだった。
思考回路は同じ八歳であるシアよりも幼いように思えたが、そのまっすぐな少年にシアは好意を持った。そしてこの日、生まれて初めて川を越えたいと思い、実行したのだった。
その日から数日間、シアは毎日同じ時間にこの場所に遊びに来た。
ロイの方は親の目が厳しいらしく、毎日この場所に来られるわけではなかった。しかしロイが来た日は、二人で森の中を探検して日が暮れるまで遊んだ。
今日もまたロイが来ることを期待して、あの川の近くまで行く。
二人が遊ぶからにはどちらかが川を越えないといけないため、二人は交互に川を越えてお互いの家の方で遊んだ。大人に見つかることを恐れて川からはあまり離れなかったが、ふたりだけの秘密というものが、何故だかとてもわくわくとして楽しかった。
ワンピースをはためかせ、長い髪を肩の後ろに追いやって、シアは森の中を走っていた。ここまで急ぐ必要はないのだが、今日はロイがいるかな、という期待を込めてあの場所まで急ぐのだ。
いつもの場所まで走ってきた時、シアは川の側に大人の女性がいることに気づいて、ぎくりとした。
その女性の髪の色は赤銅色で、癖のある豊かな髪だった。顔立ちは美人というよりはかわいいという形容詞が似合う。
その女性がこちらを向き、シアの方を見た。
赤銅色の瞳がなぜか驚きに見開かれた。
シアはそんな女性の様子に戸惑いながらも、その目がロイにそっくりなことに不思議な確信を持った。彼女はきっと、ロイの母親だと。
「あなた……」
女性は一歩足を踏み出した。彼女は川のぎりぎりのところに立っていたため、その一歩は完全に川の中に浸かってしまっている。
シンプルなドレスの裾ときれいな靴が水にぬれていたが、彼女はそのことに気づいてすらいないようだった。そしてそのまま浅い川を渡りきると、シアの目の前にやってきて、かくんと両膝を折った。
一気に女性の目線が自分に近づいて、シアはどぎまぎと彼女の目を見つめ返すことしかできなかった。
「名前、は?」
女性の片方の手がシアの黒い髪に伸びた。その髪をゆっくりと触ったあと、その手は頬に優しく触れる。
「ルフレ・レンティシア・ルミエハと言います」
どうやらロイとのことを怒るわけではない様子の女性に、シアは正直に名前を名乗った。もしかすると女性はロイとシアのことを知らないのかもしれない。
「ミドルネームは大切になさい。軽々しく人に教えてはいけないわ」
「それはロイから……あ」
うっかりロイの名前を出してしまい、シアは動揺する。
しかし女性は穏やかに微笑んでゆるりと首を振った。
その微笑みに嘘がないことに、シアは衝撃を受けた。ロイの話を聞く限り、ルミエハを怪物扱いしたのは彼女だったはずなのだ。
「知ってるわ。私はあなたの両親と違って、心配性なの。息子を一人で緩衝地帯に放り込んだりはしない」
「じゃあ……でもどうして?」
知っていて何故、そんな優しい嘘のない笑顔を向けるのだろう。
口ごもってしまったシアの問いを、彼女は正確に読み取ってくれたらしい。頬に触れていた手をもう一度頭に戻して、空いたもう片方の手はシアの腕ごと巻き込んで腰に回される。
何故か抱きしめられる形になってしまったシアは、緊張感と安心感という不思議な二面性の感情を同居させていた。
触れている肌はやわらかく、温かい。かすかに漂う香りが、本物の母親以上の安心感を与えてくれていた。
「ロイには、ああやって脅さないと、面倒なことになると思ったから。本当に思って言ってるわけじゃないわ」
――嘘じゃない。
無意識のうちにシアは女性に体を傾けていた。本当の両親にこうして触れられたことのないシアは、アンナくらいにしか抱きしめてもらう機会はなかった。しかしアンナもこんなに大きくなってからシアを抱きしめたことなどない。
「マリエ・オブスキィトよ」
ふいに体を離して、シアの顔を見つめたマリエは、そうやって自分の名を名乗る。
「今日、私と会ったことは忘れなさい。でももしあなたが、私に会いたくなったら――」
マリエがゆっくりと立ち上がるのを、シアはとっさに引き止めたくなった。しかしそれをどうにかこらえて、自分よりもだいぶ背が高いマリエを見上げる。
「――会いに来なさい。歓迎するわ」
最後に一度微笑んだマリエは、また川の向こう側へ渡って行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、シアは何故か喪失感を覚えている自分に気づいてしまったのだった。
ロイとシアの出会いから三年の月日が流れた。
空は相変わらず白いままで、月はやはり赤く、不審火や津波などの天災も絶えないトレリ王国。
しかし毎年訪れる夏だけは、驚くほど平穏に二人の友情を育んでいた。
明日になればロイが避暑のためこの地にやってくる。そして今日は今日で、シアの好きなレイラに会えるため、シアの心は弾んでいた。
ルミエハの屋敷を出て、オブルミの森とは反対方向にある町に向かう。この日もシアはたった一人でこの場所まで来ていた。両親の無関心具合はいっそ不思議なほどだったし、逆に町の人々がシアを見る目にも違和感を感じていた。
シアが目指すのは町にある屋敷だ。ルミエハの屋敷は大きすぎて比べ物にならないが、それなりに大きな屋敷である。その屋敷は大通りに面しているため、どんなにシアが人目を忍んでも町の人たちに見つかってしまうのだ。
「ルフレお嬢様!」
こうやってシアがいることがばれると、町の人が群がってくる。しかしそれは決して近所の子供をかわいがるような気安さではない。
ある人はシアのことを畏敬の念を込めて見つめるし、ある人はまるでシアが天災のすべてをコントロールするかのごとく崇め奉るのだ。
「ああ、ルフレお嬢様が元気ですごされていると、この町は天災から免れられる気がいたします」
ルミエハという家は、カンナという存在を守るための家系だった。守ると言っても、その血を引き継ぎさえすれば守れるということなので、シアが強大な力を持っているというわけではない。
強いて言うならばシアは嘘を見抜く“力”を持っていて、そういう“力”は黒髪を持つ者に現れやすい。金髪碧眼が標準装備のトレリ王国で、黒髪を持っていることは色々な意味で目立つ。
一つは“力”を持っているのではと思われるし、もう一つはカンナが黒髪であることから、何故か神聖視されやすい。さらにシアはルミエハ家の人間であったため、こんな扱いを受けているのだ。
「ルフレ様、どうかこの子の頭を撫でてやってくださいませ」
時折、母親にこんなことを頼まれて、子供を突き出される。しかしその子供は必ずしもシアに好意的なわけではない。あきらかに怯えて身体がすくんでいる子もいるのだ。
シアはそんな子供に気づけない母親にうんざりしながらも、頭をなでてやる。するとその母親はもう涙ぐむ勢いで感謝感激し、シアに頭を下げるのだ。
「私、急いでるの」
私の子供にも、とどんどん群がる母親たちを制して、シアは強引に目的地へと向かった。シアがそういう態度を取れば、大人たちは面白いほど従順に引き下がって道を開ける。
そうしてようやくシアは目的地にたどり着いた。
「ルフレ」
屋敷で出迎えてくれたのは、茶色の髪を右耳のすぐ後ろで一つに結っている女性だった。
真ん丸の目に、少し低めの鼻、それから小さく形の良い唇。レイラは誰が見てもかわいいと呼ばれるそんな女性だった。
「レイラお姉ちゃん!」
シアはかけよってレイラの側にまで行く。レイラはにっこりと笑って、そしてシアを屋敷の中の応接間まで通してくれた。
幼いころから交流のある彼女は、子爵令嬢である。ルミエハ家はそういった区分でいくと公爵家にあたるためかなり格が違うのだが、レイラの本家が力のある伯爵家ということもあり、交流があるようだった。
「ひさしぶり。数か月見えない間にまた大きくなったわね」
シアより六歳年上で十七歳のレイラは、シアを本当の妹のようにかわいがって愛を注いでくれる存在だ。彼女はシアのことを畏怖もしなければ神聖視もしない。ただ純粋に年下の女の子として扱ってくれる。そんなレイラのことがシアは大好きだった。
柔らかなクッションのソファに座り、出されたクッキーをつまんでから、シアは気になっていたことを聞いた。
「レイラお姉ちゃん、婚約したって本当?」
紅茶を淹れてくれていたレイラは、ふと手を止めてこちらを見た。そして一度息を付いたあと、テーブルに茶器を置いた。
「そうなの。ストケシア侯爵家の長男と結婚するのよ」
「すごい。それってすごいことよね?」
侯爵ともなれば、ルミエハには及ばないものの、国内ではほぼ頂点に位置する上流貴族だ。子爵家の娘が嫁ぐ相手としては破格の相手である。
「その通りよ」
レイラは一度置いた茶器をもう一度手に取り、手際よくお茶を淹れていく。そのお茶をシアの前に置くとレイラは話を続けた。
「政治的には大成功。本家の伯爵家には男の子しかいなかったから、分家で一番の美人である私に話が回ってきたの」
「すごい! でも分かる。レイラお姉ちゃんはとっても綺麗よ」
「ルフレ……そこは流してくれてよかったのに」
少しだけ照れたようにはにかむレイラに、シアはにっこりと笑って言った。
「本当のことだもの」
しかしそこでシアはようやくレイラの様子がどこかおかしいことに気づいた。婚約といえば喜ばしいことだろうと思っていたのに、レイラが浮かない顔をしているからだ。
「お姉ちゃんは、相手の人が嫌なの?」
「嫌、ではないかな? でもね、五歳年上の人で、私を子ども扱いするのよ!」
「お姉ちゃんを?」
シアから見ればレイラはとても大人な女の人だったが、彼女の婚約者からするとそうではないらしい。ただ、レイラはそのことに不満を持っているにせよ、相手を毛嫌いしている様子ではないのでシアは少しだけ安心した。
レイラにはシアの両親のようにはなってほしくなかったのだ。
嘘と偽善にまみれたあの二人の様には。
「さて、私の話はこれでおしまい。シアの話を聞かせて?」
レイラは自らが淹れたお茶を手に取り、それをしずかに飲んだ。目だけはこちらを見て微笑んでいる。
「あ、明日はねロイが来るの」
「それは楽しみね」
ロイとの関係はアンナにも話していないことだったが、レイラには話していた。レイラの家はルミエハの家とも交流があるが、オブスキィトにも特に嫌悪感を抱かない中立の立場であることを知っていたからだ。
「今日はまた町の人に絡まれてうんざりしたから、明日ロイにあって忘れるわ」
「今のトレリは不安定だもの……仕方ないわね」
シアが愚痴を言えば、レイラは少しだけ表情を曇らせてため息をついた。シアはソファに座ったままぶらぶらとさせた足を見つめて言った。
「みんな天災を恐れてるのね。でも私を崇めたところで、何も変わらないのに。天災を止められるのはカンナ様だけでしょう?」
「そう知ってはいても、理解ってはいないものなんでしょう。あなたの機嫌を損ねたら“炎の一夜”が再現されるとでも思ってるんだわ」
“炎の一夜”とは、シュトレリッツ王国全土を震撼させた天災による山火事のことである。ちょうどその火事になった山を、ヴェントス侯爵家一家が馬車で通っていたところだったらしく、ヴェントス侯爵夫妻とその子供たちは亡くなってしまったのだと言う。
ヴェントス侯爵家は建国当初から“力”を持つ人が生まれやすい黒髪の一族で、侯爵夫人もたまたま黒髪であったことから、国内ではその子供たちに大きな期待が寄せられていたらしい。
また彼らの人柄もみなに好かれるようなものだったため、国中が惜しい人たちを亡くしたと嘆いたのだと言われている。
「その山にはもう、木が生えたの?」
「それが……生えないんですって。その炎は何か邪悪な“力”を持っていたんじゃないかって言われているわ。何しろ天災ですもの」
山を覆い尽くす炎を想像して、シアは身震いした。焼き崩れる山に閉じ込められた一家は、最後に何を思い燃えていったのだろう。
自分の存在がこうも強く求められているのは、そういった天災からトレリを守るためにある。シアが守っているわけではないが、シアが生きていることでカンナが守られ、そのカンナがトレリを守ってくれているのだから、他の人たちからすれば同じことなのかもしれない。
「そうだ。帰る時に、誰にも会わない方法があるわよ」
シアがあまりにも暗い顔をしていたからだろうか。レイラはソファから立ち上がってはげますようにシアに言った。
「誰にも会わない方法?」
「この道は、秘密の道だけど……あなたに教えるわ」
帰るにはまだ早い時間だったが、レイラのいう秘密の道のことが気になって、シアはさっそくレイラにその道のことを教えてもらうことにした。
レイラは少し待っていてねと言って、一度応接間を後にした。
そしていったいどこから持ってきたのか、カンテラとマッチを手にして再び応接間に現れたのだ。
「暗いの?」
「うん。でも二人なら怖くないわ」
レイラはマッチをシアに手渡して、空いた手でシアの腕を引いた。
シアはおとなしくレイラについて行く。
屋敷をでたもののレイラは門の外には出ず、そのままぐるりと裏庭の方に回り込んだ。そして敷地内にあったもう一つの建物へとシアを誘う。
それは古い蔵のようで、歩くたびに木の床がぎしぎしと音を立てた。しかしその割には埃があまりなく、まるで誰かが住んでいるかのように空気に流れがあった。
「もうちょっと奥なの」
色々なものが積んであり、それをわずかに動かして足場をつくりレイラは手慣れた様子で進んでいく。蔵の奥に木箱が三つ積まれているところまでくると、レイラは唐突にその木箱を大きく動かした。
三つも積まれて重そうに見えた木箱は、何故か簡単に横に動いて、かすかに色の違う床が顔をだす。
驚いているシアをよそに、レイラは何のためらいもなくその床のかすかなくぼみに指を入れて、ぐいっとひっぱりあげた。
「うわ……」
ぱっくりと開いた床の向こう側は真っ暗だったが、シアの位置からでも階段が数段だけ見えた。
「地下道よ。マッチを貸して」
シアはマッチをレイラに手渡した。それを受け取ってカンテラに火をつけた。そして再びマッチをシアに返し、今度はカンテラを持ってない手でシアと手をつなぐ。
ゆっくりと降りていくレイラに合わせて、カンテラの火が地下道を照らした。地下道頑丈そうな石を積み上げてできており、時折崩れた小石が転がっているものの、ほとんどきれいなまま存在していた。
階段を降り切ると、カンテラが照らせる限度よりも向こうが真っ暗で、果てしなくこの道が続いていくような錯覚にとらわれた。
二人分の足音が反響して、やけにうるさく聞こえる。
レイラと手をつないでいるけれど、その手すら霞のように消えてしまう気がして、ぎゅっと強く手を握り直す。
「怖い?」
「……うん」
「もう少し」
レイラはそういうと迷いなく歩いていく。カンテラの火はある一定範囲を照らせず、すでに前も後ろもはなれた場所は真っ暗だった。永遠に繰り返される光と暗闇の境界線に、シアの不安が最大級に膨らんでいた時、変化は起きた。
ずっと一本道だった地下道が、二つに分岐したのだ。その分岐点にたち、レイラはしばし考えた。
「これ……どっちに行くの?」
振り返ったレイラの顔がカンテラに照らされる。下から光をあびたレイラは、少しだけ怖かった。しかしそのレイラがいつものようににっこり笑ってくれたので、シアはほっとした。
「あっちはね、ルミエハ家の中庭にある井戸につながるの」
「え……?」
今は使われていない井戸を思い出して、シアは驚いた。
「でもこっちは見つかると大変だから、オブルミの森につながる方にしましょう」
そういうとレイラは左側の道を選んで進んでいく。またずっとこの暗闇が続くのかと思っていたら、今度は意外とすぐに出口が見えた。
少しはなれた場所に、カンテラの火ではない灯りが見えたのだ。
「出口?」
「ええ。でもこっち側は階段じゃなくてはしごなのよね……」
行き止まりまできて上を見上げると、出口は何かでふさがれているものの、その隙間から光が漏れている。
壁にはこの字型の鉄の棒がついており、それに足をかけて上るようだった。
「カンテラを持ってて。入り口を開けてくる」
レイラからカンテラを受け取って、シアはその場から少しだけ離れた。
意外なことにレイラは非常に手早くするすると登っていき、そして手をおもいっきり天井に向かって突き出した。
がこんという音がして、急に地下道に光が満ちていく。地下道の出口の向こう側には木の葉と白い雲に覆われた空が見えた。
一度上ったレイラは、何故かもう一度降りてくるとシアの手からカンテラを取った。
「ほら、先に上って」
「うん!」
シアも運動神経は良い方だったので、想像以上に冷たい鉄の梯子をするすると登っていく。
上まで来たところで顔だけを出口から出す。
「ここ……!」
出口から広がる光景は、いつもあの川に行くときにシアが通っている場所だった。
さきほどまでの恐怖感はすっかり忘れて、シアは勢いよく出口から這い出して、地面に立った。鈍い太陽の光が、なんだかとても明るく感じられて、シアはおもいきり伸びをする。
「ほら、誰にも会わずに来られたでしょう?」
いつのまにか地上に這い出してきていたレイラが、地面に落ちていた木の板を拾い上げて、地下道の入り口をふさいだ。
「うん! ちょっと……怖かったけど」
正直に言って、もう一度この道を通りたいとは思えない。ただ、こんな道があることを教えてくれたレイラに感謝はしていた。
「ふふ。あなたにも年相応なところがあるのね」
からかうように言って笑ったレイラは、一度ふさいだ木の板をもう一度外した。
「向こう側の入り口を閉めてこなかったから、私はこのまま屋敷に戻るわね」
「うん! ありがとうレイラお姉ちゃん!」
「また遊びに来てね」
にっこりと笑ったレイラは、シアの頭をよしよしと撫でた。
そして再びあの暗い地下道へと戻って行った。
「入り口、閉めといて!」
地下道の中からレイラの叫び声が聞こえ、シアは慌てて木の板をつかんで、入り口をふさぐ。
恐怖感から解放されたシアの心に残ったのは、秘密を知ってしまった不思議な高揚感と、奇妙な達成感だった。
――今だったら、家に戻っても憂鬱な気分にならないかも。
服に着いた土を払い、軽い足取りで家に戻る。
森に面している方は小さな門しかないので、門番は一人だけだ。その門番に挨拶をして、シアは夕食を取るための部屋がある建物に向かった。
広い敷地があるルミエハ家には、建物がいくつか建っている。そのうちの一つがいわゆる本棟といわれる建物で、客を招いたときの応接間や、夕食を取るための部屋、それから大人たちが会議に使うための部屋など、他人を招き入れる部屋がそろっている。
オブルミの森から一番近いのは、シアの部屋がある別棟だ。そのため本棟まで歩いていくにはそれなりの距離があった。
いつもなら憂鬱なその距離も、今のシアにはなんてことがなかった。早足で本棟までの道を歩いて行き、そして中に入る。
ルミエハ家の家族がくつろぐための居間に行こうとシアが階段をのぼりかけると、何やら人の声が聞こえた。
どうやら誰かが応接間にいるらしい。
――顔を出した方がいいかしら。
幸い廊下には誰もいないため、シアはこっそりと応接間に近づく。話の内容によってはシアがいないことの方が都合のいい場合もあるため、顔をだすかどうかは慎重に見極めなければならないのだ。
「――排除せねば」
慎重に近づいてみると、扉の向こう側から不穏な言葉が聞こえて、シアがぎくりと身をすくめた。
「しかし、相手はオブスキィト家唯一の後継者では……?」
声の主は分からないが、きっとこれが客だろう。
「天災が起きている以上――」
続いて聞こえてきたのはルイス、シアの母親にしてルミエハ家当主の声だった。
「――あの後継者が不適格である可能性は否めませんわ。それにオブスキィト家にだって親戚はいるのです。多少、血は弱まりますが、さして問題はないはずです」
オブスキィト家の後継者とはロイのことだ。
シアはなんだか嫌な予感がして、扉に耳をつける。
続いて聞こえてきた声に、シアは戦慄した。
「それもそうですな……。では、早急にオブスキィト家の長男を排除せねば」




