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祝災の花  作者: 如月あい
序章 幼き二人の邂逅
1/8

その川を越えること

 世界に無数に存在する国のうちの一つ、シュトレリッツ王国。

 通称トレリと呼ばれるその国は、カンナという女性を信仰していた。

 それは人ではなかったが、神でもなかった。彼女は(ことわり)(こと)にする者だった。彼女は歳をとることはなく、いつまでも美しい女の姿をしていた。

「私が存在する限り、この国は平穏でいられるでしょう」

 かつて彼女が言った言葉を信じたのは、トレリの建国者アンリ。

 アンリは自らの血と力によって彼女を守った。また、アンリと同じく国の平和を望んだミシェルとジェラルド、のちのルミエハとオブスキィトは自らの血と力でその守りを支えた。

「どれか一つでも血統が欠ければ、私はこの国を守りきれない」

 建国以来戦争を経験したことのないこの国は、カンナへの絶対的信仰を持っており、それはまた彼女を守る王家とルミエハ、オブスキィト両家への信仰にもつながっていた。

 ただしカンナがアンリの直系以外を王と認めなかったため、どれだけルミエハとオブスキィトが国内で強い力を持とうとも、王家の権力はまったく揺るぐことはなかった。

 しかし何の曇りもなかったその平和は、ある時わずかに崩れてしまう。

 ルミエハとオブスキィト家が対立し始めたのだ。

 その対立は、国に少なくない影響を及ぼした。しかしそれでも国が混乱に陥らなかったのは、王家に絶対的な権力があったことと、ルミエハオブスキィト両家が互いを直接害することはなかったからだろう。

 カンナは血統さえ守られれば、約束は違えないとそれを問題にしなかった。




 時はトレリ暦六二一年。

 変化はこの年から始まった。

 空は常に薄い雲に覆われ、雲の向こう側に見える月は赤い。時折おこる天候の異常や、怪奇現象の数々を人々は天災と呼び恐れた。

 カンナは言った。

「私を守るものが揺らげば、この国も揺らぐ。しかし王家に罪はない」

 カンナの言葉により人々の疑いはルミエハとオブスキィト家に向いた。

 対立から二百年あまり経った両家は、この年までは互いに不可侵を貫いていた。しかし彼女の一言によって両家の確執は深まり、少しずつ両家の関係は動き始めたのである。





 トレリ暦六三〇年。

 天災に見舞われてから九年。空は相変わらず白く、月は相変わらず赤い。この頃の子供は空が青いという大人の言葉に眉をひそめるのだ。

「空は白いよ」

 そう無邪気に言う子供たちに、おとなたちはただ困ったように笑うしかなかった。空は青いのだと主張してみても、この九年間一度も青い空が広がったことはないのだから。

 そんな天災に悩まされる国、シュトレリッツ王国。その王都から南西に行ったところにオブルミの森という森がある。その森はルミエハ家の本邸とオブスキィト家の別荘という二つの対立した家が隣り合う土地にあり、両家の緩衝地帯とも言える場所だった。その森のちょうど真ん中に、一つの川が流れていた。

 その川は、大人であれば飛び石なしで簡単に渡れるような小さなもの。子供でも慎重に歩けば渡れるだろう。しかしその川の側に立つ少年にとっては、大きな川だった。

 鈍い太陽の光を受けて川がぼんやりと光っている。木々の合間からこぼれおちる光はどこか頼りないが、少年はそんな光しか知らない。

 それを当たり前のように眺めて、川のぎりぎりまで歩いていくものの、少年は絶対にその川を越えようとはしなかった。

「渡らないの?」

 誰もいないと思っていた場所で話しかけられた少年は、驚いて川から視線を外した。

 いつからそこに立っていたのだろう。長く艶やかな黒髪を背に流した少女が、まっすぐにこちらを見つめている。彼女は同い年くらいだろうか。少年と同じく八歳くらいに見える。ただその表情はとぼしく、どこか人形のような生気のない美しさを持っていた。

「渡っちゃいけないんだよ。川の向こう側には、ルミエハの家があるから。見つからないうちに戻ってきた方がいいよ」

 少年がそう返事をすると、少女は思わずと言った様子で噴き出した。人形のように生気のなかった美少女が、急に女の子に成ったことに少年はあっけにとられてしまった。

 しかし少女は少年の絶句を、自らが笑ったせいだと思ったらしい。ごめんなさいと謝りながら、それでもかすかに微笑みを残したまま言う。

「私も言われたよ。川向こうはオブスキィトの家があるからってね」

 そこでようやく少年は、ある可能性に気づいた。少女もまた、川を渡っていないのだ。彼女は向こう側に迷い込んだのではなく、向こう側の人間なのだと。

「ルミエハの人?」

 少年はどことなく落ち着かなくなって、しゃがみこんで川の水面を見つめた。すると少女もしゃがみこんで川を見つめるものだから、川の水面越しに彼女と目があってしまう。

「うん」

「ほんとに?」

 少年には信じられなかった。両親にあれだけ関わってはいけないと言われていたルミエハが目の前にいるなんて。

「同じだね」

「え?」

 少女が顔をあげ、水面から彼女の目が消える。少年もまた顔を上げてまっすぐに彼女の目を見た。

 深い緑色の瞳が、そこにある。

「だって普通の女の子だよ」

「どういうこと?」

「だって母さんは、ルミエハに見つかったら一生お家に帰れなくなるって言ってた。川を越えたら、そこに住んでるのは同じ人間じゃないんだって」

 きょとんとした様子の少女は、しばらく瞬きを繰り返して少年のほうを見ていた。

 少年はといえば、少女に見つめられるのが耐えられなくなって、立ち上がってみた。しかし少年は少女から目を離さなかったので、顔を上げた少女と目があってしまう。

「同じ。同じだよ。ねえ、名前は? 私はルフレ・レンティシア・ルミエハっていうの」

 歌うように楽しげに言った少女の言葉に、少年は口を開きかけて、急に我に返ったように首をブンブンと横に振った。

「だめだよ! ミドルネームは大切な人にしか教えちゃいけないんだよ」

「そうなの?」

 ルミエハの少女の名を知ってしまったと青ざめる少年をよそに、少女はからりと笑って立ち上がる。

 そして次の瞬間、ルフレは信じられないことをした。

 川を渡ったのだ。

 少しだけ後ろに下がった後、飛び石の上をとんとんとリズム良く渡って、少年と同じ側に来たのだ。ふんわりと彼女のワンピースが広がった。黒い髪が風になびいて、鈍い光を受けてかすかにきらめく。

 危なげなく川を渡り切った少女は、しかしその勢いがよすぎて少年に飛び込んでいく形になった。

 わずか一瞬の出来事だが、少年には永遠にすら感じられた。ゆっくりとした時の流れの中で少女を受け止める。見事に左右対称の整った顔が少年の顔のそばにあった。

 深い緑色の瞳には、驚いて物も言えぬような顔をした自分が写り込んでいる。

 ゆっくりとした瞬きによって自分の顔は一度見えなくなり、そしてまた現れる。

 同じ背丈の少女と抱き合って見つめあっているということを、少年はあまり実感できていなかった。

 ただ、ルミエハの少女がこの手の中にいる現実に混乱していた。

「大切な人になればいいのよ」

 予想以上に近い距離で声が聞こえて、少年はようやく現状を認識して、体を少女から離す。

 まるで全力で森を駆け抜けたかのような息苦しさに、少年は思わずはっとして胸を抑える。川のこちら側にいる少女はやはり美しく、近づけば近づくほど、彼女という生命の輝きを強く感じるのだった。

「大人に黙ってればいいわ。私たちはお互いに大切な人になればいい。そうすれば、名前を教えてもいいはずだから」

 大人びていて、それでも川を越えてしまうほど大胆で、そんな少女に少年はすでに惹かれ始めていた。両親が教えたルミエハと、目の前にいるルフレは全くの別物であると少年には分かっていた。

「エリアス・ロイ・オブスキィトだよ。ロイって呼んで、レンティシア」

 少年はそう言って片手を差し出した。

 少女は差し出された手をとり、そしてにっこりと微笑んだ。

「シアって呼んで」

 まだあどけなさの残る高い声で言われたその言葉は、すっとロイの心の奥深くに入り込む。

 繋がれた手を離さないままに、ロイはシアに言った。

「オブルミの森のこちら側は、来たことあるの?」

「ううん。私、初めて川を渡ったの」

「初めてだったの!」

 てっきりシアはいつも川のことなど気にせずに行き来しているのだと思っていた。彼女が川を渡る時の勢いのよさは慣れからくるものだと信じていたのだ。

「渡る理由がなかったから、今までは」

 シアはロイの疑問に答えるようにつぶやいた。その答えにロイは少しだけ驚く。彼女はロイとは違って、渡ってはいけないと言われていたから渡らなかったのではなかったのだ。それはむしろ自分の意志で川を渡らなかったということなのだろう。

「ルミエハが“向こう側”だなんて不思議」

 思いついたように顔だけを振り返ってつぶやくシアに、ロイは一つの決心をした。

「シア、僕も向こう側に渡りたい」

「……あなたも?」

 幾度か繰り返されたまばたきの後、シアはにっこりと笑ってロイの手を離した。そして先ほどと同じように軽やかな足取りで川の向こう側へと渡ってしまう。

「来るんでしょう? ”こちら側”へ」

 あっさりとシアは言った。

 至極簡単に。ずっとロイができなかったことを。

 ロイは急に怖くなった。たとえ目の前のシアが自分と同じ人間だと分かっていたとしても、両親の、特に母親の脅しを完全に忘れたわけではなかった。今この時期にオブスキィトとルミエハが関わることは国の“いちだいじ”だと言われていた。

 ロイにその言葉の意味は分かってはいなかったが、それがどれほど危ないことか良く聞かされて育ったのだ。

「やっぱりやめる?」

 そんなロイの不安を見透かしたかのようにシアは優しく言った。小さな子供をあやすような言い方に、ロイはようやく恐怖をとりはらって顔を上げる。

「行くよ」

 大きく息を吸ったロイは、少し助走をつけて川に飛び込んだ。飛び石を蹴り、軽い足取りで川を一気に渡りきる。

 あれほどためらっていたことが嘘のように、あっけなく川を渡って“向こう側”に来てしまっていた。

 もうここは、ルミエハ側――向こう側だ。

「ようこそ“こちら側”へ」

 微笑んで迎えてくれたシアを前に、ロイは両親の言いつけをやぶったことに対する罪悪感を都合よく忘れた。


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