第一章 第一項「目が覚めればそこは異世界?」
夜の闇を斬り裂くように赤々とした光りを放つ光弾がゆるやかな弧を描いて飛来する。直径にして20センチ程の光弾であった。それは着弾と同時に質量を増大させ、周囲の酸素を飲み込んで一帯を一気に焼き尽くした。
敵味方の識別などしている訳もなく、それらは無数に夜の闇へと躍り出ると我先にと先走らんばかりに地面に激突しては大きな穴を穿ち、周囲を焼き払っていく。普段は星と月の明かりしか光源がない平原が、今はまるで昼間のように明るい。それは草原に生い茂る草花を燃やして灯る蹂躙の明かりだった。
まるで夜空に咲く花火を見て歓声を上げるかの如く、光弾が着弾して周囲を燃やし始める中を狂ったような雄叫びが一丸となって突き進む。それは攻め立てる側である筈なのに、驚怖に彩られた表情を張り付かせた者達だった。
彼らは無数の傷が付いた防具を纏い、刃こぼれした剣と今にも砕けそうな盾を手にして夜天を焦がす業火の中、草原を駆ける。普段であれば数メートル先も視界が効かず、明かりなしの行軍はありえないのだが、うねりを上げる紅蓮の炎が彼らの進むべき先を照らし出していた。
しかし、空から舞い降りる光弾は味方がそこに居るからとご丁寧に落下軌道を変えるという優しさを見せることはない。着弾、爆発、炎上。彼らが草原を駆け抜け始めると、光弾の着弾音よりも、巻き込まれた彼らが上げる悲鳴の方が多くなり始める。それでも彼らは動きを止める事はない。いや、止める事は彼らに許されてはいない。
彼らに与えられたのは破棄寸前の武器と防具。一応は剣や防具として体を成してはいるものの、数度振れば折れてしまうような剣で、少しの衝撃で穴が空いてしまうような防具で、彼らは戦場を駆け抜けなければならない。
戦場の尖兵たる彼らが、何故そんな装備で爆風吹き荒れるなか悲鳴にも近い雄叫びを上げて突き進むのか。それは彼らが人として最下層に位置する身分、奴隷であるからだ。例え日々食べていくのがやっとという貧乏人よりも、彼らは下に位置するのだ。人であって、人としての扱いを受けない、それが奴隷である。人の形をした何かであり、決して人ではない。人でないのだから、死のうが生きようがどうでもいいと、そう思われる存在が奴隷である。その中で、特に戦争に使われる者達を、人々は戦の奴隷、戦奴と呼んだ。
つまり、光弾に巻き込まれる危険性があっても戦場を駆けなければならないのは、彼らが奴隷だからだ。臆しては死に、進んでは死ぬ。どちらへ行っても死しか待っていない。死にもっとも近い者達、それが彼らだ。
仮に敵を全て倒し、戦が終わった時に生き残っていたとしても、次ぎの戦まで死が先延ばしにされだけである。しかし、死しか与えられないのかと聞かれれば、それは否である。
尖兵たる戦奴はもっとも前に出て戦い、もっとも多くの敵を屠る。時にはその中に名のある武将であったり、中には大将首であったりする事も、決してない訳ではない。
戦奴たる彼らに告げられる最初の言葉は『もし功績を挙げたのなら、その枷を解こう』である。それはつまり、功績を挙げたのなら、奴隷の身分から解放しよう、という言葉に他ならない。だがしかし、奴隷という制度が広まって以降、身分から開放されたという話を聞いた者は誰一人として存在しない。
彼らが纏う鎧の胸には紋章が描かれている。赤いドラゴンに二本の剣がクロスするように描かれた紋章で、赤竜紋と呼ばれる。この紋章は北の大国『バーグレイス帝国』の国紋であり、今もっとも多くの戦場で見られる紋章であった。
新暦194年、北の大陸に拠点を構えるバーグレイス帝国は一年前、突如として全世界に対して宣戦布告とも言える声明を発表した。
――圧倒的な力と規模を誇る帝国軍はこれから全世界の平和を守る為、各地に駐屯基地を建設する事にした。これは同時に土地を所有する国を援助するという目的もある。基地建造に協力するのなら以降帝国軍は貴国を守り、物資を格安で卸す事を約束する。しかし、邪魔をするというのなら帝国軍は全力を持って敵を排除する――
バーグレイス帝国を治める『ルーニス・ゼ・アーガル・バーグレイス8世』は自らが正義だと声高らか、そう宣言した。
要約すると帝国軍を受け入れるなら帝国の庇護下に入れてやるが、拒否するなら問答無用で攻撃するぞ、という事である。当然、そんな横暴とも言える言葉を、はいそうですかと受け入れる国等あるわけがない。いや、裏で帝国と繋がっていた国はあえて口を噤んでいたが、そんな国は極少数である。殆どの国が帝国の要求を突っぱねた。
当然、帝国もそうなる事は予想している。表面上の言葉は軍事力で弱い国、周辺を列強国に囲まれている国、戦争によって疲弊している国を援助し、国を守る為に力を貸すと言っているのだ。裏がある事は誰が見ても明白であるが、その証拠はない。帝国が本当に善意で人助けをしようとしている、という可能性も決して無い訳ではないからだ。もっとも、それは宣言の初めに圧倒的な力という言葉が付いていなければ、だが。
端々の挑発とも取れる言葉を無視すれば、やはり帝国は人助けをする事が目的であると表面上はそう取れる。一方的な侵略ならば非難や抗議のしようもあるが、表立っては人助けと言われれば、それを邪魔する事はイコール助けられる命を捨てるという事になり、帝国側に非道な国を討つという大義名分を与えてしまう事になるのだ。
現に反対の声を上げた帝国の周辺国家は数週間と持たずに侵略されている。その後、帝国軍は戦火に呑まれた村や町に軍を派遣して再建を手伝い、足りない物資を提供し、怪我をした人を無償で治療した。勿論、恩恵を得られたのは帝国の息が掛かった所だけだ。それでも、傍目に見れば帝国が良心的な行いをしているという風に見えるよう、計算されて事は行われている。
その裏では世間に露見されることなく処分された場所は無数に存在する。しかし、見た目は敗戦国であっても手を差し伸べる良心的な国、と見えるようにやっているのだから頭ごなしに否定をしていては民からの不満が上がってしまう。
そうして良心的という隠れ蓑を手に入れた帝国軍が歩みを遅らせる理由等ある筈もなかった。加えて帝国軍の力と豊富な物資を格安で得られるとあれば、日々の生活も苦しい民達からすれば、それは神が与えた恩恵のようにも見えた。
一般市民からの非難の声を抑えつつも帝国を牽制するという事態に陥った各国はまたたくまに帝国軍の猛攻を防ぎきれず、経った一ヶ月という短い期間で地図に記載される勢力図が大きく書き換えられるという事態になる。
そして北の大陸、西の大陸、中央の大陸半分を手に入れた帝国軍はそこで部隊を四つに分ける。それぞれが中央大陸の残り半分、空に浮かぶ大陸、地底大陸、そして『トラロトリア王国』という小国が治める南の大陸へと部隊を派遣した。
トラロトリア攻略を任されたのは現帝国王ルーニス8世の四男である『アバンヴィア・ル・セインリッツ・バーグレイス』が指揮する第4空挺師団であった。アバンヴィア率いる第4空挺師団は中央大陸を時計回りに迂回し、南東に位置する『ネリル・シナ共和国』に拠点を置いた。その後、鮮血の異名を持ち豪傑として知られる『ルカガルシャ』に一部の戦力を貸し与え、先行部隊として進行させたのだ。
バーグレイス帝国軍第4空挺師団・先行上陸部隊・ルカガルシャ機甲大隊が南の小国と言われるトラロトリアを侵攻し始めたのは二ヶ月前の話だ。
ルガルシャと呼ばれる男が指揮する2000人規模の大隊であった。その内1000人程が奴隷で、戦闘員としての帝国兵は600人、残りは非戦闘員である。
鮮血という二つ名を持つルカガルシャという男は非常に好戦的かつ殺しを楽しむ男で、しかし場の状況を読むスキルも持っているかわり者として知られている。それらの技術とスキルを買われ、ルカガルシャは先行部隊の隊長を任された。
またルカガルシャは、通った道は人一人生きていない焼け野原と化し、捕虜を取った事は一度も無い。彼にとって、視界は入る敵は全て殺すべき対象であり、己の武勲を世に知らしめる材料でしかなかった。
臆すれば死と常に首元に剣を突きつけられながら、戦果を上げれば身分開放の希望という名の餌を目の前にちらつかされた奴隷は意外な程に戦果を上げるもので、幾ら小国とは言え陣地での戦いであるトラロトリア軍を経った五日で首都『カーヴェント』にまで撤退させるという多大な戦果を上げている。もっとも、水際での戦いに一ヶ月以上防衛線を意地し続けたトラロトリア軍の粘り強さを鑑みれば、一度でも帝国軍と戦った事がある国々からすると、十分過ぎる程に奮闘したと驚嘆するだろう。
多くの同胞、国民を失いながらも最後の砦である首都に立てこもったトラロトリア軍はまさに不退転の思いで夜の奇襲に対し、命を賭して防衛線を展開し始めた。
小国とは言え、天然資源の多いトラロトリアは輸出によって財源を生み出している国である。材料が豊富という事で、首都の守りは特に堅牢とされており、城壁の厚さは50メートルもあると言う規格外の代物であり、例え雨のように光弾が降り注いだとしても、そうそう揺らぐ物ではない。しかし、何時までも持つという物ではなく、打開策が無ければ夜明けまで持つかどうか微妙というラインである。
そんなまさに最後の一戦というべき状況の中、トラロトリアを納める『シェスセリア・フィフティナ・トラロトリア』女王は侍女のメイド三人と護衛の騎士『ジゼル・ジゼル・ラークニディヘト』を連れて王宮の裏にある他とは作りの違う建物へと入っていった。
闇夜を抜け、建物内を照らす光がシェスセリア女王の美麗な姿を露にさせた。
トラロトリアの国色は鮮やかな青である。前方を指差す妖精に船の背景を描いた紋章がこの国の国紋である。それをあしらった光沢のある青色をした衣は王位を表す証だ。同様に鮮やかな青色をしたドレスは如何にもそれらしい威厳の光りを放っている。
女性の王という事も当然興味を引かれる物があるが、それと同じく、いやそれ以上に彼女が視線を集めるのは見事なまでに起伏に富んだ、同姓ならば思わず溜息を漏らす程に理想を体現したかのようなプロポーションをしている。それはドレスの上からでも分かる程に、見事であった。
特に目を惹くのはドレスの中に押し込まれながらも、まだ強い自己主張の続ける豊満な乳房だ。些細な動作であっても柔らかく、扇情的に揺れるのだから、ある者はそれを兵器であると笑いながらに語った事もある。
シェスセリアは羽織っていたマントを侍女に渡すと優雅な動きで歩き出す。ドレスの裾から露になったのは女性特有の丸みと柔らかそうな肉付きをし、シミ一つない白陶の如き白い脚。平時なら職務に忠実な寡黙な騎士でも思わず唾を飲み込む程の魅力がある。細く、しかし程よい肉の付いたしなやかな脚が一歩動く度、ドレスと同じ光沢のある青色をしたヒールが甲高い音を響かせていた。
彼女が入った建物は格納庫だった。戦いをする為だけに存在する、人殺しの武器を整備、開発、収納する建物だ。鎧を纏っている者は誰一人として居らず、分厚い生地をした上下一体の制服を着込み、汗と油でデコレーションされた整備兵達が上に下にと怒声混じりに忙しなく動き回っている。
女王であるシェスセリアが現れたというのに、まともにその姿を見る者は皆無。本来なら一列に並んで膝を付くものなのだが、今はそうにもいかず、またシェスセリアも侍従のメイド達も、お付きの騎士も彼らにそれを求める事はない。女王に対してそう口にするのは無礼に当たるのだが、そんな事をしている暇があるなら少しでも速く手を動かせ、一つでも多く点検を終わらせろと、そんな雰囲気がある。
もっとも、平時であっても彼女はそれを強要するような人柄ではなく、それを知っているからこそ彼らは無礼と知りつつもそれをしないのだ。
とは言え、流石に気づいていないという事はなく、忙しなく動いていても、誰一人として女王や侍女、近衛の騎士の近くを通ろうとはしない。彼らに気を使わせている事に気を病みつつも、シェスセリアはそれを顔には出さず、いつも通りの毅然とした面持ちと王としての風格を纏いながら目的地へと歩みを進めた。
幾つかの区画を抜け、漸くシェスセリア一行は目的地である第七格納庫と銘打たれた格納庫へとたどり着いた。先ほどまでの怒号飛び交う喧騒はどこへやら。格納庫内は十数人の姿しかなく、彼らは一様に何かを待っているように佇んでいた。その中の中心へシェスセリアは向かう。
気配を感じ取ったのか、中心に居た人物が振り向いた。
上下一体の制服、その上着部分だけを脱いで腰辺りで縛り、インナーである黒色のシャツだけの格好をした女性だ。シェスセリア程ではないが、そこには十分過ぎる程の実りを蓄えた二つの膨らみがシャツを押し上げ、形の良いヘソと整備で鍛え薄っすらと割れた腹筋を覗かせていた。
赤茶けた髪の毛を黄色のリボンで結い上げたポニーテールが彼女のトレードマーク。普段なら美人と言っても誰も異を唱えない容貌なのだが、今は油と汗塗れで、前髪は額に張り付いている。目の下には薄っすらと黒色が差し込み、それはこの場に居る全員が同じような相貌をしている。彼らが不眠不休で働いている証拠だった。
「ご苦労様、『フィン』。――さっそくで申し訳ないのですが、状況はどうなっていますか?」
普段なら全員に労いの言葉をかけるのだが、現状ではそんな猶予もない。勿論、それはこの場に居る全員が分かっている。だから、フィンと呼ばれた女性にかけた労いの言葉は全員に言ったのと同義だと理解している。
シェスセリアが声をかけたのは第七格納庫の主任を任されている整備長『フィン・ニグルサーヴェル』である。彼女は整備長という役職に就きながら、同時に開発長も兼任している、トラロトリアの兵器開発、その要と言える存在だ。
一昔前ならば女が兵器に触るなんてと声を荒げる男も多かったが、現在はそんな事を口にする愚か者は存在しない。ある部門において女性が男性よりも優れていると判明してから以降、女性は男性と同格に扱われている。とは言え、未だに過去の事を引きずっている者も少なからず存在しているのも事実である。
「申し訳ありませんシェスセリア様……。最初に報告した通り、反応は見せているのですが……。安定起動にさえ入れば何とかなるのですが、何度試しても結果は同じ、という所です」
言ってフィンは上を見上げる。シェスセリアも、侍女も、近衛の騎士も、他の整備兵も、釣られて見上げる。
そこには黒色の巨人が鎮座していた。まるで炎の焼かれ炭化した人の死体を巨人サイズにまで大きくしたような、やせ細った外見をしている。巨人ではあるが、本来は持っていそうな威圧感はない。
「これさえ……この『MAVRS』さえ動けば戦況は覆せるのに……」
悔しさを滲ませてフィンは唇を噛み締める。表情こそ変えないが、周りに居る整備兵達も同じ気持ちだ。彼女達が作ったこの黒い巨人さえ動けば、必ずとは言えないが、状況を一変させる切欠にはなるはずなのだ。
「……フィン、これの出力が上がらないのには何か原因はあるの?」
そう問いただしたのはシェスセリアの近衛騎士であるジゼルだった。ジゼルとフィンは同じ兵士学校で同級だった間柄だ。友人と呼べる関係を築き、それは今日まで続いている。
「恐らくはマナが足りないんだと思う……。勿論、私を含めてだけど、何人ものマギに協力してもらってマナは注いでいるんだけど、まったくダメ」
「必要なのはマナではない……という事ですか?」
「いえ、違いますシェスセリア様。恐らく、この……『ダークマター』が本稼動する為に必要なのはマナ量ではなく、マナの質だと思われます。これが必要としているマナ質を注げば、恐らくは……」
それが見つからず、捜索の範囲を広めるには時間が足りず、歯痒い思いにフィンは悔しさを滲ませた。
マナとは自然界に存在する力である。全ての生命はこのマナを取り込む事で生きている。全ての生命が必要とする力で、それは酸素と同じで、生きていく為には必要な物だ。
ある時、後に魔法使いと呼ばれる事になるとある男がある発見をした。それは本来自然界にしか存在しないマナが、女性の体内で生成されるということだった。男の言葉に誰もが最初は気狂いだと口々に罵った。しかし、それに興味を持った幾人かの名のある学者が調べた所、男の言った通り女性はその体内にマナを生成する力を持っている事が判明した。
当然ながら、全ての女性が同量のマナを生み出せる訳ではない。多い人がいれば反対に少ない人も存在する。その中で一定量のマナを保有している女性を『マギ』と呼ばれる事になった。
その後、マナを使った技術である魔法が生み出され、やがて魔道学と呼ばれる学問が作られる。
女性の体内で作られるマナは一見して全て同じマナに見える。まさにその通り、誰のマナを使っても、同じ魔法、同じ結果が得られるのだ。しかし、よくよく調べてみると、全てのマナは全て同じではない事が判明する。それは、同じ人間であっても一人一人が違うのと同じで、個性という物がマナにはあったのだ。
フィンが言うマナ質とはマナの個性の事である。そして今求められているのは、ダークマターと呼ばれたものが気に入るマナの個性が今のところ見つかっていないという事だ。
「国中に居るマギは全て試しました……それでも動かないとなると……」
フィンの表情に悲痛な色が濃く浮かぶ。これでもう打つ手がないと、そう悲観した。だがそれを打ち破る声が上がる。
「それは違うわよ、フィン。貴方はまだ全てのマギを試したわけじゃないでしょう?」
全員の視線がジゼルに集中する。動じることなく、ジゼルは一歩前に歩み出た。
「私も、マギよ」
ハッとなってフィンは頭を持ち上げる。近衛に選ばれてからというもの、マギとしての役目から遠ざかっていた為にすっかりと忘れていた事を今になって思い出したのだ。
「――ジゼル、頼みます。貴方がトラロトリア最後の希望です」
シェスセリアの重たい言葉がジゼルの心に圧し掛かる。しかし、ジゼルはそれを軽く持ち上げるかのように力強く頷き返した。
彼女の言葉通り、ジゼルがダークマターを完全起動させられなければトラロトリアに取れる手段は完全になくなってしまう。もしそうなってしまった場合、シェスセリアの首を差し出しても一体どれだけの臣民を守れるかは予想もできない。最低限、帝国が善良さをアピールできる部分は残されるだろうが、それ以外は一切の慈悲も与えられずに抹殺されるだろう。
フィンを見て頷くと、彼女もそれに返した。勢いを付けて振り返ると大きく息を吸い込み、施設内に響き渡る程に声を張り上げる。
「起動準備開始っ!! 起動パターンを最初からやり直すわよっ! ――ジゼル、貴方専用のスーツも、予備も今はないから、直接入って貰う事になるけど大丈夫?」
直接、という言葉にジゼルは眉をピクリと反応させる。しかし、現状を鑑みれば自分専用のスーツを取りに戻る時間と手間は惜しい。いつ戦局が変化するか分からないのだ。もしジゼルのマナでダークマターが起動するのだとしても、スーツを取りに行っている間に戦いが終わってしまっては遅いのだ。
一旦深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。意を決し、ジゼルは歩み出た。シェスセリアの後に控えていたメイド二人がジゼルに近寄り、彼女が身に付けていた鎧を手際良く外し、それを受け取って離れる。整備兵の一人に促され、ジゼルは歩みを進める。
フィンの言うダークマターは見えるところには置かれていない。『マギリングジェネレーター』と呼ばれる動力機関と共に地下の特殊施設に置かれている。これは地下深くに作られ、分厚い外壁と地面とう壁を持った施設で、仮に暴走事故を起こしても地上には被害が出ない為に作られた場所だ。
マギリングジェネレーターとはマギから直接マナを抽出し、動力に変換して出力する器官だ。言うなれば、マナを燃料にして動くエンジンである。
タラップを駆け上がり軋み音を上げるキャットウォークを大股で抜けると目の前に簡素な作りをしたエレベーターが現れる。端にある上下のボタンだけが付けられた装置だけが一つ付いているだけ。これを降りると直ぐにマギリングジェネレーターの上部ハッチへと辿り着く。そこから魔力緩衝水――通称魔水と呼ばれる――に満たされた内部へと入る事になる。魔力緩衝水は外部からのあらゆる衝撃を緩和する特殊な魔法によって生成された水である。
ジェネレーター内部は効率良くマナを吸引して稼動する為に不純物は出来るだけ排除する必要がある。魔力緩衝水は衝撃を和らげるのと同時に、ある程度の不純物は中和する機能も持っている。しかし、それにも限度がある。もっとも効率良くマナを抽出するには、全身を清めた後、裸で入る事であるとされている。
マギリングジェネレーターが施設稼動等に使われるのならまだしも、戦場に出る兵器であるMAVRSの動力ともなれば、稼動停止した際に脱出する事もある。その場合に不純物を可能な限り排除する為だからと裸で入っていては、戦場で丸裸状態での行動という事になり、道徳的にも生命の安全から見ても良いとは言えない。そこで作り出されたのが『魔科学特殊パイロットスーツ』で、パイロットスーツやスーツ等と略される事が多い。
魔道と科学が融合した特別製で、生地の薄さからは考えられない程に防刃防打性能を持っている。加えて様々な場所で行動を可能とする為に耐寒耐熱機能も備えている。と言っても、普通の服よりはマシという程度で、鎧などの防具とは比べるべくも無い。
パイロットスーツはジェネレーター内部でマナを抽出しやすいように作られており、その為に個人個人の体のサイズに合わせて作られる。所謂オーダーメイドになってしまうのだが、他人のスーツがまったく着られないのかと聞かれれば、それは否である。
スーツがない事に僅かな不安を抱きつつも、足早にエレベーターに乗ったジゼルは拳を叩きつけるように下降のボタンを押す。周囲に誰の気配もないのを確認してから大きく息を吐き出した。
「はぁ……ふぅ……よしっ!」
パンっと乾いた音が響く。ジゼルが両手で頬を張った音だ。白い肌に赤色が痛々しく滲む。何度も深呼吸して気持ちを落ち着る。勢い良く服の裾を掴んだものの、ジゼルは一瞬動きを止めた。覚悟はしたものの、やはり羞恥心が邪魔をした。
国家の為、守るべき民の為、個人の羞恥心など抱くのは愚かな事だと自分に言い聞かせ、納得させる。その思いを振り払うように、ジゼルは勢いを付けて服を脱いだ。
たっぷん、と大きく揺れる大ぶりの果実。機能性を重視した飾り気のない下着に包まれてはいるが、平均よりもずっと大きく実っている。時が時、立場が立場ならば男の視線を釘付けにするであろう程の巨大さを誇っている。
スカートを下ろせばそちらも飾り気のないパンツと柔らかい尻肉が顔を覗かせる。自室でもないのに下着姿になったという事実にジゼルはやはり恥ずかしさを拭えなかった。しかしここで逃げては何の為にここに来たのか分からない。もう一度深呼吸をし、頬を朱に染めながらもジゼルは下着を全て脱ぎ捨て、生まれたままの姿になる。
隙間から抜けてくる夜風が緊張と羞恥に火照った体には心地よかった。気づけば周囲を覆っていた壁がなくなり、枠組みだけの視界となる。エレーベーはそのまま下降し、後数メートルという距離にマギリングジェネレーターの上部ハッチが視界に入る。
地下格納庫に収められた黒塗りのマギリングジェネーターの周りには数人の整備兵の姿が見える。流石にそこまでくればジゼルも覚悟を完全に決め、体を隠す事なく、堂々としていた。
ガコンと重たい音を響かせエレベーターが一瞬揺れる。それに遅れて扉が開いた。真下にある上部ハッチとその中に入り口より少し下辺りまで魔力水が満ちている。梯子を使ってマギリングジェネレーターの上に降り、ハッチの上にジゼルは仁王立ちのように立った。
「マギリングジェネレーター最低稼動を確認。各部異常なし。いつでもいけます」
女王シェスセリアと何度もこの格納庫に訪れているジゼルは、報告を上げてくる整備兵に見覚えがあった。大きな丸眼鏡をかけ、髪の毛を二つに分けて三つ編みにしている少女だ。彼女に手で答え、ジゼルは躊躇う事なくジェネレーター内部へと飛び降りる。
魔力緩衝水の独特な感触にジゼルは懐かしいという感情を抱く。思い返してみればマギの役目から離れて数年経っている事を思い出した。別段マギの役目が嫌になった訳ではない。元々、国と民を守り、女王に仕える事を望んでマギとなったのだ。それから少しして王族直下の近衛騎士団に抜擢されてマギの役目を一時的に解かれたのだ。
普通の騎士や兵士と違い、女王付きの近衛となれば前線に赴くことはなくなる。身辺警護が主な任務となれば、マギとしての仕事が激減するのは当たり前と言える。片時も離れず、時にはその身を賭して守るのだから、それ以外の仕事は当然なくなる。
ジゼルは自分が再びマギに戻る時は国家の危機だけであると騎士団長に言われた事を思い出した。楽観視していた訳ではないが、それまでは周辺国家間を見ても目に見える戦いはなく、それがずっと続くものなのだと思ってしまっていた。しかし、その時は訪た。今、トラロトリアは存亡の瀬戸際に立たされている。己の利己主事で他人を踏みにじろうとするバーグレイス帝国によって。
「……させない。絶対にさせない。この国は……私が……私達が守って見せるっ!」
弾かれたように頭を上げる。瞼を開けば薄い黄色く光る世界。口を開いて魔力緩衝水を体の中に取り込む。上部から垂れ下がる二つのノズルを引っ掴むように取った。
その時、ふいに遠くの方で何か巨大な物が爆ぜるような音が聞こえる。恐らくは帝国軍とトラロトリア軍の戦いが首都付近にまで迫ってきているのだろう。そう悟ったジゼルに躊躇いの気持ちなど一瞬で吹き飛んだ。
二つのノズルを手に持ち、自らの乳房へと押し当てるように接続した。短い音と共にレッドシグナルがグリーンへと切り替わる。僅かな駆動音と共に全身に満ちていた力が乳房を通して外へと流れ出ていく感覚に小さなうめき声を漏らした。
「接続完了。ジェネレーター稼動開始。マナ、抽出します」
整備兵の声がどこか遠くに聞こえる。ジェネレーターはその役目を果たすべく、ジゼルからマナを抽出し始めた。
女性の体はマナを生成できる。この事に間違いはない。だが、それは無尽蔵に、無節度に生み出すわけではない。人の能力が個々で違うように、マナを一度に生成できる量と速度にも個人で差がある。同時に、一度に保有していられる総量も違う。
人が日々生きていくには、個人で必要な総量の八割を体内に留めておく事が必要であると言われている。その数値が下がるにつれ、身体に少しずつ影響が現れる。それは思考や運動能力の低下であったり、何かしらの病気を発生させたり、最悪の場合はマナ枯渇で死亡する事もある。
マギリングジェネレーターはマギからマナを奪い、燃料へと変換する装置だ。八割のマナで満ちていた体からマナを抜き取られるのだから、全身を疲労感が襲い、眩暈等を覚えるのはマギであれば誰もが最初に感じる戸惑いである。
八割に満ちている段階では行われない生成が、奪われた事で初めて機能する。脱力感が徐々に薄れ、四肢に力が戻り始めた。奪われた分を補う為に、ジゼルの体内でマナが生成し始めた証拠だ。
ジゼルの乳房から抽出されるマナがジェネレーターの主機関へと流れ、本稼動を開始する。マナを得たマギリングジェネレーターは大きな唸り声を上げ、淡い粒子を迸らせ始めた。魔力光と呼ばれる現象である。
「マナエネルギー充填開始。……5……6……7……8……9…10。通常稼動量、確保。フィン班長、いけますっ!」
「了解っ! 抽出したマナ、全部装置に送ってっ!」
使い古された計器にジゼルから抽出したマナが予定通りの数値を示しているのが表示される。地下から送られてくるマナエネルギーが一旦貯蔵タンクへと注がれ、そこから三方向へと分けられ、地下施設中央に置かれた大型の装置へと注入された。
黄色の光りを放つエネルギーが装置中央に鎮座する漆黒の塊へと照射された。精巧なほどに正方形にカットされた黒一色の物体。それは照射されたマナを受けて赤い光りを放ち始めた。徐々に血管のような筋が表面に現れ始める。
「これは……ダークマターがジゼルのマナに呼応している……のですか?」
「はい、陛下。……でもこれはどのマナを注入しても起こる現象です。今まではここで反応が消滅するのですが……」
いつもなならここで一瞬強く光ったかと思うと、それ以降はうんともすんとも言わなくなり、どれだけマナを注ぎ込もうと一切反応しなくなるのだ。満タンになると反応しなくなるのかと思ったフィンだったが、試しにと反応がなくなった直後にエネルギーパイプを切り替え、別のマギから抽出したマナを照射したところ、同じ反応を見せた。
これを踏まえ、フィンは、ダークマターが見せている反応はマナ質を見極めている動作なのだはないかと考えた。反応が消えて以降一切稼動しないのは、そのマナ質はダークマターが求めているものでないと判断されてしまったからなのではないかと、そう思い至る。
ダークマターから発せられる禍々しい程の赤い光りが強くなる。表面に走る赤いラインも増えていく。いつもならこの後直ぐに反応が消える。
その時だ。突然計器が警告を示すアラームを響かせ始めた。ダークマターに見入っていたせで、突然響くアラームのけたたましい音に、普段は冷静沈着なシェスセリアでさえ目を丸にして驚く。
「な、何事ですかっ!?」
慌てて普段通りを取り繕うようにシェスセリアは声を張り上げる。しかし、驚きに心臓が激しく早鐘を打つのは止めようがなかった。
「こ、これは……ダークマターがジゼルのマナを認めた……?」
フィンの視線の先。メインモニターには先ほどまで漆黒色だったダークマターが一変して真紅に染まっていた。大きく脈動するように光りを放っている。
「――ぁっ! す、数値はっ!? ダークマターの出力は安定してる!?」
焦った声でフィンは計器の前に座る整備兵に問いかける。自分達の職務を思い出した整備兵達が慌てて装置を操作して確認作業を行う。隅が油や埃で汚れてしまっている計器のデータが次々に変化し、やがて一つの結果が表示される。
「な、なに……これ……。これが、ダークマターの力……」
一体何が、とシェスセリアはフィンに問いかけなかった。表示される結果を見れば何が起こっているかは一目瞭然だ。
第七格納庫の設備は兵器開発部門という事で些か汚れてはいるものの、最新の物が集められている。試作ともなれば実践では使用されない程の出力を出す事もあり、それらは全て観測できるよう、想定よりも何倍も多く計測できるようになっている。であるにも関わらず、ダークマターが見せる出力は計器の最大観測量を振り切らせている。表示される結果は計測不能の一言。
あり得ない量のエネルギーを生み出すダークマター。全員が現状を忘れてしまうほどに見入っていると、新しい変化を見せる。
赤く禍々しい光りが強くなったかと思うと、回りの物を吸い寄せ始めたのだ。ダークマターを置いていた巨大装置は一瞬の内にミリサイズまで圧縮され、吸い込まれた。その次は地面や柱を吸い込み始め、整備兵達は悲鳴と共に地上へと続く非常階段へと我先にと逃げ始める。
周囲の物はどんどんとダークマターに吸い込まれ始め、ついには地上までの地面全てを飲み込み、巨大な穴を穿った。
ハッとなって我に返ったフィンは手に持っていた整備兵の命とも言える工具を投げ捨て、地面を蹴るとそのままシェスセリアへと向かった。
まるでそれを見ていたかのように、ダークマターが作り出す歪みは肥大し、第七格納庫の三分の一を飲み込む。そのまま全てを飲み込むかと思えば、今度は反転して規模を縮小させた。その次ぎに来るのは圧縮した質量を開放するような大爆発。
フィンは来る衝撃と爆発からシェスセリアを、文字通り体を張って守る為に彼女を地面に押し倒し、その上に覆い被さった。フィンの行動の意味に気づいた侍従のメイド達も、慌ててシェスセリアの壁になろうと覆い被さる。
次ぎの瞬間、溢れ出たエネルギーは夜闇よりも黒く深い漆黒の色へと変わり、天へと向かって光芒が迸った。
◇
「――――――ぁ?」
何かの物音で少年は目を覚ます。自分の意思ではない覚醒のせいか、頭の中に霞みがかかったようで、おぼろげ視界は陽炎のようにぼやけていた。思考は複雑怪奇に入り乱れているて意味をなさない。むくりと起き上がって頭を掻くも、少年の思考はさっぱりと意味を持たないもので溢れ、ただぼぅっと一点を見つめながら停止する。
一体その状態からどれだけ時間が経っただろうか。漸く霞が晴れ、思考の回路が上手くかみ合い始めた、視界がクリアになり始めた頃、少年は漸く「よっこらせっと……」と掛け声を漏らして立ち上がった。それから凝り固まった筋肉に活を入れるように全員を痙攣させるかの如く伸びをし、同時に大きく口を開いて欠伸をした。
「くあぁぁ……むぅ……眠っ――」
欠伸に涙が目じりに溜まって溢れる。それを拭うのど同時に何度も目を擦りつつ、少年はまた欠伸をした。もうその時には自分が何で起きたのかという事はすっかりと忘れてしまっており、さてこれからどうしようかと、これからの事に考えが行っていた。
「今の時間はっと……あぁ、もう昼過ぎか。朝からぶっ通しで寝てりゃ、そりゃ体も痛くなるわな」
片手を突き上げて伸びをしつつ、引っ張り出した携帯端末をズボンのポケットへと押し込む。それから肩や腰を動かして簡単にストレッチを行うと、そこから飛び降りた。
少年が寝ていたのは屋上の入り口の更に上。貯水タンクが四つ並ぶ場所だ。3メートルほどの高さを危なげなく飛び降りた少年はそのままフェンスから下を見る。広いグラウンドは明日からの大型連休があるからと言っても手を緩める事なく運動部が練習に勤しんでいる。少し視線を外せばミニスカートから覗く健康的な脚を惜しげもなく晒し、青春の汗で服を濡らしている女子テニス部の姿が映った。上からの角度では残念ながらスカートの中身を見る事はできず、少年は残念そうに嘆息した。
さらに視線を横に移動させると、テニス部のユニフォームよりも肌色が増した競泳用水着がなんとも眩しい水泳部の練習風景が見えた。開閉式の天井を持つ為、雨天であろうと水泳部は活動するのだが、本日の天気は天晴れな晴天。全開になったそこから女子水泳部の何とも扇情感を煽る姿が見える。しかし、こちらも残念なことに上からの視線。膨らみ始めた果実も、肉が付き始めたお尻も、いまいち楽しめるものではなかった。
両部活とも、普段から男子生徒が見に来ないよう、周囲には簡易的な壁があるのだが、流石に屋上からは考慮されなかったようだ。気づかれる事なく見放題なのは青春真っ盛りな男子にすれば美味しい覗きポイントなのだが、位置がどうにも悪かった。もしかしたらそれを知っているからこそ、何も対策が立てられているのかもしれないと、少年は教師人の読みの良さに呆れにも似た嘆息をした。
それでも、同年代の女の子の普段は隠されている肌を堪能できるのだから、悪くはない。少年はそう頭の片隅で思いつつ、同時に自分が何故屋上で寝ていたのかを思い出した。
今日は明日から学生にとって最大のイベント、夏の風物詩、夏休みが始まる、その前日に当たる終業式が行われていた。本日は記録的猛暑ですとテレビアナウンサーが気象予報士から渡されたカンペを元に喋っていたのを少年は思い出す。それでなくとも夏本番という時期は実に暑い。ただ佇んでいるだけでも全身から汗が吹き出る程に暑い。
それだというのに学校という物は体育館という建物の中に全校生徒300人余りを押し込め、長々と校長のありがたいお言葉というものを聞かせるという苦行を強いるのだ。まるでお前達は休みで嬉しいだろうが、こっちはまだまだ仕事があるんだぞ、という今日詩人の恨みのように思える。
聞いたところで今後の人生になんら影響を与える事はなく、聞いた話は右から左へと突き抜ける、そんな技術を磨かせる無駄な儀式。冬場の滝打ちの修行の如き苦行、その名は終業式。何のありがたみもない迷惑な行事を早々にボイコットし、呼び止める友人の声を振り切り、少年は屋上に逃げた。家に帰ろうとしない辺りはまだ少し可愛気があった。
隠れた場所にあり、日中の殆どが日影であり、周りは水の入ったタンクのお陰で涼しい。ついでに高い位置なので風が吹くと気持ち良いのだ。少年のお気に入り昼寝をポイントである。もっとも、たまに先客が居たりするので、隠れた名所というわけではない。
明日から一ヶ月と少しという長い連休に入るにあたって、少年のスケジュールは見事なまでに真っ白だ。一切の予定はなく、昼までたっぷり寝て、昼からゲームでもやって過ごそうか、という程度には考えている。青春ならしい輝き弾ける汗を迸らせる事はなく、甘酸っぱい恋の話しもない。あるとすれば友人同士でお金を出し合って購入したエッチな本やDVDを親の存在を気にする事なく楽しめる事くらいの予定しかない。
欠伸を抑えることなく盛大に口を開きながら少年は校舎に戻る。流石に鞄を教室に残したまま帰る、という愚行は犯さない。去年はそれで痛い目を見たのだから、同じ鉄は二度も踏まない、と少年の足は教室へと向かう。
校舎は三階建てで、少年の教室は二階にある。屋上からの階段を下りて三階、二階へと移動し、廊下に出る。
「――――――ぁ?」
少年は違和感を覚えて視線を上げる。何か、言い表せないような、不思議な違和感を覚えたのだ。何がと聞かれても、本当にそれが違和感であったのかただの勘違いであったのかの判断が付かない。ただ、何かを自分の本能が危険を促した。そんな思いだけがあった。
気のせいかそうではないのか、少年は確かめるために辺りに視線を走らせる。流石に終業式が終わって二時間程も経っていれば残っている学生は部活をしている程度で、校舎に残っているような学生はいない。別棟には文科系の部活があるのでそちらには生徒がいるかもしれないが、本校舎であるこちらには普段からして部活が始まれば教師以外の人影はなくなる。
普段の喧騒が嘘のように静まりかえった校舎の中で、少年は胸がざわつく思いに自然と警戒心を抱く。夏の校舎内だというのに、思わず身震いしてしまう程に冷えた空気が汗で湿った肌を撫でていく。先ほどまでは気のせいかどうかという曖昧な感覚ではなく、はっきりとした違和感を覚え始めた。
気づけば耳鳴りがしている。ごくりと固唾を飲み込む音が大音量に響いたかのような錯覚がする。目に見えない何かが段々と近づいてくる、そんな気配に少年は身構えた。
流石に真っ昼間から幽霊の類はないと思うがと、少年は自分を安心させるように呟く。とはいえ、そう言った話題に事欠かないのが学校というものだ。誰一人居ないという状況が少年に必要以上の警戒心を与えていた。
そしてそれは唐突に現れる。赤い、禍々しい光りが放たれたかと思うと、少年は体に走る激痛に顔を歪め、嗚咽を漏らして廊下に倒れる。力なく開いた口からは止め処なく赤い血が溢れて廊下の床に広がった。全身が不規則に痙攣し始める。
「な……んだ、これ……がっ、ぐ……ごっほごほっ!!」
白い夏服が血で赤く染まっていく。少年の胸元から大量の血液が溢れているのだ。ゆっくりと視線を下ろせば、制服は破れ、胸の部分の肉がごっそりと抉られている。それが歪で、少年は上手く思考が纏まらない。
例えば、獣等に抉られた場合、そこは歯型なり爪痕なりがしっかりと残り、患部がぐちゃぐちゃになっているはずなのだ。しかし、少年のそこは綺麗に抉り取られている。例えるならクッキーを作る際に型を使ってくり貫くような、そんな形だった。
溢れる血で染まっているのではっきりとは分からないが、正方形の形をしているようだった。
訳が分からず、ふと持ち上げた視線が空中に浮かぶ真っ赤な四角の物体を捉える。正方形の面だけで作られた手の平サイズの物体。表面は真っ赤にそまり、禍々しい赤色の光りを放っている。表面に滴る赤色の液体は少年の血であった。
助けを呼ぼうにも、喉の奥から溢れてくる大量の血液のせいで言葉にならない。逃げようにも痛みと大量の出血から手足の感覚は既にない。段々と薄れ行く意識の中で少年は訳が分からないまま、四角の物体に向かって手を伸ばす。
すると、まるでそれに呼応するかのように、四角い物体はフッと姿を消し、少年の抉れた胸へと収まった。まるでそうあつらえたかのように、四角い物体はピッタリと少年の体に収まる。赤い光りが胸から蚯蚓腫れのように無数に、無作為に伸びて浸食する。
「がっ! な……ぐっ、あ、がぁぁっ!!」
突然走った激痛に少年は潰れた悲鳴を漏らした。ドクン、ドクンと四角い物体が脈動するたびに全身に激痛と熱が走るのだ。四角い物体が段々と体の中に溶け込んでいくのが、少年には感覚で分かった。自分の体と一つになろうとしているのだと、そう確信めいた思いが芽生える。まさにその通り、四角い物体が体の中へと入っていくにつれ、抉られた胸が修復され始めたのだ。
しかし、完全に傷が癒えるのを待つことなく、少年の意識は闇へと落ちた。
◇
「――――――ぁ?」
何かの物音で少年は強引に意識を覚醒させられ、目を覚ました。外部からの干渉だった為、思考は霞みによって上手く繋がらない。体を持ち上げようと力を入れると、ズキリとした痛みが走って顔をしかめる。頭の霞は直ぐに霧散し、意識が強引に覚醒させられる。それと同時に、先ほどの記憶がフラッシュバックのように蘇ってきた。
痛む体に鞭打って上体を持ち上げると、慌ててボタンを外して体を見た。鈍い痛みは残るものの、そこには怪我等一切なく真紅の四角い物体は姿を消していた。あれは夢だったのだろうかと思う少年だったが、空に浮かぶものを見て仰天した。
先ほどまで昼間であった筈なのに、今見上げる空は闇色。おまけに空に浮かぶ月は真っ赤に染まっている。目の錯覚や大気や角度の加減ではない。血のように赤く染まっているのだ。体の奥に残る痛みと、空に浮かぶ真紅の月。少年はまるで狐につままれたような思いでそれを見て呆けた。
「――シェスセリア様、ご無事ですかっ!?」
悲鳴にも似た叫び声に少年は驚いて振り向いた。見れば上着だけを羽織った肌色を多分に露出した少女の姿がある。その声に目を覚ましたのか、重なり合っていた人山の一番上に居た人物が頭を押さえながら身を起こした。少年には見慣れない、白と黒を基調とし、フリルの付いたエプロンを纏った如何にもメイドです、という格好をしている。
「いったたた……ぁ、シェスセリア様!?」
水色の髪の毛を外に跳ねさせたメイドが飛び退くと、その下には更に二人のメイドが居た。赤色の髪をツインテールにした小柄な少女と深い翠色をした髪の毛を腰ほどまでに伸ばしたこちらも小柄なメイドが慌てて立ち上がる。
その更に下、赤茶けた髪の毛に煤や埃でアクセントを付けた作業服の少女が現れる。膝と両手を付き、自分の体で作った空洞の中に一人の女性が横たわっていた。作業服の少女はその人物の体を支えながら持ち上げた。裸体の少女やメイド達、作業服の少女とは違う、明らかな異彩、高貴さを窺わせる雰囲気を纏った女性が長い睫を震わせながらゆっくりとした動作で瞼を持ち上げる。夜の闇の中でも鮮やかと思える程の光沢ある青色をしたドレスと漆のような髪が何とも目を惹く。
「お怪我はありませんか、シェスセリア様!?」
慌てた様子でドレスの美女――シェスセリアに問いかけつつ、体中を調べる上着だけの少女。シェスセリアは小さく頷いてから返した。
「うぅ……えぇ、私は大丈夫です、ジゼル。フィンやサリュー達が守ってくれましたから。――それよりもダークマターはどうなりましたか?」
今まさに爆発に巻き込まれたというのに、青色のドレスを纏う女性、シェスセリアは気にした風もなく、周りに居る少女達に問いかける。すると、全員の視線が少年に向けられた。正確には、シェスセリアの言うダークマターが起こした爆発の中心へと向けた視線であった。ただ、視線が集まった場所に少年が偶然居ただけだが。
巨大な空洞と半壊した建物中、小さなダークマターを探すのは大変だろうと思っていたフィンだが、まさかそこに見知らずな人物が居るとは思っておらず、状況も忘れて思考を停止させた。メイドのサリュー達も、上着だけの少女ジゼルも、同様に目を点にした。
そしてほぼ同時に、
「だ、誰っ!?」
叫んでサリューを初めとしたメイド達は手を広げてシェスセリアの盾となるべく前に立つ。転がっていたレンチを手にしてフィンが構え、裸であるのを忘れているジゼルは徒手空拳で戦う覚悟を決め、立ち上がって構える。
「うわっ!? うわわっ!? ま、まて、あ、怪しくない、怪しくないぞ、俺はっ!?」
善良な一般市民だ、と口にしようとした少年だったが、次ぎの言葉は一瞬で目の前に迫った裸体の少女、ジゼルの放った拳にかき消される。
一切の容赦なく、霞む程の速さで打ち出された正拳だったが少年が慌てて後ろに下がったせいで狙い通りの場所ではなく、胸元へと叩きつけられた。拳が見事打ち付けられた打撃音が盛大に響く。
それを見守っていたフィンやサリュー達は次ぎの瞬間には少年が吹っ飛ぶか、もしくは痛みに悶絶して転げまわるだろうと予想した。ジゼルの身体能力に加え、取っておきがあるのだから、それくらいは容易いという信頼がある。が、しかし、何時の世も思い通りに事が運ぶがない状況がまま存在するものだ。
「――――ッ!? い、っだぁぁいっ!? い、づぅぅ……」
悲鳴とその光景を見て冷静沈着に見えたシェスセリアですら目を見開き、点にして唖然とした。よしんば少年が訓練を受けた軍人であっても、防御もしてない状態で打ち込まれた攻撃には多少のダメージくらいはあるだろうと思っていたのだ。しかし、現実は拳を打ち込んだはずのジゼルが拳を押さえて地面に蹲っている。
一体全体、何が起こったのか、そこにいる全員、ジゼルも含め、さっぱりと理解ができない。そして殴られた少年ですら、意味が分からずに目を瞬かせていた。
「づぅぅ……あ、貴方っ!」
「は、はい!?」
「い、一体何者なのっ! それと、服の中に何を仕込んでいるのっ! 鉄!? 鋼!?」
空の青をそのまま閉じ込めたような天色をした瞳に特大粒の涙を浮かべ、ジゼルは非難の声を矢継ぎ早に少年へと向けて放った。
何者かと問われれば、それは少女達にこそ問いかけたい少年。同時に、服の中に何かを仕込んで身を守らなければならない程に殺伐とした生活を送ってはいないので、少女の非難は少年にしてみれば言いがかりに近い。むしろ殴っておいて文句を垂れるとは何事だ、という思いで少し苛立った。
「べ、別に何も仕込んでない! ほ、ほら、何もないだろ?」
少年が通う学校は白一色、薄手のワイシャツかTシャツで良いということになっている。家に帰ったら直ぐに脱げるようにとワイシャツを好んでいる。上三つのボタンを手早く外し、少年は自らの胸元を露出させて見せた。何も仕込んでいないという証明をし、取敢えずは落ち着いてもらおうと思ったのだ。しかし、それが新たな火種となる。
「こ、黒印!? ど、どういうこと!?」
ジゼルはシェスセリアを守っているフィンに問いかける。多少距離は離れてはいるが、同じものを見たフィンは驚きを隠せない。
「そ、そんな……黒印はダークマターに選ばれた人物にしか現れない筈……」
「――フィン、彼の胸元にあるもの……あれはダークマターではありませんか?」
フィンの呟きに答えるようにシェスセリアが指をさす。それを受けて、流石に異変に気づいた少年は自分の胸元を見た。
紋様、と言えばいいのだろうか。良くファンタジー物の作品で登場する、線でもって華や星等の模様を描くような紋様。黒一色で描かれたそれが、少年の胸にあった。刺青とは違う、初めからそうであったような、まさに模様。そしてその中央には菱形の模様も描かれている。驚き慌て、少年は紋様に手を触れる。
「な、何だこりゃあぁぁっ!? ぇ、えぇ!? な、なんだこれっ!? 刺青なんて入れた覚えないぞ? うえぇ!?」
手で触れれば肌とは違う感触。一言で言えば、冷たかった。紋様が描かれるそこだけが、まるで違う物に変異したかのように、感触も人肌の温かみもない。
少年の手がふと菱形の部分に触れる。その瞬間、ドクンと何かが脈打つのを少年は感じた。自分の体の中で、自分の体の物ではない何かが存在を現したかのような不快感がこみ上げる。脈動はどんどんと強くなり、徐々に紋様が中心から赤く染まり始める。
「ぐぁ……がっ、ぐぅぅ……あぁっ!」
体の奥底から湧き上がってくるマグマのような熱に少年は苦しみ、悶えた。体の中に焼きごてを入れられたかのように全身が熱く、悲鳴を上げる。まるで長風呂の後のように体が朱に染まり、湯気を立ち上がらせた。少年にはその熱、痛みが自分の体を作り変えようとしているように思えた。
徐々に体の力と感覚が失われる。全身が鉄のように硬く変わっていくような錯覚に少年は恐怖を覚えた。訳の分からない状況で、見たこともない赤い月の下で、自分は死ぬのだろうか、と。
しかし、それを否定するように、失われていた感覚が徐々に戻り始め、熱も引き始めた。数秒もすると、先ほどまでの熱と痛みはどこへやら。まるでそんな事は無かったを言わんばかりに元の調子へと戻る。
「――ぁ、あの……だ、大丈夫? 急に苦しみだしたけど……」
行き成り殴っておいて今更それか、と少年は思ったがあえて口にはしなかった。自分でも不思議な程に、頭が冴え渡るような感覚に少年は内心で驚く。もしかしたら余りにも意外な事がありすぎて逆に冷静になってしまったのかとも思うが、今はどうでも良かった。
ここがどこで、何で自分がそこに居るのか、少年にはさっぱりと分からない。
「……本当に大丈夫? なんだか顔色が優れないようだけど?」
「大丈夫……だと思う、うん。少なくとも、気持ち悪いとかはないから……それよりも――」
痛みが引いた事で漸く体の自由が戻り、少年は地面に胡坐をかくようにして座りなおした。ここはどこなのだろうかと少年が問いかけようとすると、それを遮るように人影がジゼルの後ろから現れた。片手にレンチを持ち、たわわな乳房がサイズの合わないシャツを押し上げている。フィンの姿に一瞬状況も忘れて少年は思わず見入ってしまった。改めて見てみれば、目の前で痛む手を押さえているジゼルも、少年にとっては魅入ってしまうほどに魅力的な体を惜しげもなく晒している。
「貴方の胸にあるそれ……ダークマターね」
豊かな谷間を惜しげもなく見せ付けるフィンは淡々とした声でそう告げた。少年は始めて聞く単語に首を捻る。それとは反対に、フィンよりも更に過激な、隠そうともしない裸体姿のままのジゼルが驚いて見せた。
「ちょ、ちょっと間ってフィン!? ダークマターって人に融合しちゃうものなの!?」
「――良く分からない物質だから、ないとは言えないと思うわ。現に、彼の胸にあるそれはダークマター。これがそれを証明しているもの」
サッとフィンはもう片方の手に持っていた物体を少年の胸に向けた。それを覗き込むジゼル。状況の掴めない少年はたっぷんと大きく揺れるジゼルの胸に視線を釘付けにしていた。青春真っ盛りな年毎の少年ともなれば、不鮮明な状況の中であっても、ついつい見てしまう悲しい時期なのだ。
「……貴方、それ痛いとか、何かないの?」
訝しむ様な、怪しむような、警戒するような、複雑な視線を少年に向けるジゼル。改めてそう言われ、少年は自分の体を確認してみる。
手足は二本ずつ付いているし、両の目は見える。耳もあるし鼻もある。喋っているのだから口もある。味覚があるかは分からなが、何度か体を動かせば触覚があり、抓ってみれば痛覚もある。先ほど同じように胸元の紋様に触れてみたが、反応はない。結果、特にこれと言って異常は見つからず、少年はジゼル達に向かって頷いた。
「特にないな。若干体の調子が良いような気がするけど、まぁそれくらいかな? ――で、そのダークマターってな――」
またしても少年の言葉を遮るように、今度は大音量の爆発音と、夜空を昼間のように照らす光り、爆風が僅かな余波となって襲ってきた。
「ちょ、な、なんだよ今度は!? 爆発って、ここは一体どこなんだよ、おい!」
「――っ! お、大声出さないでよ! 今、この国は戦争してるんだから、爆発の一つや二つ、五十や百くらい起きるわよ!」
「ご、五十とか百って……マジかよ」
天を仰ぐように少年は呆れた。驚いたとか怖くなったとかではなく、ただ単純に、こんな滅茶苦茶な状況にむしろ呆れてしまったのだ。B級映画だってもっと上手い具合に話を繋げるぞ、と呟くが誰の耳にも届かない。
「し、失礼しますっ! 女王陛下! 最終防衛ラインに就いていた第一機甲大隊が突破されましたっ!!」
その場に居た全員が、突然現れた泥と煤塗れの兵士が放った言葉に絶句する。最悪の事態だと絶望し、脱力する者も中には居た。唯一、さっぱり状況が理解できていない少年だけは、呆けたような表情を浮かべていた。
「へ、陛下……この国は……もう、終わりですっ!」
絶望に項垂れる騎士。被っていた兜が落ち、中からクリーム色をした髪の毛を肩口で揃えた女性の顔が現れる。
それを聞いて、少年は漸く現状を少し理解した。自分がどこの国に居て、どうしてここに居るのかはまだ分からないが、少なくとも今居る国がどこかの国と戦争していて、今まさに敗北を喫しようとしているのだということが今の会話と先ほどの爆発で分かった。
分かった所でだたの善良な一般人の学生でしかない少年にどうこうできる問題ではないので、悲観も絶望もなかった。ただ、これからどうしようか、という漠然とした思いだけがあった。
「……まだです。まだ、私達には希望が残されています」
スッと顔を上げた女王シェスセリアは静かにそう言い放った。強がりや虚言ではない、そう思わせるほどの強い意思がシェスセリアの瞳には宿っていた。それを見て聞き、先ほどまで悲壮を募らせていた面々に力が戻り始める。シェスセリアは優雅な動きで少年の下へとやってくるとふわっと柔らかい笑みを浮かべる。
「初めまして。私はこのトラロトリアを治めるシェスセリア・ウェフティナ・トラロトリアと申します。貴方のお名前を窺ってもよろしいですか?」
「うぇ? お、俺? え、えっと……や、『八雲神御』……です」
思わず名乗ってしまった少年――八雲神御。名を聞いてシェスセリアは唇に指を当てて虚空を見上げる。その仕草がなんとも可愛く、相手が女王という立場にある事も忘れて胸を熱くしてしまった。
「ぇっと……シンゴ、さん……でよろしいですか? 突然で申し訳ないのですが、貴方の力で私達に貸しては貰えませんか? もちろん、行き成りの申し出なのは重々に承知しています。ですが……今の私達には貴方に縋るしか道がないのです」
「………………は? ぇ……は? あ、あの……じょ、女王陛下? あの、頼ってもらえるのは嬉しいんだけ、じゃない、ですけど。俺、じゃない……僕? はただの一般人だ……ですよ?」
「シェスセリアで構いませんよ、シンゴさん。それと、言葉遣いも普段通りで構いません。――貴方がどのような方なのかは正直私には分かりませんし、今それを聞いている時間がありません。ただ、貴方のその胸――いえ、体にあるのは我が国の至宝の一つ、可能性物質なのです」
また出てきた謎の単語に神御は困惑の思いを抱く。自分の体に埋まっているこれが状況を打開させる凄いお宝ならいつでも返すから持っていてくれと言いたいくらいだった。もっとも、どう見ても同化しているので、取り出すには手術なりをするしかない。取り出している時間がシェスセリア達にないのは何となく分かっていた。
「ダークマターは神代の頃に作られたと言われている物で、マナを注ぎ込む事で未知の物質を作る力があるのです。私達が求めているのはそちらではなく、物質を生み出す際に生まれるエネルギーを持ってして、これを動かそうとしているんです」
シェスセリアに補足するようにフィンが続いてそう言い、格納庫の一角を指差す。視線をそちらに向け、神御は仰天した。
「なんだ……これ。巨人、か?」
そこには黒い巨人が膝を付いて鎮座していた。炭化した人間のようにやせ細っており、威圧感はないが、それでも見上げる程の人型には驚きがあった。
「魔科学戦闘用機動兵器、通称MAVRSと言います。これはその内部可動骨格だけの状態です」
「ろ、ロボット……なのか、これ? しかも、動く……?」
「はい、動きます。――と言っても前提となるダークマターがないので、今はただのMAVRSでしかありませんが」
ただの、と言われても神御には他のMAVRSの情報は持っていないので、動く巨大ロボット、というだけで状況も忘れ、胸が高鳴るのを感じた。男という生き物は、大概一度はロボットに憧れるものなのだ。神御も、その例に漏れず、人型の巨大ロボは大好きである。暇さえあればその手のゲームばかりやっているくらいに。
「……つまり、そのダークマター? を持ってる俺がこれに乗って戦えと……そう言う事?」
「……この国の人間ではない貴方にこんな事をお願いするのは大変心苦しい思いなのですが、今の私達に他の道はないのです。ダークマターによってこのMAVRSを稼動させ、帝国を追い払うほかに、私達に明日はありません……」
神御は頭を掻きつつ嘆息する。今のシェスセリア達は確かに明日の命も危うい状況にあるのだろう。先ほどの爆発はかなり近く、伝令兵からの報告を聞いて周りが見せた反応に芝居がかった部分がなかったように神御は思えた。
とは言え、ただの一般人でしかない神御に行き成り巨大ロボットを動かして軍隊を追い返せ、と言われても土台無理な話だ。せめて軍人並みに戦いの訓練を受けているのならまだやりようがあるのだろうし、こういう場合の覚悟の決め方も心得ているのだろう。が、命のやり取りとは無縁の生活で過ごしてきた神御には素直に頷ける自信がない。
神御が悩んでいると、また、ドンっと爆発音がして地面が大きく揺れる。遅れて夜空に閃光が走しった。先ほどよりも音と光りが近づいている。トラロトリアを進行する帝国軍が直ぐそこまで来ているという証拠だ。
溜息一つ。神御は周りを見る。誰も何も言わず、何かを求めるような視線を神御に向けている。無理強いはしたくないと口で言いつつも、縋るような、懇願の色をした視線を向ける。それを見た神御は「卑怯だろ」と内心で叫びながら天を仰いだ。
目の前で困っている人を見捨てて逃げるほど、神御は非情な人間ではない。かと言って、出来もしない事を安請け合いするような愚か者でもない。しかし、この場において神御が選ぶことができる道は二つしかない。MAVRSと呼ばれるロボットに乗って戦うか、彼女達の期待を無視してさっさと逃げるかのどちらかだ。
帝国軍が敗戦国にどんな事をするのか、神御には分からない。分からないが、少なくとも一般市民だかと言って許す事はしないだろう。よしんば捕虜として捕まえられるか、植民地の奴隷という可能性もなくはないが、はっきり言ってどちらも御免被る思いが神御にはあった。ここがどこなのかも分からない以上、何の情報もなく逃げ回るのは自殺行為であり、逃げるという選択肢を選んで得られる結果に良い物は何一つ無いように思える。
であればMAVRSというロボットに乗り込んで帝国軍と戦うしかないのだが、逃げるという選択肢よりも早く、戦死という嫌な結果を得てしまいそうではあった。逃げても死に、戦っても死ぬ。もし死ぬという結果が同じであるのなら、どちらを選んだ方が自分は納得して死ねるだろうかと神御は真剣に悩んだ。悩んだ結果、神御は自分で選んだにも関わらず、そんな選択を迫った現実に苛立ちを覚えた。
「あぁ、クソっ! 行き成りこんな訳分かんねぇ状況にぶち込まれるとか、恨むぞ神様っ! ――ふぅっ! で、あれの動かし方くらいは教えてもらえるんだよな?」
荒々しく嘆息し、ぶっきらぼうに言って巨人を指差した。その言葉の意味が一瞬分からず、シェスセリアは小さく声を漏らして驚いた。神御の出した答えが彼女にとって意外であったようだ。どこからどう見ても国の人間ではない神御が、幾ら頼んだからと言って助けてくれるとは思っていなかったのだ。助けて欲しいと懇願したのも、殆どダメ元で言ってみただけという真実があるのだが、それをシェスセリアが口にする事はない。
「い、いいのですか? ここは貴方の国ではないのですよ?」
「まぁそうだけど。戦っても逃げても、あんまその先の運命は変わらない気がするし……それに――」
その先に続く言葉を神御は濁した。イメージの中ではイケメン俳優の名演技の如く爽やかに言ってのけるつもりだったのだ。しかし、現実は辛い物で、喉まで出かかった言葉を神御は口にする事は出来なかった。
言生まれてこの方、女性にここまで強く頼られた試しのない少年、八雲神御。その始めてが思わず息を呑む程の美人であったのなら、命を懸けて戦う方を選んでも良いかな、とそう思ったのだ。死ぬなら愛する人の傍でとはよく言ったもので、どうせ死ぬなら美人の願い事を選ぶのも悪くはない、と神御は内心で苦笑いを浮かべた。
神御が言いよどんだ先を問おうとしたシェスセリアだったが、また爆発音が響き渡り、遮られた。
「結構近そうだな……あんまりゆっくりもしてられないか。――って訳だ。時間がないし、さっさと教えてくれ」
「ありがとうございます。このお礼は何れ――フィン」
「はい、シェスセリア様。――皆聞いて! 今からこれを稼動させるわよ! 知っての通り、私達に残された時間は殆どない。だから、その時間を無駄にしないよう、各自迅速かつ的確に動いて。――先ずは地下のジェネレーターを引っ張り上げて取り付ける作業からよ。ジゼル、悪いんだけど、操縦の仕方は貴方が教えてあげてもらっていい?」
「えぇ、任せておいて。それじゃあシンゴ、時間がないから上に行きながら教えるわ」
「おぅ。まぁ、覚えられるかどうかは微妙だけど……」
「大丈夫よ。覚えられなくて動かせなかったら、サクっと殺されちゃうだけだから」
思わず見とれてしまう程に可愛らしい笑顔を浮かべながらも、ジゼルの言葉は何とも物騒だ。「うへぇ」と神御は困惑の声を漏らす。しかし、ジゼルの言っている事は事実なので、神御は盛大な溜息を付く。何度確認し直しても残酷な現実しかないのなら、神御は別の事に意識を向ける事にした。
「……それにしても――」
ジゼルの後を追いながら、神御は目の前を行く彼女の姿を見て疑問の念を抱く。一体何時になったら彼女は体を隠すのだろうかと。