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6.


「俺はお前の彼女でも嫁でもねーぞ」

 夕方――沢山の食材の入った袋を両手に持って現れた修史は、湊の顔を見るなりそう言った。

 摩天楼とは言わないが、それなりに高層階の湊の自宅からは、朱色から紫を帯びた闇に飲まれる外の景色が壮観だった。しかし玄関先でそんなことを言った修史と、それを言われた湊には勿論見えるはずはない。

「今度店に行ったら高い酒入れるから勘弁しろよ」

 不機嫌そうな修史に湊はそんなことを言い招き入れる。独り身の湊の家の中は静まり返っている。まるで誰もいないかのように。修史は首をかしげて湊の後ろを覗き込むようにして声を潜めた。

「で、幼女はどこだ?」

「は? てか幼女じゃねーし」

「だってぴちぴちの16なんだろ? 立派な幼女じゃん」

「いやいや、幼女って小学校くらいなんじゃねーの? いかがわしい言い方すんなよ」

 などと修史に合わせてなぜか小声になった湊が言い返し、二人はこそこそと廊下を歩きリビングをドアから覗いた――湊までそんなことをする必要などまるでないのだが。大の男が二人揃ってひょこっとドア越しに見ると、アイネは膝を抱えた状態でソファから帳の下りていく様を眺めていた。横顔は穏やかに見える。通った鼻筋に長い睫毛が正面から見るよりも大人びて見せる。

「へー、かわいいじゃん」

 明るい色をした前髪の間からアイネをみた修史は、思わずのように言葉を零した。が、それが湊には意外だった。可愛いと、自分が抱かなかった感想を言った修史を珍しいモノを見るようにまじまじと見返した。

「何? 俺に惚れた?」

「…………は?」

 視線をアイネに置いたまま、修史は口許ににやりと笑みを浮かべて湊に問う。何を言われたのか全く分からない湊は、当たり前だがキョトンとした様子で言葉をつまらせた。

 若いころからとにかく陽気で人見知りしない修史は見た目も悪くなく、それどころか良かったので確かにモテたけど、だからってその言い草はなんだと、湊がやっと意味を理解して眉間に皺を刻む。

「そんなわけあったらお前どーすんだよ」

「そりゃー、丁重にお断りするだろな」

 軽やかに笑い声を立てて、湊の横をすり抜けるように修史はリビングへと入っていく。重そうな食材の入った袋を持ったまま、何の緊張感もなく。アイネのことを考えて先に紹介しようと思っていた湊は、それに驚いて慌てて修史を止めようとしたが既に遅く、声と物音でアイネの視線が弾かれたようにこちらに向いた。

「よー、アイネ」

 目を丸くしてこちらを見たアイネに向かって、修史が極気軽に挨拶をした。まるで久しぶりに会った友人にでも声をかけた感じだが、それにアイネが驚かないはずもなく、腕を解き一瞬で立ち上がると緊張した顔で身構えた。

 こう言ってはなんだが、修史は湊よりも背が低いとは言え、世間一般では低くはない。もともと運動が好きで今でも体格は充分よく、会社員でもないので髪の色はほぼ金色に近いし派手だ。顔も柔和とはいえない雰囲気なので、初対面では怖いといわれることが多い。そんな相手がいきなり現れればアイネでなくても驚くのは常だった。なので湊は自分からアイネに、言葉は分からなくても説明してから修史に会ってもらおうと思っていたのに、これではまるで計画が破綻している。軽く頭痛を覚えながら、もうこれは仕方ないと諦めてアイネに向かって声をかけた。

「コイツ修史って言うんだ。……て、俺の名前覚えてるか? 俺は湊」

 自己紹介したっけかなどと改めて考え、湊は自分を示して名前を言い、修史の紹介も一応済ませる。黒髪の間から覗くアイネの大きな瞳は湊と修史を交互に見ながら、口許は何かを言おうとしているのか時折動くだけだった。また逃げ出されるかもしれないと覚悟をしていたが、意外にもアイネがその場から動くことはなかった。視線の中には戸惑いがあり、緊張もなくなることはない。しかし修史が思いのほかアイネには問題がなかったのだろうか。何が良かったのかは、そこは湊には理解できなかった。

 両手に持っていた袋をその場に置いた修史は、湊からすればあろうことかアイネに近づいた。その行動にビクッと身体を強張らせた少女にかまわず、大きな手でその黒髪を撫でて笑う。

「遠いとこまで連れてこられて大変だったなぁ。でもここなら安全だし、ゆっくりすればいい」

 にこにこと、見た目によらず愛嬌のある笑顔でそんなことを言った。アイネは勿論何を言われているのか分からないだろうし、いきなり頭を撫でられることに恐怖にも似た感情があったかのかもしれない。肩をすくめて身を硬くしているアイネの表情は俯きがちだし、修史が阻むようにして立っているので、湊からは見えない。ただそんな光景を、湊は呆然と見ているだけしかなかった。自分が近づくことさえできなかったアイネに、こうも簡単に近づき頭まで撫でてしまえる古い友人の大胆さが、ある意味少しばかり羨ましかったりした。

「さー。メシつくるかー」

 アイネの頭を撫でていた手を下ろして修史はそう言うと、また袋を抱えて歩き出す。リビングから続いてあるキッチンに向かいながら歌を口ずさむ修史に、アイネの視線が注がれているが、それは敵意だとか怖いなどの感情は見えなかった。無表情で何を感じているのかは湊には分からなかったが、負の感情を見なかっただけでも、湊は心底安堵して息を吐いた。

 アイネはそのまままたソファで膝を抱えてしまったので、ひとまずそのまま置いておき、湊もキッチンに歩き出す。アイランドキッチンの広々としたそこには、あまり使いもしないのに買ってしまう湊のおかげで最新家電が並ぶ。そして機能的で広いので、男二人が立っていても充分にまだ余裕があった。作業台に山のような食材を広げながら、修史は小さく笑って湊を見た。

「お前の方が全然緊張してんじゃねーか」

「え?」

「アイネよりお前が緊張してるだろってこと」

 緊張といわれて、しないほうが無理だろうと言いたかった。しかし修史が更に言葉を重ねてくる。

「アイネも緊張してるけどさ、お前の緊張が伝わってんじゃねーのか。確かに言葉が通じねーのはイタイけど、その分身振り手振りで乗り切るしかねーし、それはお前の役目だろ」

 言われて見ればもっともなことだとは思う。修史の言葉を自分の中で溶かし込むように何度も呟き、しかし自分のこの内気とはまではいかないものの、人付き合いの苦手な性分が邪魔をする。改めて、母親の預かり物であるアイネに対して緊張してしまうな情けない自分も感じたりして、ますますどうすればいいのか分からなくなりそうだった。

 食材を出し終えてそれぞれに献立を確認した修史が、そんな湊を見て呆れたようにため息をついた。作業台の上には肉や野菜に果物。一体何日分だと思うほどのものがあり、他にも調味料も幾つかあった。

 それは昼の間に連絡した湊のおかげだった。料理が苦手というか、まず作ったことがないに等しい湊が修史に作りに来てくれと依頼したのだが、正直ここまで食材やら何やらを買い込んでくるとは湊も思っていなかった。

 修史は今の店を本格的に開くまでに色々な職業を転々としてきた。飲食に夜の仕事、なにやら探偵まがいのことや肉体労働。何においても、できる年齢があるというのが修史の考え方で、若いうちに思いつくことをしていたいと、湊がある意味地味に学生をしているときから働いてきた。

 軽い印象を受ける修史だが、そう言った面では湊よりも努力も苦労もしていることは、素直に尊敬している。

 不器用そうな大きな手で、修史は手際よく調理をしていく。包丁なんて握ったことがないだろうと思うほどなのに、繊細にも思えるほど丁寧だ。それをなんとなく、傍らに立ちながらミネラルウォーターを口に運び湊は見ていた。手伝おうかとも思ったが、それは修史の方から断られた。逆に邪魔だといわれてしまえば手も足も出ない。

 ちらりとアイネに視線を泳がせながら、修史の手許にも視線を落とす。器用に同時に調理を進めていく修史は、時々ビールを喉に流し込みながら、ふと思い出したように口を開いた。

「そういえばさ、俺でなくてもよかったんじゃないのか? 真奈美ちゃんとか?」

 いきなり飛び出した名前に、危うくミネラルウォーターを吹き出しそうになってしまった。正直存在すら思考の外にあったからだ。こんなことを知られてしまえばまた憤慨されてしまうことは必至だろう。気まずい思いを水で流し込んで、湊は不機嫌そうに眉根を寄せた。

「なんでここで真奈美が出てくるんだよ」

「えー、だって付き合ってんだろ?」

 軽く笑いながら修史は菜ばしを湊に向ける。それがからかっていることを甚だしく示しているものだから、湊の顔が一層不機嫌さを増していく。表情のない顔でも不機嫌な様子だけはよく表す。

「付き合ってるつもりはない」

 きっぱりと言い切った湊に、修史が意外そうに眉を上げた。湊自身はその反応自体はもう慣れている。職場でも知っている人からみれば付き合っているのだと思われると何度も言われてきた。

「なんなの? もしかして、『それ』だけの関係?」

「お前それ以上言ってみろ。マジで怒るぞ」

 修史の言いたいことがわかり、湊はひょいと足を上げて修史の下腿当たりを軽く蹴った。大げさに痛がって笑っていた修史が、それでも料理を一品一品仕上げていったが、ふとまた湊に問いかけた。

「ていうか、これってまずくねーか?」

「……何が?」

 ダイニングテーブルに増えていく、出来上がった料理を見ていた湊が視線を持っていくと、修史は真面目な表情でタバコに火をつけようとしていた。それを口に咥えたままビールを片手に続ける。アイネはその間彫像のように身動ぎすらしないでソファに座ったままだ。

「真奈美ちゃん、アイネのこと知ったらやきもち焼くどころじゃないと思うけど」

「やきもち? なんで?」 

 全く意味が分からない湊が首をかしげると、修史が呆れたため息を深くつき、湯気を立てるスープを皿に移しながら言い返した。

「あほか。いくら事情があっても見知らぬオンナノコと大好きな湊が一緒に暮らすなんて、耐えられるわけないだろ。真奈美ちゃんの性格からしてさ、おまえも想像は簡単なんじゃね?」

「あ、なるほど」

 あっさりと湊は納得できた。元々気性が穏やかでない真奈美のことだから、アイネと一緒に暮らし始めたなんてことを伝えたら大問題にするだろう。決して付き合っているとは思っていないので湊自身は何も思わないけれど、休みに入る前の捨て台詞も考えると、真奈美はそうとは思っていないようだと思う。面倒なことが増えてしまったことに、やっと気付いた湊は脱力する身体を冷蔵庫に凭れかけさせた。背の高い湊でも、大型の冷蔵庫はびくともしない。背中にひんやりとしたドアの感触を感じながら、アイネへと視線を流した。

 どう見ても子供だろう。世間の16歳がどんなものなのか、周りにいないので正直なところ分からないが化粧気のない顔も、シンプルな服も、黒髪も、どう見ても子供っぽい。いくら真奈美でもまさかこんな子供にやきもちを焼くなんてと思わないわけでもないけど、ここは一つ黙っておくのがいいと、修史の言葉で湊は決断した。

「ほれ、できたぞー。アイネー?」

 そんなことを話しているうちにテーブルには、修史が作った料理が所狭しと並んでいた。呼ばれたアイネは少し躊躇うようなそぶりを見せたが、ここが少しづつ安全な場所だと感じているのか、黙って近づいてくる。相変わらず歩くときに足音の一つもしない。テーブルのそばに立ったアイネを大人二人が見つめていると、不思議そうに瞳が持ち上がり、湊に結ばれる。大きな潤みを帯びた黒い瞳の中には、昨日よりも、さきほどよりも穏やかな色合いが見て取れた。その色に、湊のなかの何かもすとんと落ち着くのを感じる。少女との距離がほんの少し、楽になったような気がした。

 柔らかな照明に照らされた部屋の中で、食欲を刺激する香りがする。起きてからパンと水分しか摂っていなかった湊もそうであるが、アイネも空腹なのだろう。料理をじっと見つめる双眸が妙になんとなく食事を目の前のした猫のようだと思った。

 修史が作ってくれたのはアイネの味覚が分からないので、ひとまず洋食に和食、それから中華料理だった。家庭で作られるようなメニューばかりだが、それすら作らない湊からすれば大層だった。炊き立てのご飯に味噌汁、焼き魚に肉じゃが。カレーにシチューと肉料理と魚料理が一品づつに、酢豚に餃子などと、どこか外食チェーン店の定食にでも出てきそうな組み合わせもあったが、どれも料理が得意な修史が作れば味は間違いないはずだ。

「これだけあればだいぶ持つだろ? 冷凍なり何なりして、食べる分だけあっためればいいし、アイネの好みもそのうち分かるだろーしな」

 サラダのトマトをつまみ食いしながら、修史は気軽な様子で笑った。それからアイネが座る椅子をひいたやったり、飲み物を注いでやったりしてかいがいしく世話をする友人と、おとなしく世話をされている少女を眺めながら、湊は昨日からろくにつけなかった静かな、安心を滲ませた呼吸を繰り返した。

 やっぱ緊張してんのは俺の方なのか。言われた言葉を何度も繰り返しながら、苦笑してしまう自分を止められなかった。大きな窓の外には、すっかり闇にまどろんだ夜空が広がっていた。

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