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5.

 ひとまず、寝室のドアを開けたまま、湊は一人リビングで煙草をくゆらせていた。陽射しがふんだんに入るリビングは明るく、伸びるに任せた湊の髪が柔らかく陽光を纏う。酒の抜けきらない身体の重さをソファに預け、肺の中に取り込んだ紫煙を吐き出した。

 リビングから寝室へ向かうドアは開けている。しかし出てくる気配はなかった。全くの他人であり言語も違う少女は今何をしているのか、湊には見当もつかない。

 先ほど、パソコンから夏子のメールを確認した。アイネのことについて簡単ではあったが書いてあり、それによると、およそ文明と言われているものとは無縁の生活をしていたようだと理解した。

 少数民族で、なおかつ未開の土地といってもおかしくない地域で育ったアイネを、たまたまそこを調査していた外国の研究チームが見つけた。肌の色も顔の造作もそこに生きている民族と全く違う。それで話を聞くと不運な事件の生き残りだと判明し、施設へと移したという。小さな偶然がアイネの環境を大きく変えてしまったらしい。

 そこからすぐ夏子が施設がある地域に赴任し、アイネを発見、同じ日本人だと分かり今現在に至るのかと、かなりはしょってはいるが、今更ながらに湊はため息を落とした。

「トイレの使い方は覚えています」

 などと、ペットかよと一言つっこんでしまいそうなことを夏子はメールの締めくくりとして使っていた。

「ってことはなんだ……それ以外はできないってことか?」

 嫌な予感しかしない胸元のシャツを掴み、独りごちる。ソファにもたれたまま腕を伸ばし、サイドテーブルの上にある灰皿に短くなった煙草を押し付ける。トイレくらいはしてもらわないと、赤ん坊ならまだしもあの年でそれは困る。しかしそんな心配をしなくてはいけないほどなのかと、脱力感を感じることしかできない夏子のメールを反芻して立ち上がり、湊はそのままキッチンへ向かい冷蔵庫を開け中を覗き込んだ。基本的に外食、主に修史の店に行くことが多いので食材が乏しい。ハムやチーズ、パンにバターくらいの朝食でしか使わないものを確認し、ぱたりと冷蔵庫のドアを閉めた。

「だいたいなに食ってたんだ? まさか虫とか木の実だとかいわねーよな」

 未開の土地なんて想像すらできない。湊の脳裏に浮かぶのは、テレビでしか見たことのないジャングルのようなうっそうと木々の生い茂る風景だった。先行きの安定なんて、しばらくは諦めた方が良さそうだ。そう思い、寝室へと少女を確保することを決めて身体を翻したとき、視界に入ったドアから顔を覗かせているアイネを見つけた。黒髪に日焼けした顔が、明るい陽光の中でやけに幼く見えた。

 しばらく互いが見詰め合ったまま奇妙な沈黙を共有した。どちらが先に動くか、まるで武器こそないが間合いを推し量るような感覚だ。じっと視線を結んだまま、湊はらしくなくまた緊張してしまうのを感じずにはいられなかった。

 アイネはそんな湊を見つめながら、ゆっくりとした動作でリビングへと入ってきた。秋なのに少々薄いような生地のワンピースからのぞく手足はやはり細いが、立っている少女をまじまじと見てみると、身長はそれほど低くはないのかもしれない。手入れをしているとは言いがたい黒髪は乱れ、大きな目が湊同様長い前髪の間から見える。胸の前で両手を、まるで祈るように指を絡めている様子と、その瞳の意志の強さというか、はっきりとした生きている光に、いい年をした大人が射すくめられるように身動きできないでいた。

 ひたりひたりと裸足でアイネは歩く。しかし全くその動作は静かで足音一つしない。磨かれた床にアイネの影がふわりふわりと映り、それを無意識に追いかけててしまっていた湊は、我にかえってアイネに言葉をかけた。

「腹減ってないか? 一緒に、食う?」

 食う、といってもたいしたモノは作れないしそもそも材料がない。こんなことなら少しくらい食料を置いておけばよかったなと思いながら、湊はトースターにパンを入れ、簡単に残っていた野菜でサラダを作り、ダイニングテーブルの上に並べた。

 部屋の真ん中辺りで立っていたアイネはその様子を眺めながら無表情だったが、食べ物であると理解したのか静かにテーブルの傍に近づいてきた。トースターから出した、皿の上にあるパンを見つめている様子がなんとも不思議なものを見るような目つきだったのと、小さな喉がごくりと動いたのを見た湊は思わず小さく笑いを零した。考えてみれば食べ物どころか水分もろくに取ってなかっただろう。少女の身体を気遣えなかったことを後悔しながら、湊は水色のグラスにミルクを注ぎ声をかけた。

「ほら、そこ座って」

 差し出されたミルクの前の椅子に促すと、アイネは少し考えた後そこに腰を下ろした。湊も同じように向かいあっている椅子を引き腰を下ろす。バターをぬったパンをアイネに出し、自分はサラダだけを食べようとコーヒーと一緒に置いている。

「ん? 食べないのか?」

 コーヒーカップを傾け視線をアイネに持っていくと、少女はじっと皿の上に乗ったままのパンを見ている。初めて見るものなのだろうかと思い、湊がカップを置いた手をそのままパンに持っていき半分ほどにちぎって差し出す。

「まずくないと思うぞ。焼いてバターぬっただけだし」

 なんでも器用にある程度はできるが、料理は得意ではない。しかしパンなら焼くだけだしよほど焦げていなければ失敗することもない。

 しかし、これは多少料理を覚える必要にあるのかもしれない。そんなことを考えていると、アイネが小さな手を伸ばしてパンを取った。そのまま鼻に近づけて仔犬のようにくんくんと匂いをかぎ、恐る恐るといった様子で口に運ぶ。

「そんな危ないもんじゃねーよ」

 まるで未知との遭遇だなと、アイネの反応のいちいちが湊にとっては新鮮で面白い。見られているとは全く感じていないのか、アイネはパンをゆっくりと咀嚼し始めた。これほどまでに真剣な顔でパンを食べることもないだろうというほど、柔らかそうな眉間に皺を刻み、アイネは黙々と食べる。味覚の違いも勿論あるだろう。この少女がなにを食べてきたかなんてことは湊には想像することすらできない。

 結婚って、他人同士が暮らすからいろんな違いがありそうだけど、これってそれ以上に違いが出そうな関係だな。

 鎮痛剤を飲んだおかげで、かなり痛みがひいた頭でそんなことを考えていた。

 アイネは特に表情の変化もなく、湊が出した食事を完食した。



 とりあえずは、どこに行くともできないので、二人で家の中で過ごす。

 といってもアイネが話をするわけでもなく、また湊もあまり話すことが得意ではないために沈黙してるし、特にすることもない。

 ソファの上が安心できるのか、アイネはそこで脚を抱きこむようにして殆ど動かない――湊が心配していたトイレ問題は、場所を教えてやると解決した。今現在の一番の難関だっただけに、湊は胸をなでおろした。

 しかしながら広いリビングだとは言え、こうも話ができない状況であると自分の家でも落ち着かない。他人がいるのだから当たり前かもしれないけれど。

 ダイニングテーブルからアイネを眺めて、湊は休暇の利用法を考える。一週間の間でなんとかアイネとコミュニケーションをとる方法を考えなくてはいけない。食事についてもだし、一般的な「湊が思う」生活習慣もだ。子育てならば長い時間をかけて成長していく過程で身につくモノを、どうやって一週間で? 途方もない難題のように思えてならない。

 髪をわしゃわしゃとかきながら、出てくるのは深いため息以外何もなかった。

 それにだ。アイネ自身も何をしていいやら分からないだろう。じっと膝を抱えて動かない姿からでも、まだ充分に緊張している様子が見て取れる。初めての場所で言葉も違う湊は、アイネからすれば敵なのか味方なのかもはっきり分からない。夏子のメールでは、夏子にはなんとか慣れていたという。それでもあまり話すこともなかったらしいが。施設での様子もあまり情報がなかった。せめてアイネが何を好きでどんなことに興味を示すのか分かれば、取っ掛かりができるのかもしれないが……。

「だめだ……なんも浮かばねー」

 臨機応変が得意ではないし、そんな問題でもないような気がする。考えることを諦めて湊は立ち上がり、リビングを出た。アイネはそんな湊を視線だけで確認していた。

 廊下を歩き入った部屋は洗濯機や洗面所のあるスペース。白い壁に、横に何本かのターコイズブルーの線が入った清潔感を感じさせる内装。一人暮らしには大きすぎる最新の洗濯機は、夏のボーナスでなんとなくデザインが気に入って買ったもの。気ままな一人暮らしなので、毎日洗濯するわけでもなく、そして容量の大きさが更にそれに加速をかけている感は否めない。

 仕事中は当然ながら病院が指定している制服着用なので、私服ではない。それに当直もあるから同じ服を着て帰ることもある。正直放射線技師のもらえる金額は高くはない、なので当直があって何ぼだった。そんな中、いくら有休であっても一週間も休むのは厳しいのだ。

「来月ちょっと切り詰めないとなぁ」

 趣味にお金をかけているわけでもなく、家賃があるわけでもないしローンだって愛車くらいだ。しかし老後を考えると散財はできない。堅実な湊の思考は今の時間を楽しむことより先々を常に考える。洗剤を投入して洗濯機から離れ、今度は掃除でも始めようかと思う。一人暮らしには広い家の難点は掃除くらいなものだろうか。普段使っていない部屋、主に母親と父親がたまに帰ってきたら寝室として使う部屋が二部屋あり、湊の寝室にリビング、それにもう一部屋。一部屋も大きいがまず数が多い。廊下の途中にあるフリースペースとして設けられた小部屋から掃除機を引っ張り出して、そのまま稼動させる。掃除自体は嫌いではないので、さくさくと進み、時折コードの長さにあわせてコンセントの抜き差しをしながら場所を変える。

 湊はいつものように廊下から掃除機を連れ立ってリビングへと入った。なんでもない独身男の日常なのだが、今日はそれがいつもとは少し違う展開を見せる。

 ソファを占拠していたアイネが湊を見るなり、ビクッと身体を強張らせて目を見張った。それから小さく悲鳴を漏らすと、立ち上がり充分な厚みのあるソファの背凭れを、ワンピースの裾を翻して華麗に飛び越えていく。その姿はまるで。

「……猫かよ……」

 勿論湊としては一体何がそんなに驚いたのかさっぱりだ。人の顔を見るなりその反応はなんだと言いたいが、しかし自分が引き連れているモノを見て、もしかしてと思い至った。

「まじか……」

 ソファを離れてダイニングテーブルの陰に隠れるようにして座り込んでいるアイネの一部を見つめながら、湊はため息をつく。

「ほうきと塵取りってか? いやないわまじで……」

 広々としたリビングを眺め、アイネがテーブルから目許だけを見せてじっと見つめてくるのを見返して、湊はとりあえず掃除機の電源を落とした。

 適当に部屋の隅に掃除機を置き、仕方がないのでせめて部屋の空気だけでも入れ替えようと大きな窓を開ける。そこからつながっているテラスには、雨の面影もない明るい陽射しが降り注いでいる。高層階なので見晴らしも当然よく、青空の下に広がる町並みがよく見えた。

 湊は素足のままで歩けるところまで出て、二日酔いには少々きついかもしれないほどの陽光を身体に浴び、思わず大きく方の力を抜いた。やはり自分でも気付かないうちに緊張しているようだ。

 なんか、状況はおかしいけど……こんなふうに何もすることがないのも悪くないのかもしれない。

 ふとそんなことを穏やかな秋を感じながら思う。常勤で働いている今の職場のほかに、湊はアルバイトとして働きに行っている。夜勤明けや休みの日を利用していくので、趣味などなくてもそれなりに忙しくしているのだ。

「うわ、なんか気持ちいい……」

 風がゆるりと湊の頬を撫でて髪を撫でていく。それが無性に気持ちがいい。建物の中で仕事してるせいで、太陽とはあまり関わりがない湊の肌色は白い。それが太陽の下では更に白く見える。あまり表情のないその顔に風と陽射しの心地よさから、思わず柔らかく頬を緩めた。

 両手を組んで頭の上に上げ大きく伸びをした湊は、そこでふと気配を感じて振り返る。そこには窓にしがみつくようにしたアイネが、湊を見ていた。

 風が入り込むので、アイネのワンピースも黒髪も緩やかに靡き、輪郭を隠していた頬の横の髪がふわりと踊る。

「こっち来るか?」

 中ばかりじゃつまらないだろう。そう思って湊が手招きすると、アイネは少し考えるように視線を落としたが、すぐに持ち上げて近づいてきた。少女の育った環境とは全く違うが、それでも空だけはどこでも同じなはずだ。都会の決して綺麗な空気とはいえないそれでも、締め切って空調で整えられた空気よりよほど躍動感はある。ゆっくりと恐る恐る出てきたアイネが、長い睫毛の下の瞳を持ち上げて、晴れ渡った秋の空を仰いだ。しばらくは何を語るでもない人形のように硬い表情だったが、湊が見つめる中で少女の唇がゆっくりと控えめに弧を描き、大きな瞳が細めるように青を映しこんだまま形を変える。

 ふんわりと、アイネは微笑んだ。

 決して安心しての笑顔ではないが、硬い表情ばかりを見てきた湊にとってはそれは新鮮だった。先ほどほんのわずかだけ緩んだような気がしたアイネの、はっきりとした表情の変化に、湊はぽかんとしてしまうのを止められなかった。それからわずかだが安堵している自分に気付く。

「なんだ、笑えんじゃん……」

 間抜けにもそんな言葉が口から零れていた。

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