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3.

 ここはどうするべきか。普段から周りに冷静だといわれる湊が、今日ばかりはすぐにいい考えが浮かぶはずもなかった。全く聞き取れない言語で怒りをぶちまけられるなど、生まれて初めてだ。口調とアイネの表情が鬼気迫るほどなので、情けないが圧倒されてしまっている自分を感じる。なんで俺こんなに怒られてるんだと思うが、何をどういえばいいのかも分からない。ぽかんとしたままで、湊はしばらく尻餅をついたままアイネを見上げていた。

 静かなはずの部屋の中に、アイネが甲高い声で感情をぶちまける。激昂していることだけは分かるが、そのすべての言葉が意味を成さないものとしてしか、湊には聞こえない。息も絶え絶えと言った様子で怒鳴り散らしていたアイネが、湊の表情からそれを感じ取ったのかは分からないが、やがて感情の濁流は治まった。

 大きく肩で息を繰り返しながら立ってる細身の少女に、湊はどうしたものかと必死で考えを廻らせた。ここは笑顔で話しかけるべきか。しかし言葉は通じない。ボディランゲージでも限界があるだろう。じゃあどうすればいい。考えろ俺。と視線だけはアイネに止めているが頭の中では相当混乱している。湊の顔は感情を浮かべるには欠陥品だと思うほどに無愛想だが、すっかり困っている表情になっていた。自分では勿論気付かないのだが。

 アイネの感情の余波がまだたゆたうが、とにかく湊は小さく息を吐き出して立ち上がった。成長期に思い切り伸びた身長は、日本人にしては長身だと思う。これで美形ならば芸能界を目指していたかもしれない。だが造作は綺麗な方だがずば抜けていいとは言えないので、そんな気もさらさらなかった湊がゆらりと立ち上がり、自分ではそれほど大きく踏み出したわけではないが、ソファをはさんだままアイネに一歩近づいたとき、湊が呆気に取られる暇もないほどアイネが身を翻して走りだした。

「おいっ!」

 ぎょっとした湊が思わず声を荒げるが、アイネは聞こえていないように、湊を迂回するように廊下に出て行く。とある部族に育てられたというだけあるのか、身のこなしはかなり軽く、追いかけた湊をあっさりとかわして家の奥のほうに走っていく。幸い玄関の方ではなかったので家そのものから逃亡される心配はないのだけど。

 アイネは廊下の両側にある幾つかのドアのうち一番奥にあったそれを開けて、派手な音を立てて閉めてしまった。

「ちょ、マジか」

 ほんの僅かな差で阻止できなかった湊は、ドアの前で立ち止まり前髪をうっとうしそうにかき上げ、白い壁に幾つかかかっている写真を視界に入れながら舌打ちをする。黒く艶のあるドア。真鍮のドアノブに一瞬手が伸びたが、ふと止める。それから耳を澄ませて部屋の中のことを探ろうと、ひたりとドアに耳を当てた。

 先ほどのリビングと違いここまで雨の音は聞こえない。いくら耳を澄ませてみても部屋の中からも何も聞こえず、しんとした中に自分の呼吸の音が響いているような気がした。

 アイネが部屋の中で何をしているのか全く検討もつかないので、ここはやっぱり突入するしかないが、しかしまた怒鳴られたりしてはいくら作りはよくて防音性は高いといっても近所迷惑になりかねない。このフロアには湊の家ともう一つだけしかないが、万が一他の階の住人が聞いたりしてもよくないしな。といろいろなことを考えてしまってドアを開けることを躊躇っていると、押し当てた耳にかちゃりと音がした。

「…………は?」

 その音は聞き覚えがありすぎた。瞬時に湊はドアノブを掴み体当たりするようにドアに身体をぶつける。

「おいッ! なんで鍵閉めんだよ!!」

 湊の大声に、ドアの向こうでアイネが足音を立てて遠ざかる気配がした。

「てかここ俺の部屋だしお前何勝手に入り込んで篭城してんだ! そりゃベッドは使っていいって言ったけど一言くらい断れよ。聞いてんのかこらッ!」

 日本語の分からないアイネに向かって散々文句を言いながらドアを叩くが、一向に状況が改善されるはずもない。遠ざかった足音がこちらに近づいてくることもなく、湊の体力だけが消耗していく。

 そのうち口を出る言葉もなくなり、湊はがっくりとその場にしゃがみこんで頭をたれるしかなかった。

「なんでこんなことになるんだよ。俺厄年じゃないよな……」

 夏子が帰ってすぐこの有り様だ。これから先の不安が大きく押し寄せてくる。人見知りとか言う問題ではないアイネのことを、情にほだされて引き受けたことを激しく後悔しながら、湊は廊下にまた尻餅をつくように座り込んだ。

 視線を持ち上げてみれば黒いドアは阻むように聳え立つ。もともと基本的に天井も高くドアも標準より大きいサイズなので、下から見上げるとなかなかに威圧感を醸し出しているではないか。

 忌々しげにそれを睨みあげながら、しかしこうしていても何もできないと判断して、重い腰を上げてリビングに戻ることにした。間取り上、アイネがどこに行くのでもこのリビングを通らなければいけないので、そのうち出てくるだろうとも考えたからだ。

 あまり家具のないリビングに戻ると、大きな窓からは相変わらず雨の様子が見えた。鈍色の雲はすっかり闇の中に溶け込み、外に零れる部屋の明かりが雨を浮かび上がらせるように見えた。そこはそのままテラスに出られるようになっており、広い人工芝の敷かれた上に、白いガーデンチェアがぽっかりと浮いていた。

「なんでこんなことになったんだよ」

 出るのはため息ばかりなり。そんな言葉が脳裏を過ぎる。帰宅して時間も経ったし昼食を抜いたはずなのに空腹感もない。ただ妙に喉が渇いたような気がして、湊は窓から離れてキッチンの冷蔵庫までのろのろとした足取りで移動した。

 シルバーの重そうな、湊一人では大きすぎるそのドアを開けて、目に入ったビールを手に取ろうとした。が、どうにもそれを喉に流し込む気にはなれずに、すぐ横にあったミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。普段ならきちんとコップに移すが、それすら面倒に感じられて、そのまま口をつける。よく冷えたまろやかな軟水が喉を通るたびに、頭の混乱も少しは解けていくような気がした。

 かなりの量を一気に飲んで、湊は軽く咳き込みながらペットボトルを手にしたまままたリビングへと戻った。大きく柔らかなソファに身を投げ出して座り込み。背凭れに頭を預ける。高い天井にはクリスタルのシンプルな照明がかかっている。ここに住み始めてからずっとあるそれは、いつもどおりの灯りを燈しているのに、なぜだか違和感を感じずにはいられない。もう何年もここには自分ひとりしかいなかった。同棲も同居もしたことなどないのだから当たり前だし、たまに誰かが泊まりに来たことはあるが、それでも大半は湊が主に寝に帰ってくるだけの場所だ。そんな中に紛れ込んできた少女は、自分の環境、世界を変化させるには充分だろう。この先、いや先というよりも今から五分先でも全く見当もつかない。篭城している相手をいかに速やかに引っ張り出すか。ドラマなんかである交渉人でもいれば簡単なのだろうか、それとも警察の何とかみたいに突入すればいいのだろうか。そんな埒も明かないことを止め処なく考えるだけで具体策は出てこなかった。

 ため息を何度も無意識に繰り返しながら、湊は掌の温度で冷たさを放出していく水を流し込んだ。

 時計の音がかちりかちりと刻まれる中。他に音のない部屋の中で、湊は疲労感で一瞬意識を落としていたようだ。はたと目覚めると時間は日付の変わろうという頃になっていた。

「やべ……」

 身体の沈みこみが気持ちがいいソファから飛び上がるようにして起き、そのまま黒いドア――自分の寝室――に向かう。目に映ったそれは先ほどの記憶から一ミリも変わりなく閉ざされたままだった。その前に立ち、湊は再び聴覚をその向こう側に集中させる。が、物音一つしないのも先ほどと変わりない。視界を遮る髪をかき上げながら、見えない室内を見るかのように目を凝らして、静かな口調で湊は呼びかけた。

「……おい」

 廊下に溶け込むように声が消える。いくら待ってもその声に反応を示すものはいない。

「ここ、開けてくれないか」

 ドアノブには触れないまま、また声をかけしばらく待ってみたが、やはり何も返っては来ない。

 この部屋に限らずすべての部屋の鍵には、勿論合鍵がある。それを一瞬使おうかとも考えたが、本人が出てきてくれるならそれにこしたことはないし、これ以上アイネと面倒を起こすことも憚れた。湊は何度かそれからも声をかけたが、なしのつぶて状態でアイネからの動きはなかった。

 イラつく気持ちに任せてドアを叩いてやろうかとも思わないでもないが、やはりそこは子供相手に大人げないし、それだけの気力もないに等しい。湊はゆっくりとした動作でドアノブに手をかけ、できるだけ静かに動かした――――予想通り、きっちりとドアは開いてはくれなかった。

 深々とため息が出るに任せて、湊はそこを後にした。もう自分ではこれ以上することはない。あの部屋にはバスルームもトイレもある。アイネが部屋を荒らしたりすることもないだろう。もう好きなだけ篭城でもなんでもするがいい。あっさり過ぎるほどの動作で湊はリビングに戻り、脱いだままの上着を床から拾い上げる。それを着ると大きなガラスのテーブルの上に投げ出していたキーケースを手に、玄関に向かう。一度だけ後ろを振り返り、湊は靴を履くと静かにドアを閉めた。




 薄暗いカウンターだけの店。オーナーのその日の気分で流れる音楽のジャンルが違うが、今日はR&Bのようだ。壁には様々な種類の酒が並び、その中から好きなものを選ぶ。慣れた手つきで酒を作るオーナーの仕種を眺めながら、湊はカウンターに頬杖を着いていた。

「ほい、お待たせ」

 静かな雰囲気の中に似合わないほどのんきな口調で、目の前にすいとグラスを置かれる。それを無言で取り上げて、味わうことなく喉に流し込んだ湊に苦笑を浮かべる相手がまた口を開いた。

「せっかく作ったんだからちょっとは味わえっての」

「うるさいな……」

 湊好みの強めに作られた酒は、その存在を強く体内の粘膜に突き刺してくる。水しか入れていなかった胃の中に染み渡るように灼熱感を覚え、眉間に皺を刻んでいる湊がきっとその男を睨んだ。睨まれた男。吉川修史(よしかわしゅうじ)は、そんな眼差しなど気にしないとった様子で控えめに流れる音楽を口ずさんだ。

 湊がよく来るこの店は自宅のすぐ傍にある。隠れ家的な、一見さんはほぼ来ない静かな雰囲気と、高校の同級生だった修史が経営している店だからという理由なのだが、湊が来ると簡単な食事まで用意してくれるので、夕食も兼ねて予定のないときは来ることが多い。

 案の定、湊以外に二人ほどの客がいるだけで、長いカウンターの椅子は客を待ちわびているように空いている。

「しっかしお前のお袋さんもすげーことしたなぁ」

 自分用に作った酒のグラス片手に修史が肩を揺らす。それすら憎いと思う湊はさらに目つきを尖らせて睨み付けた。

「他人事だと思いやがって」

「だってどう考えたって面白すぎだって。いきなり女の子連れてきて一緒に住めってなんなの」

「しるかッ。あいつに聞いてくれよ」

 忌々しげに返してきた湊の様子がますます面白いらしく、更に修史が笑いを零す。明るい色の長めの髪の毛が、修史が笑うたびに影を纏った照明の中で揺れる。湊が来るなり酒も頼まずに機関銃のように話し始めたことを思い出し、修史は笑いを治めることができないようだ。高校時代からの親友である修史は、湊の家庭環境もよく知っている。何度か実際に夏子にも会ったことがあるので、夏子のあの突き抜けた感覚ならばそんなことも簡単にやってしまうかもと納得してしまう。その一方で迷惑を被ってしまうしかない息子の湊に、同情の念を抱かずにはいられない。冷静で感情を表に出さない湊が座る間も惜しいように言葉を吐き始めたことでも混乱しているのはよく分かった。

「しゃーねーから、俺も付き合ってやるよ」

 のんびりとした口調で修史は自分の後ろの棚から一本の酒瓶を取り出す。それは照明をやわらかく弾く透明の液体で満たされていた。

「何でいく?」

 修史が問いかけると、頬杖をついた姿勢で湊はちらりと修史を見上げるように瞳を持ち上げ、愛想のない顔のまま答えた。

「ショットガン」

「オッケー」

 想定していた言葉が返ってきて、修史は嬉しそうに笑った。小さなグラスに酒と炭酸水を入れ湊に渡す。

「それ、一本なくなるまでやるのか?」

 湊が掌でグラスに蓋をするように持ち修史に問うと、当たり前と答えるように修史が大きく頷いた。

「ま、明日から休みだしいいか……」

 もう飲んでしまわないとやってられないと思う気持ちに従い、湊は小さなグラスを自分の膝にたたきつけた。

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