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1.

更新は気まぐれです。このお話は短く区切ってシリーズとして扱っていこうかと思っています。今回のお話は出会い編といった感じですので、たいした展開はないかと思いますが、気長にお付き合いくださると幸いです。

 白い壁の中に、狭苦しくなるほどの大きな精密機械。一定間隔に響く何かを叩きつけるような音。その寝台に人が乗せられ、普段見えない身体の中の病巣の有無を調べる。それを大きなガラス越しに見つめるのが常。今日も何人目になるのかわからないほどの人間がその中に案内されて入るが、多くの人はその音に驚く。

「少し音が響きますが、我慢してくださいね」

 マイクで患者に声をかけながら、手元では視線を落とさなくても分かるほど馴染んだボタンやらを操作する。この仕事も何年になったかな。そんなことを考えてしまうくらい慣れ親しんだ作業だった。

(みなと)、今日ちょっといかない?」

 そんな風に声をかけてきた相手に、林原湊はガラスに視線を置いたまま答えた。

「あ、ごめん真奈美。今日はちょっと用事」

 真奈美と声だけで判断して答える。言われた真奈美が明らかに落胆した顔つきになったのを、湊はガラスに映った彼女で知る。が、患者の検査を始めなければ、ただでさえ予約の多い今日なのに、救急搬送で予定が大幅にずれている。仕事終わりの予定のためにもなんとしても定時に終わらせなくてはいけない。白く無機質な部屋の中で湊は昼食も食べずにもくもくと仕事をこなす。

 操作室の中には今は誰もいない。それを分かって来ている外来看護師の真奈美が、湊の細身ながらしっかりとした背中にじゃれ付くようにしがみついてきた。

「こら、真奈美」

 危うく他のボタンやレバーを触ってしまうほどへたを打つことはないが、それでも仕事は人間相手であり神経を使う。思わず眉間に皺を刻みながら湊は軽く振り返り真奈美を睨んだ。しかし真奈美はそれに悪びれる様子もなくにっこりと子供のように笑う。

「だって最近忙しくて一緒にいられないし」

「仕方ないだろ。俺もお前も夜勤だったり研修だったりするんだから」

 首筋に鼻をくっつけて、まるで犬のようにじゃれ付いてくる真奈美を軽い力で引き離して湊は半ば呆れたように笑った。それから、忙しくて伸びてしまった髪をうっとうしそうにかき上げて、港はくるりと椅子を返して真奈美に向き合った。

「今日はほんとに無理。悪いけど母親が帰ってくるんだ」

「おかあさん?」

 湊の口から母親の話題を聞くとことはとても珍しい。真奈美が目を丸くする中、湊はため息を落としながら事情を説明した。

 林原夏子。湊の母親は海外で発展途上国を回る医師だ。湊が高校生になったときに長年の夢だったといきなり家を飛び出して、以来医師としての人生を歩んでいる。多感なころに出て行った母親だが、湊への愛情をなくしているわけでもなく、一年に一回は湊の事情も考えずに帰国してくる。もうここ数年は慣れてしまって何も感じなくなったがかなり迷惑といえば迷惑な母親でもあった。因みに父親、林原健太郎は日本の僻地医療に貢献したいと、こちらは湊が二十歳をこえてから小さな島の医者をしている。そんなわけで29歳独身の林原湊は両親所有のマンションで悠々自適な一人暮らしである。

 そんな母親が、帰国するから必ず休みを取るようにと、電話をかけてきたのは三日ほど前。親に反発したわけでもなく、単に興味があったからと放射線技師になった湊がそれなりに忙しくしているのは夏子には関係ないらしく、いきなり休みを取れといわれて夜勤勤務もある湊は大層苦労した。一ヶ月分のシフトが出来上がったばかりなのに、他のスタッフに頭を下げて代わってもらった。しかも今回はなぜか一週間も休みを取れとの夏子からのお達しだったからだ。今まではせいぜい二日か三日でよかったはずなのに、しかもこちらのシフトが何日付けで切り替わることもきちんと伝えてあるにもかかわらずこの有り様だし、正直そんなに休みが取れるかと怒鳴ってやればよかったのかもしれない。が、いつも帰国してもとんぼ返りな母親が初めて長く休みを取れと要望してきたことに、何か話したいことでもあるのかと思い湊は苦心して休みをやりくりした。これで有休が幾つか減ったが毎年消化し切れなくて消えていってしまうのだから、これもいいのかもしれないが。

「ってことで、俺明日から一週間来ないから」

 会話の合間に患者のポジショニングの説明をしている他のスタッフに目を配る。中途採用の新人のスタッフが悪戦苦闘しながら耳の遠いおばあさんに説明している姿はなかなか微笑ましい。思わず目許に笑みを孕む。湊の顔は黙っていれば怒っているのかと誤解されるような雰囲気もあるが、笑うとたちまち柔らかく幼さすら感じさせる雰囲気を纏う。それは真奈美の一番好きな湊の表情だった。

 湊と知り合って数年、徐々に湊に好意を抱き始めた真奈美が長い時間をかけて、何とか「彼女」という立場に近い位置を得たのはここ数ヶ月。こんな風に職場でも会い、外でも会える関係を持つことができて嬉しくないはずもなく、真奈美としては忙しい合間を縫ってデートでもしたかったのだが、先約があってはどうにもならない。頭では分かっているのだが、なんとなく悔しくて、ぽってりとした唇を子供のように尖らせて一発湊の背中を叩き飛ばした。

「何よ湊の馬鹿! 他の人に私がいっちゃってもいいの!?」

「は?」

 何を言われているのか分からなくて湊の目が思わず真奈美へ向く。操作室の中は誰もいないとはいっても、ガラスの向こうには他の人間もいるしまして患者もいる。こんな話をする場所でもないことは一目瞭然だろうと、言葉にはしないが湊は眼差しで訴えた。 

 だが真奈美にはそれが通じない。言葉にしてしまって一層腹が立ったのだろう、赤くなった頬を隠すように真奈美はぷいっと顔を背けドアに向かって歩き出した。後ろでまとめた長く赤みを加えられた真奈美の髪の毛が甘やかな香りを残して湊から離れる。

「一週間の間に連絡なかったから本当に知らないからね!?」

 長い睫毛の下の瞳をキッと湊に一度止めて、真奈美は出て行った。

「一体なんなんだ……」

 今度こそ独りになった湊が、椅子の背凭れに息を吐き出しながらもたれかかる。無機質な椅子が軋んだ音を立てる。ガラスの向こうにある大きな精密機械の音にそれはまぎれてしまっていたが、自分のため息そのもののように感じた。

「林原さん、お願いします」

 準備が整ったのだろう、新人スタッフが機械の部屋と操作室をつなげるドアから入ってくる。ふとどこか考え事をしていた湊は、その言葉に我に返り小さくうなずいた。それからマイクで患者に説明する。

「それでは今から始めますね。検査中気分が悪くなったり何かありましたら右手を上げて知らせてください」

 これから身体の中身を暴かれる、といえば聞こえは悪いのかもしれないが、見られる患者を見つめながら湊はぼんやりと考えた。

「心の中もはっきり見えれば楽なのになぁ……」

 小さく零れ出た言葉は、何かを叩きつけるような音にかき消されてしまう。これも湊の常だった。



 仕事が終わって車に乗り込んだときには、空には灰色の雲が一面にあり、ぱらぱらと雨が降り始めていた。

「雨かぁ」

 控えめに好きなアーティストの音楽をかけ、その合間に雨音を楽しむように車は滑り出す。年齢で言えば家族がいてもおかしくない湊だが、あいにく誰かを乗せることはあまりないので、通勤の足というだけの軽自動車だ。飾り気のない車内でフロントガラスに落ちてくる雨を見ながら家に向かう。頭の中では母親とどこか夕食でも食べに出かけるかといったことを考えながら。真奈美のこともちらりと過ぎるのだが、今は正直仕事終わりの疲労感もあって考えたくなかった。

「っていうか……他の人ってなんだ」

 怒った真奈美の顔と言葉が思い浮かぶ。他の人? なんだそれ。それが正直な感想だ。俺たちってなんなわけ。付き合ってるのかこれは。通り過ぎていく景色を視界の端に入れながら湊は真奈美が知ったら憤慨しそうなことを考えずにはいられなかった。

 真奈美とは確かに特別な雰囲気はあるし、周りもそうだろうと思っているが、だからといって言葉にしたことはない。なんとなく話があって、それで一緒にいて気疲れしない。でも自分から真奈美を誘ったことはないし、勿論「そういったこと」もない。それなのに他の人のところにいっても知らないからとはなんなんだ。

「は?」

 やはり何度考えても納得がいかないというか胸にすとんと治まらない。自分に一番近いかもしれないが、でも断言できるほどの関係でもない。まして、それを言われて不安になったりすることもない自分を、湊はどこか他人事のように感じている。

「ややこしいこといやなんだけど……」

 当たり前だが女の人に興味がないわけでもないし、むしろ嫌いなはずもない。ここ数年は決まった相手はいないがもてないわけでもないし。単純に今は仕事が忙しくてそれ以上の許容がないだけだ。やりがいもあるし。

「まぁ。休みだしゆっくり考えよう」

 なじみのコンビニの傍まで車を走らせて、考え事をしていたせいで通り過ぎてしまう。思わず小さく舌打ちをして湊はそこを諦めた。今日は習慣で買ってしまう雑誌の発売日だったのに。買って読んでいるかといえばそうでもないのだが、習慣とは恐ろしいもので買わないとなんとなく一ヶ月がたったような気がしない。明日買うかと呟いて、マンションの駐車場に車を入れた。

 湊の家は20代の若者が暮らすには少々似合わない高層マンション。今でこそ珍しくないタワーマンションだが、湊が中学生のころに両親が購入したものだ。裕福な家庭の部類だろう湊の両親が、購入時に大半の金額を入れていたから今はローンもなく湊は住むことができる。いつものように豪華なエントランスをゆっくりと歩きエレベーターに乗り込む。地下にある駐車場のおかげで、車から家まで濡れる心配のないことがこの住まいの一番気に入っているところかもしれない。

 静かな音をさせてエレベーターは湊の住まいまで運んでくれる。エレベーターなのに天上からぶら下がるクリスタルの小さな照明器具に、こんなもんなんでつけたんだと思わずにはいられない。見慣れていてもそこに違和感を感じる。見た目だけ派手にしても心がなければ何の意味もない。そんなことを考えてしまっているうちに、最上階に到達した。

 絨毯の敷かれた静かな廊下はさながらホテルのようだ。生活感のないこの廊下も、湊はあまり好ましく思ってないが、引っ越すほど嫌悪しているわけでもない。このご時勢だし湊自身はたいした額を稼いでいるわけでもないので、素直に両親に甘えて住み続けている。

 重厚なドアノブにひょいと手をかけて当たり前のように開ける。普段なら開いていないのだが、今日は母親が既に帰っているはずだ。そう思って鍵も出さずに湊はドアを開けた。案の定すんなりドアは開く。大理石が敷き詰められた広い玄関に、細くてヒールの高い靴があった。それからもう一つ。下ろしたてのスニーカー。誰かと一緒に来たのか。それにしてもこの子供っぽい靴はなんだ。湊は玄関にぽつんと立ったまま目に映るその靴をじいいいいっと見つめた。

「あら湊、お帰り」

 立ち尽くしている湊に、前方から声がかかった。長い廊下の向こうのドアが半分ほど開いて、そこから顔を覗かせている自分とよく似た女性。夏子だった。日焼けした肌は湊よりも健康的に見えて、化粧っ気のない顔なのに造りがいいおかげで年を重ねても美人だ。小柄ながらすらりとした身体つきで身長は高く見える。約一年ぶりの母親は相も変わらず人生を楽しんでいる気配に満ちていた。

「うん、ただいま」

 長めの前髪の間から母親を確認して、湊はひとまず家に上がる。ここに置いてある靴の疑問はさておき挨拶くらいはしておかなければ。

「あんた髪伸びたわねぇ」

 久しぶりに息子に会った夏子は嬉しくて仕方がないといったように笑っている。夏の太陽のような性格は昔からで、大きな声で何かと話しかけてくる夏子を押しやるように、湊はドアを開けてリビングに入った。挨拶でも思っていたが、そんな気もうせてしまうほど夏子は勝手に話しかけてくる。

「マジで休み取るの大変だったんだぞ。今度は頼むからもっと前もって電話なりしてくれ……」

 会う早々文句を言い始めた湊の唇が動きを止める。前髪が邪魔で変なものが見えたのかもしれないと長い指でそれらをかき上げるが、やはり幻覚でも何でもなかった。見えてしまったそれは、湊の思考を完全に止めてしまった。

 見慣れはずのリビング、そのソファの上に、膝を抱えた子供がいる。黒髪に日焼けした肌に、何よりも自分を睨んでくる子供。細い膝を抱え込むようにして細い腕で自分を抱き締めている女の子は、明らかに怯えている。

「ちょ……なに……これ」

 先ほどみた靴の主を指差して、湊は言葉を継げなかった。誰かいるとは思っていたけどまさかこんな子供だとは思わなかった。見るからに中学生位の女の子。母親の長の不在。これってまさか、妹とか言い出すんじゃないだろうな。悪寒にも似たものを感じて、恐る恐る母親ヘと視線を移した湊の瞳を、夏子はにっこりと受け止める。

「その子はアイネ。ここで面倒見てもらおうかと思って連れて返ってきたの」

「…………は?」

 静まり返った部屋の中には機械の音ではなく、雨の音がかすかに聞こえる。一人暮らしの湊にはこれもまた常ではあっただが、今日は状況がおかしすぎだろうと心の中でつっ込まずにはいられなかった。

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