ふたりきりの時間
教科書やら、参考書、問題集、いろいろ抱えながら、玄関で「お邪魔します」と声をかけ、勝手知ったるなんとやらで、家の中に入った。
小さい頃から、それぞれの家を行き来しているおかげで、フリーパスだ。
いつもおれたちが集まる居間から続く和室で、緋色は待っていた。晃希はいなかった。こんな時は気を利かせてくれるのか、おれたちの間に入っては来ない。
「どこがわからない?」
さっそく、教科書を広げると緋色はここと指をさした。
おれの目に華奢な指が目に入ってくる。
おれの手の中にすっぽりと入ってしまいそうな小さい手だ。
思わず触れてしまいたくなるような柔らかそうな手。
危ない。
本当に触れたくなってしまう。
おれは意識しないように問題を見た。
「これ簡単な問題じゃん。すぐわかる問題なのに」
中学校は始まったばかりで、数学もまだやさしい。
ただ、この時期にきちんとついていかないと、苦手になったり、数学嫌いになったりする確率は高い。
緋色は頭がいいと認識があるので、ここで躓くとは思えない。
「えっ・・・とね。聞いてなかったの」
緋色はえへっと肩をすくめた。
「聞いてないって・・・・何やってたんだよ」
「問題を解いてた」
「問題って?」
「教科書見てたら、すごく気になる問題を見つけて、どうしても答えを知りたくなっちゃって、夢中でやってたら、終わってた」
えへへ・・・と、悪びれず照れ笑いをする緋色を見ながら、その顔もかわいいけど・・・
気になる問題って、後からやればいいだろう。大事な授業中になに他のことやってんだよ。
不思議ちゃん? 天然? 緋色って時たま、不可解な行動をする。
「ちゃんと聞いとかないと、後で困るのは緋色だぞ」
ちょっと厳しく言ってみる。小学校の頃も、時々教えたりしていたのだが、中学校になると勉強も難しくなってくる。
受験にも直結するし、忠告と思って言ったのだが・・・・・
「うん。そうだね。でも教えてくれるでしょう?」
緋色がまっすぐにおれを見ながらいう。
「はっ?」
「わからない問題があったら、翔くん、教えてくれるでしょう。翔くん、教えるの上手だし、それじゃ、ダメなのかなぁ?」
甘えるような声に瞳を潤ませ、上目づかいでおれをみる緋色にどきんと心臓が跳ねる。
究極の殺し文句。ダメだといえるわけがない。惚れた弱みなのか。
どうしてこうも人をその気にさせるのが上手なのだろう。
緋色にはいつも頼られていたい。いつでもどんな時でも、緋色のためならと思ってしまう。
つまらない人間だと、何にもできない男だと思われたくなくて、勉強だって、部活だって頑張っている。兄貴にも負けたくなくて。
そのおかげで、成績は学年一位だし、サッカー部でもレギュラーだ。
緋色はそんなこと気にはしないかもしれないけれど、自分が嫌だった。
緋色に誇れる自分でいたい。
「いいよ。いつでも教えてあげるよ」
白旗。降参だ。緋色にはかなわない。
「やったあ! ありがとう。翔くん」
諸手をあげて喜ぶ緋色。
これじゃあ、授業中何しててもいいと言ったも同然だ。
緋色の術中に嵌った感はぬぐえないけれど。
緋色の期待は裏切れないから、頑張らなければ。
件の問題は少し説明しただけで、緋色はすぐに解いてしまった。
今は別の問題を解いている。
元々、物覚えが早く、記憶力もいい緋色だから、そう手間はかからない。
授業さえちゃんと聞いていれば、頭のいい緋色のこと、何の問題もないはずなのだが、時々、すっぽりとどこかが抜けている。
だからなのか、里花とよく勉強会を開いている。
どちらかというと里花に優先権があって、おれはその次って、感じで。
今日、里花は早々に帰っていったから。
くっ・・・顔を思い出したら無性にムカムカしてきた。
やめよう。
せっかく緋色と二人きりなのだから。
おれは頭の中から里花を追い出した。
改めて、緋色に視線を移す。
ノートに目を落として、問題を解いている。
シャープペンを動かし、時々顎に手を当てて考え、それからまた、ペンをはしらせる。
真剣な横顔に見惚れる。
すぐ目の前に緋色。いい匂いがする。シャンプーのにおい?
鼻孔をくすぐる甘い匂いに酔いそうになる。
ドアを開けてるとはいえ、部屋の中はおれたち二人で静かな空間の中、ノートをすべるペンの音だけが聞こえる。
二人きりなんて、どのくらいぶりだろう。
中学生になって、セーラー服に変わると小柄で、童顔で、かわいいけれど、どこか大人びた緋色がいた。
恋は理屈じゃないと思う。いつから好きだったなんてわからない。
気づいたときには好きになっていた。
やめよう、諦めよう。何度思ったかしれない。
緋色の心には兄貴だけ。そう自分に言い聞かせても、募るのは想いばかり。いつか、おれのことを見てくれたら。
その瞳におれだけを映してくれたならと、願う自分がいる。
はらり・・・
と幾筋かの緋色の髪が解け、頬にかかる。
よく見ると、緩く編まれた三つ編みは、所々、おくれ毛がでている。
もう一度結びなおした方がいいかもしれない。
邪魔になりそうな髪を指先で払ってやりたい衝動に駆られる。
もう少しで届こうかという手を寸止め。触りたい。
けど、理性が邪魔をする。好きだから、簡単には触れない。
もし、触ってしまったら、離せなくなりそうで・・・それが怖い。
邪魔になったのか頬にかかった髪を指で払うように耳にかける。何気ないその仕草が艶めいていて仄かに色香を感じ、おれは思わず息をのんだ。
全身に電流が走ったような衝撃と同時にかあぁと顔が熱くなる。
ごっくんと唾を飲み込む。
やばい。
完全に意識してしまった。顔が熱い。どうしよう。熱くなってしまった心と体。どうしたら冷めるんだろうと少々混乱していると、
「出来たあ!」
緋色の満足そうな声が響く。
あまりの恥ずかしさに視線を上げられずにいると、おれの前にノートを差し出した。おそるおそる緋色を窺えば、おれの気持ちなど一切気づきもしないだろう、にこにことした無邪気な笑顔の緋色の顔があった。
はあぁ。大きく息を吐く。
おれはただの幼馴染みで、それだけ、現実を思うと心が萎えていく。
「翔くん、顔赤いよ?」
余韻だけは残っているのか、手を顔に当てるとまだ熱かった。
「この部屋暑い?」
おれの顔の熱さが気になるのかしきりに聞いてくる。
いや、熱いのはそのせいじゃないから。
「いや、暑くないし、大丈夫。何でもないから」
「風邪? 熱があるのかも」
心配してくれているんだろう。
気持ちは嬉しいけど、これも違うから・・・
緋色はおれの顔をこれでもかと凝視してくる。
後ろめたい気持ち満々なおれは妙に動揺する。
まともに答えられない。
そのうちに、緋色の手がすっと伸びてくる。額に伸びたそれを寸ででかわす。
やめてくれ。これは何の罰ゲームなんだ。さっき緋色に邪なことを考えていたからか。
「熱測るだけだよ」
手をよけてしまったからか、口を尖らせて不満げにおれを見た。
「熱なんてないから、それよりほら、次の問題」
話をそらせようと、今度は問題集を差し出す。
一旦、そこに目を移した緋色だったが、
「やっぱり、気になる」
そういって、また手を伸ばしてきた。
今日に限って、こんなにしつこいんだ。
「いやいや、大丈夫だから」
おれはじりじりと後ろに下がる。緋色はじりじりとおれに迫ってくる。
お前は何とも思っていないかもしれないけれど・・・本当にやめてくれ。おれを煽らないでくれ。さっきの熱がまたぶり返してくる。
触られたら、必死に抑えている理性のタカが外れてしまう。
「本当に赤いよ。絶対熱があるよ」
心配してくれてくれるのは嬉しいけど。
熱の意味が違うし。
緋色との攻防は、とうとう壁際まで追い詰められ、いよいよ逃げ場がなくなった。
「往生際が悪いな。そんなに触られるのいや?」
緋色の傷ついたような顔。そんな顔をさせたいわけじゃない。
「いやじゃない・・・」
おれだって触ってほしい。でも今は本当にまずい。
「だったら」
もう一度伸ばされた手。逃げ場を失ったおれは観念して目をつぶった。どうなっても知らないからな。
「緋色、亮くんよ」
不意に声がかかった。
おれへと伸ばされていた手が下ろされ、おれは目を開けた。
部屋の入り口には、有希子さんがいた。
助かったあ。と安堵したのもつかの間。
「お兄ちゃん?」
緋色の声の調子が一気に上がる。
ぱっと顔を輝かせたかと思うと、弾かれたように立ち上がり部屋を出ていった。その素早いこと、風のように・・・・
しーんと静まり返った部屋の中、ぽつんと一人残されたおれは、そのまま壁に寄り掛かりズズっと腰を落とした。
何だったんだ。おれの葛藤もどこへやら。
あんなに悩んだのがバカみたいだ。
兄貴が来ただけで、こんなにも状況が変わる。
一気にテンションが下がった。
「ごめんね。緋色ったら、亮くんと出ていったみたいなの」
有希子さんがもう一度顔を出して、済まなさそうに謝ってくれた。
「ああ、でしょうね」
おれはそれだけ言うのが精いっぱいだった。
兄貴が来た時点で、予想はついていたから、今さら、がっかりもしない。
おれへの心配も。緋色にとっての一番は兄貴で。
兄貴と比べたら、おれは塵にも等しい存在。
で、なんでこんな時に限って、早く帰ってくるんだよ、兄貴のやつ。しかも邪魔しやがって。
悪態をつきながら、机の教科書とノートを片付けると、緋色の家を後にした。