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日蔭の向日葵  作者: 日野五鈴
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第1話 運び屋の魂(たましい)

 咲いて、そして種を実らせ、花弁が散り、花としての一生を終え、また種は違う場所で芽を出し、茎と葉を伸ばし、花が咲いて、そして種を実らせ、花弁が散り、花としての一生を終え、この営みは繰り返される。

 先人達は人の生涯を花に喩えて謂う、誕生は芽吹きに、成長は伸び行く茎や葉に、喜びや成功は開花に、子を授かるは種子に、そして死は枯れ朽ちる事に喩えて謂った。

 日蔭に咲いた向日葵は今日も人に知れず、世に触れず、何も語らず。

 短い歳月の中で何が正しく、何が過ちで、何が善で、何が悪で、何が幸で、何が不幸なのかを問い続ける。

 何故ここに育ち、何故ここで咲かねばならぬのか、誰も知らず、彼も知らず、行き着く先も分からず種を実らせる、ただそれだけの為に、何人にも知られずにここに咲く。

 いつの日かその大輪が豪快に咲き誇れる地を望んで、今年も日蔭に咲く向日葵。

 時は平成八年春、一粒の(いびつ)な縞模様の種が社会という土壌に落地したことに始まり、社会の日蔭に芽吹いた向日葵の物語。

「きやつら、今日も遅いな。」

「一体何をしてるんだ、こんな時間まで…。」

 京浜工業地帯にある海沿いの工場跡地、プレハブ小屋で設けられた仮設事務所で若きサラリーマン鷹崎が同僚の桜井に背を向けたここ一週間、行事ごとように決まって愚痴を並べる。

 二人は三年前の同期入社ではあったが、三年の歳月が互いに大きく違うように切り取られ、理念も理想も全く異質の社会人を形成するにいたった。

 微弱な振動でも剥がれ落ちそうな黄ばんだモルタル調の壁にかけられた丸い学校時計がデジタル音を軋ませてプーンプーンと十回鳴り終えて、沈黙した。

「じゃあ先に帰るから、あと、頼んじゃっていいかな、オレ忙しいんだ。」

「ああ、どうぞ、お疲れ様。」

「お疲れ。」

 桜井は体付きに似て、大らかで朗らか、明るい性格と人懐っこい笑顔スマイルを振りまき、世を渡る術を身に着け、入社当初から将来を有望視された四天王の一人と目されている逸材だった。

 一方の鷹崎は就職難をいとも簡単に解消してきた典型的な裏口入社者、同期からは、途中参加となった内定者研修会の隅で誰のコネクションかが話題になる以外に話題にもされず興味を惹くようなこともなく、それでも社交的な付き合いもせず、風貌からは想像しがたい下戸が一層、距離を開け、名は体を表すように、獲物を狙う猛禽類の非道な目つきと、刃に物を着せぬ攻撃的言動が目立つ程度だった。

 桜井が隣席を離れ、鬱蒼とした空間からその気配が消えたのを確認し、優秀と称される同期の監視眼が空間からなくなると、鷹崎は鉄板入りの安全靴を面倒臭そうに脱ぎ捨て、自慢のライターでタバコに火を点けると、幾層にも折り重なった書類の束をクッション替わりにして、机上に脚を上げた。

 一本目、二本目、三本目…、ガラスの灰皿に煤けた吸殻が増えたことと、指先の指紋が一層色濃く黒ずんでしまう事以外に業務上の変化は何も起きない。

 このプレハブ小屋仮設事務所に勤務して一週間、まるで時間経過による、事態の変化がスローモーションのように感じられた。

 五本目のタバコが灰塵に変わろうとした時、ようやく事態が進展する。

 ヤニと埃で黄ばんだ壁と同化した扉が静かにカチャリと開き、作業着を身に纏った三人の中年男性が姿を見せた。

「積み込み完了です。」

「はいはい、お疲れさん、これ伝票だから、下段が納品先だからサ、間違えないように頼みますね。」

 鷹崎の態度は甚だぶっきら棒で業務上とはいえ全く人肌の温もりなど皆無、その上、鼻に突く毒臭を含んだイヤミな口調は、真に社会人としては有るまじき態度だった。

 それでも、社会の道理、ビジネスの上下は金の流れを遡ることで、その優劣は決する。

 この場合、事務カウンターの向こう側にいる作業着姿のトラック運転手達は金を貰う側の会社組織に属し、鷹崎は金を払う側の会社組織に属している。

 つまり、トラック運転手の目の前にいる、いけ好かない二十代半ばの小僧の方が社会上では上位ということで、言われなき悪態に耐えるべきは、トラック運転手達ということになる。

「あの、桜井さんは?」

「もうとっくに帰ったよ、何か用でもあった?なんなら携帯に電話してみれば?まだどっかで仕事してるかもしれないし…。」

「明日の予定がどうなってるか知りたいだけなんですが…。」

「明日?明日は明日の風が吹くって、成行きまかせ、風任せ、わかんないな。」

 鷹崎と会話をしているリーダー格のドライバー以外の二人の顔面は明らかに怒気を盛った表情で固まったまま沈黙している。

「それでは、お疲れ様でした。明日も宜しくお願いします。」

「ヘイヘイ、お疲れさん、また縁があったら会いましょお。」

 人を小馬鹿にした言動を飄々と言ってのける若僧は、三人が唯一の出入り口である黄ばんだドアから出た瞬間にプレハブ小屋仮設事務所に鍵を掛け、事務所から出て来たいけ好かない若僧に一礼する運転手達をしかとして、国産の自家用車に乗り、工場跡地から出た。

 向かった先は桜井が用意した私鉄終点駅近くのボロい素泊まり宿、ひとり者の鷹崎を現勤務地に赴任させるにあたって、会社が用意させた宿だったが、畳二畳の個室と言われて来たそこは、部屋と外部を仕切るのは鍵のない襖戸があるだけで、テレビもなく、食事は前金払いの申告制、トイレは共同、風呂ももちろん共同の上、使用可能時間指定付き、およそ、宿というには程遠く、帰宅時間が不特定かつ、桜井の代わりに留守番を続ける事が当たり前になっている中では素泊まりすら危ういと思う環境だった。

 団体の季節労働者と参拝目的の巡業者には御親切にも無償で他者との触れ合いの場として、風呂や食堂を提供してくださるのは有難いことだったが、他人と触れ合う事を煩わしく思う鷹崎にとっては迷惑以外の感想はなかった。

 このシチュエーションすら、鷹崎にとっては不遇であり、自ら望んだわけではない転勤に不満を持っていた男にとって「君の力を是非貸して欲しい」とサラリーマン冥利に尽きる御言葉は、説得と快諾を目的としているだけで、この行為が社会道義上において、不当な措置ではないと通達する他に意味を持たず、個人の力量などという目に見えない技能はサラリーマンを評価する資質として何ら必要としていないと裏付ける十分な根拠と成り得た。

 これで二年か、もう十分だろう。

 戻ろう、自分に相応しい場所へ、

 帰ろう、自分が居るべき場所へ、

 もともと裏口入社の鷹崎には、愛社精神もなければ、恩を感じるものもない。

 そもそも会社人として長居をするつもりなどなく、得意分野で食っていくだけの自信もあって、ここにこうして存在して、勤勉なサラリーマンを演じている事自体が鷹崎流の人生遊戯の一部でしかなかった。

 結局、自家用車内に宿泊をして、食事はカップラーメンと弁当を買い、この日を境に宿に戻る事はなかった。

 翌朝も鷹崎にとっては、桜井の晴れやかな笑顔と対面することから不愉快は始まった。

 仕事があるからと、同期の鷹崎を置いて帰社する桜井だったが、その後で同じ支社に所属する女性社員と宜しく御食事会なるささやかな男女の触れ合いに興じ、しかも領収証の名目を得意先打ち合わせと称して、その領収証が処理されている事を鷹崎は知っていた。

 この時点で、鷹崎自身に不特定の異性に対して興味があれば、強請(ゆすり)(たか)りといった行為で御相伴ごしょうばん、ないしはお零れに有り付くのも一つの手段であったが、残念ながら特定の異性に興味を持っていたが故に噂を流布することによる告発で桜井の失脚を目論むにいたった。

 しかし、桜井は流石に秀逸だった。

 鷹崎がにわかに流布した、噂はすぐに事情通の桜井の耳に届き、出所を調べて粉砕する事をして、時間経過による事態の悪化を招くような愚行はしなかった。

 謀略ともいえる、怪情報の流布は鷹崎にとっては造作もない事で、大学生時代に培った悪事の数々に比べれば、同世代のサラリーマン一人を陥れることなど造作もないことのように考えていた。

 やがて、支社内に広がっていった、御食事会経費汚職事件の噂は当時の支社長の耳に届くに至り、鷹崎の計画では、まんまと四天王の一角を早々に失脚させたと思いきや、個人的領収証を流用して不当な社内経費乱用を行っているという疑惑は、確たる証拠もないままに支社長によって握り潰され、以後の御食事会と称する純異性交流の場は恙なく継続されるも、全て桜井の懐から出金され、一切の領収証を受け取る事がないという異様な結末を迎える。

 幼少期の経験によって社会や組織に対して鷹崎の心中に根深く、残る不信感が再び再燃する。 

 益々の鬱憤うっぷんが業務外において溜まった鷹崎の精神的時限爆弾は既にリミットを迎えつつあった。

 疑惑が持ち上がっている中でも何事もなかったかのように、満面の笑みで双子女性社員の瑠奈と佐奈に声をかけ、何事もなかったかのように、鷹崎の肩にボンとズッシリと重い、脂肪が詰まった太い腕が絡みつく。

 鷹崎が不快感を露わにすれば、数倍の笑顔で笑い飛ばし、無視をすると数十倍の圧力で、鷹崎に反応を強要してくる。

 社会という一般的な世の中に身を投じて三年、初めて味わう完全なる敗北感にさいなまれた鷹崎は実感する。

 力こそ正義なり

 鷹崎はこの文句を小学生から座右の銘にして生きてきた。

 しかし、それは正しい事をする為ではなく、正義とは力ある者に与えられた詭弁であり特権なのだということを、幼少期に身をもって知ったが故である。

 この横縞とも思える思想が鷹崎を未だに支配し強者と弱者という単純な縦型社会構造こそ、現代社会の構図であり、それ以外の人と人の繋がりなどはないと自分に言い聞かせることで、コンプレックスを打破してきた心の支えでもあった。

 遡ること十六年前、鷹崎は小学校五年生、望んでいたのは周囲の同世代と同じように陽が暮れるまで遊び、テストで満点を取り、親から御褒美を貰ってはしゃぐ生活だった。

 しかし、その望みは一年前に儚くも塵となって消し飛んでいた。

 鷹崎の父親は二流大学を卒業後に持前のバイタリティで大手百貨店に就職し、会社の存亡に関わる汚職を内部告発したことで左遷され、やがて首謀者が逮捕されると、その功績から一気に社内の役員にまで上り詰め、数々の子会社社長を歴任したヤリ手のサラリーマンで、二流大学出のホープとしてエリート街道を突き進んでいた。

 一方母親は当時としては珍しく四年制の女子大学を次席で卒業した才女で、鷹崎の父親とは偶々大学卒業後に花嫁修業、社会勉強の一環として、欧州ブランド品売り場で知り合い、そのまま結婚したのだが、大手百貨店とはいえ一介の母親のサラリーマンでしかんかった鷹崎の父親との結婚に際しては親族からかなりの反対があったらしい。

 それもそのはず祖父にあたる人物は元海軍中将、祖母にあたる人物は九州有数の大名家の末裔、父親は超大手重工会社の役員、母親は神戸の由緒ある家柄の令嬢であれば無理もない。

 結果としてその負い目が鷹崎の父親を感化し、当時タブーだった会社に対して内部告発をさせるという正義感溢れる暴挙の後押しをしたのもまた事実であった。

 結果として、鷹崎の父親がとった行動は将来的には功を奏したが、左遷人事当初は母親側の親戚から離婚を勧められていたことを鷹崎は幼い記憶として持っていた。

 そんな中、当然学歴にコンプレックスをもっていた両親にとって息子を社会的に一流と言われる学歴で染めることは重要な事であり、漬物にしてでも勉強をさせることを是とした。

 鷹崎自身、公立の小学校に通っていたのだが、実は三歳で有名私立幼稚園を受験し不合格、小学校も従兄が通っていた某有名私立小学校を受験するも、これまた不合格。

 二度のチャンスをふいにして、もはや有名私立中学校への入学は是が否でも成し遂げたい、華族揃っての願いであり、必須事項だった。

 結果としてはスベリ止めに辛うじて引っかかる。

 そこに至るに、鷹崎と学歴獲得派を論じる家族内では毎日のように騒乱が勃発し、鷹崎の実妹が赤裸々に当時の様子を語った。

 兎に角、遊びたい一心の鷹崎は親の目を欺き、学習塾をサボリ、しかも月謝として持たされた現金を使ってゲームセンター通い、金が尽きれば、ゲームセンターで知り合った友人の紹介でゴルフ練習場の玉拾いをして、駄賃を取り、そのお金でまたゲームセンターへ足を運び、その姿を母親に見つかる度に部屋に軟禁され、両親から子供に浴びせるとは思えない言葉が家中に響いていたそうだ。

 そして、事件は起きる。

 その日は、珍しく、学習塾に行ってからその後、ゴルフ場の玉拾いで得たバイト代でゲームに興じていた鷹崎を囲むように現れた中学生五人組、見ればゲームセンター仲間も脅えた表情で肩を組まれ半ば拘束されている。

 取り敢えず着いてきて欲しいという友人の言葉を信じて店の裏口から、路地裏へと出る。

 「待って!」と声をかけるも、アッという間にその場から走り去る友人、中学生達曰く、鷹崎君は金持ちだと紹介されて、金を貸して欲しいと言ってきた。

 社会の道理を知らぬ小学生の鷹崎はこれを断固として拒否すると、さすがに中学生五人と小学生一人では、戦いにならない。

 完全に一方的にやられてしまう。

 この時、幾人かの人がすぐ近くを通り過ぎ、明らかにこの事態に気づいた人もいた筈なのに、誰一人として助けには来なかった。

 挙げ句、傷だらけで交番に寄って、事情を話しても保護者がいないからと取り合ってもらえず、晩に母親と訪れ、更にゲームセンター仲間に連絡するも、両親の意向により口を閉ざしたまま、その日にゲームセンターになど行ってはいないとの一点張り。

 最後には鷹崎にゲームセンターへ行こうと強要されていたとまで母親の目の前で言い放つ始末。

 嘆く母親を見ながら、少しの反省をしたが、翌日、学校に行くと教室内の机の配置が異様な光景に変化していた。

 鷹崎の机の周囲にクラスメイトの机がなく、完全に教室内で隔離され、口をきいてくれるものもなく、訳もわからないまま、授業参観日を除いて、担任も黙認したまま二年間を過ごすこととなる。

 この日以降、鷹崎はクラスを含むグループ行動をする事なく、何故か学級委員と学校代議員といういかにも親が喜びそうな肩書きをクラスメイト全員一致で賜り、不遇の小学校生活を余儀なくされるのである。

 もともとは、身から出た錆、嘘を付き、月謝を使い込み、塾をサボってゲームに興じた自分が蒔いた種、不思議な事にカツアゲを行使してきた中学生への憎悪と復讐心はあったが、自分を避けたクラスメイト達の気持ちは理解出来るような気がして、彼らを憎まなかった事は救いだったかもしれない。

 しかも、今のクラスメイトと同じ公立の中学校に行けば、同じ目に遭うかもしれないという怖さが、私立中学という新天地への逃避という形で勉強する目的が明確化されたのも幸いした。

 しかし、あの時に自分自身を守れずに辛酸(しんさん)苦汁(くじゅう)をタップリと舐めさせられた口惜(くや)しさは痛烈な感情となって鷹崎の心に傷痕を残した。

 正義の味方なんて都合のいい人物などこの世にはいない、自分を守れるのは自分だけ、それ以来、所謂ヒーローもののテレビを一切見なくなり、気が付けば、ノートの裏側に圧倒的大多数VS少数の戦史スケッチを描くようになっていた。

 信長も秀吉も家康も正しいから勝った訳ではない、腕力に長けていたわけでもない、しかし彼らが何故か正義の側にいるように見えるのは何故か?

 それは他でもない、強大な力を持っていたからだ。

 敗者の正義がこの世に存在していないのは歴史が証明している、少なからずこの先の未来で敗者の正義が認められる時が来るとしても、現在の正義とは勝利者が決めた思想や理想を正義と言っているだけで、過去においてはこの日本国家の中ですら、現代では考えられないような正義が正義として存在していたわけだから、自らの正義は力によって証明すべきもので、敗者が唱える正義など強大な力の前では寸分の効力も持たないということでしかない。

 誤った正義は更に強大な力を背景にした正義よって駆逐され、最も強大な権力を後ろ盾にした正義がその時点での正義となり、時の流れに伴い、パワーバランスが崩れた時に以前の正義は未来の正義としては残らない、つまりは現代の正義が過去においても正義であった訳ではなく、同様に現在の正義が未来永劫、万物不変の正義ともなりえないのである。

 鷹崎にとっての正義とは己の正義であって、社会の正義とは違う次元で成り立たせようとしている事も子供ながらに理解していた。

 さて、話は再び憂鬱ゆううつ極まりない、サラリーマン生活へと回帰する。

 その日も二人は背を向けたまま、業務に勤しんだ。

 例の如く、仕事の早い桜井は、鷹崎を残し、双子の女性事務員とともに愉快に笑いながら、プレハブ事務所から独特の甲高かんだかい声を廊下に響かせて、去っていった。

 「フンッ」サラリーマンとしての力は明らかに桜井の方が上だったことは汚職事件の告発によって失脚を目論んだことが失敗した時点で明白だった。

 …力こそ正義…、鷹崎の力では、正義が保てない。

 …未来にペンによって、裁かれたとしても、それは鷹崎の正義ではなく、会社か社会か、鷹崎自身の力ではない正義によって裁かれるだけの事で、それを是として凌げるほど寛大な人間ではないこともよく分かっている。

 …力こそ正義…

 そんな憂鬱な時が流れていく夜に慣れていく自分が嫌いになる。

「お疲れ様です。終わりました…お待たせしてしまって…」

 受付のカウンターの向こう側でこめかみから爽やかな汗を滴らせて、かなりイケメンの青年が積込確認伝票を鷹崎に差し出す。

「はぁ…遅いね、最近、特に遅いよ。」

毒付いた言葉が鷹崎の口から、平然と吐かれた。

「すいません。」

イケメン青年の同僚と思われる年上のトラックドライバーが何かを言いかけたのを、イケメン青年が明らかに視線で制した。

 こいつはここの運送屋の二代目か?所詮苦労知らずのボンボンなんだろう、道楽か趣味で家業を手伝って喜んでる類なんだろな。

 鷹崎の仕事は物流業、ロジスティクスというもの、カタカナ語にすると聞こえはいいが、要するに運送業で、業界の中ではほんの少しだけ名が知れた中の上クラスの会社、取引先として小さな運送会社を何社も駆使して業務を遂行していた。

 次の晩もその次の日の晩も、一番早く倉庫に戻ってきて、一番早く積み込みを始めても、いつも配達の伝票を受け取りにプレハブ事務所に戻ってくるのはそのイケメン青年の運送屋だった。

 ここで、運送業の仕組みの一端を説明する。

 普段、道行くトラックに積まれている荷物の殆どは「積置つみおきと言って、配達日の前日にトラックに積まれている。対して、配達当日の朝に積んで配達する事を朝積あさづみと言う。

 鷹崎が遅いと指摘しているのはこの積置きにかかる時間が長いと言っているのである。

 出荷量が増えるに従って、委託するトラックの台数は増え、積み込み時間は当然、積荷つみにに慣れてくるに従って早くなっていくのが、この業界では常であるにも関わらず、このイケメン青年が率いた運送屋は日に日に積み込み作業時間が遅くなっていくことに鷹崎はイラついていたのである。

 桜井が満面の笑顔で事務所を去った後、ただ漠然と積置きが終わり、配達用の伝票を手渡す為と金目の物など全くないプレハブ事務所の鍵を閉める為だけに取り残される事は変なプライドだけ高かった鷹崎にとっては屈辱的な業務だった。

 そしてある土曜日の夜、鷹崎の不満の矛先が偶々たった一人で配達伝票をプレハブ事務所に受け取りにきたあのイケメン青年に向けられて撃ち込まれた。

「あのさぁ、ビックハート運輸さん、オタクはいったい何時までオレの時間を拘束すれば気が済むのサ、普通は積み込み時間って慣れてくると早くなるモンなんだけど、あんたんとこはドンドン遅くなってるよ、どういう事?桜井が呼んだ業者だっていうから、オレも仕方なく今日まで我慢してたし、桜井が仕方ないって言うから、大目に見てきたけど、単なる残業代稼ぎにしか見えないよ。」

イケメン青年は申し訳なさそうな表情で黙ってペコリと頭を下げた。

「いやいや、謝って貰おうって思って言っってるんじゃないよ、これはビジネスでしょ、お互いにビ・ジ・ネ・ス。オレはビジネスパートナーとしてオタクはどうだろうって言ってるんだって。」

「お恥ずかしい…申し訳ありません。」

「あのサ、申し訳ありませんじゃなくて、何か改善する事を考えて欲しいって言ってるんだよ、わかる?他の業者さん達はみんな慣れて早くなってるんだから、オタクも少し勉強したらって言ってるんだって。」

 鷹崎はイケメン青年がシタテに出てくることに漬け込み、語気を強め、服従する相手に対して優越感すら覚え、この光景こそ得意先と取引先の関係、金を払う側と貰う側の主従関係、ビジネス界で力の成せる技だと思った。

「申し訳ありません。いつもいつも、お世話になっているのに御挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。私、こういう者です。」

 鷹崎は差し出された名刺を敬意もなく、無礼にも片手で受け取り、自分の名刺を返すこともなかった。

 …今更、名刺で自分の優位でも挽回しようってつもりか?「ビックハート運輸株式会社、営業部長、愛田康之?肩書きにビビルような鷹崎さんじゃないって、こんなボンボンに負けてたまるか!

「会社の営業部長さんがこんなんじゃまずいんじゃないの?」

「そうですね、御得意先様に御迷惑をおかけしてはいけませんよね。」  

「迷惑かけてるっていうのはわかってるんだ、じゃあどうすればいいかはわかるでしょ、もっともっと勉強してよ、今、御願いしてる仕事のこととか、品物の事とか積み方とか、いろいろ工夫して、もっと早く、オレが帰れるようにしてよ、そしたら感謝してあげるからサ。」

「そうですね、そう思っていただけるように、努力してみます。」

 鷹崎は完全な愛想笑いをしてわざとらしく頷いた。

「でも鷹崎さん、同じ業種をしている仲間として、言わせていただいても宜しいですか?」

「…仲間?ま、運送業同士ということでは仲間か、ま、いいや、どうぞ。」

「ありがとうございます。私達は桜井さんの御紹介で、この御仕事をいただいて、とても感謝しています。私達は御社から御荷物をいただいて、それを配達する事で生業なりわいをたてているわけですから、御社は大切な御客様です。だからこそ、御社の御迷惑になるようなことがあっては我々の糧である運ぶ仕事がなくなってしまう事は最も困るのです。」

「そりゃそうだ、それで?」

「御社で扱っておられる、荷主様の御荷物を運ぶことで御社は生業を立てておられるのですから、何かあって御社がその御荷物を失えば、それは我々も糧を失う、そうならない為に私の一存で弊社ドライバーに差し出がましくも御社で手配なさった、この仕事を初めてなさるトラックドライバーさん達の積み込みや検品作業を手伝うように指示しました。」

「は?手伝う?自分の会社じゃない人を?」

「ええ、何かあれば…例えば輸送中に積荷が崩れたり傷ついたり、間違えて運んだら、荷主様からの元請である御社が責任を問われますし、問題が大きくなればこの御仕事がなくなるかもしれません。私はこの業界でそんな場面を見てきました。だからこそ、この御仕事を続けていける、御社が受注していただけるように御手伝いすることが我々の明日の糧を得る為に必要であり当然だと思うのです。決して残業代を稼ごうなどとは思っていません。他のドライバー達も同様です。もし、そうお考えでしたら、恥ずかしながら、今日までの運送日報を御覧ください。残業にしないように記載していますから、今回のこの御仕事は我々としても是非、成功させたいですし、成功していただきたいのです。御理解いただけますか?」

 鷹崎の心中でただ大きいだけのくだらないプライドと優越感がブチ壊され、自らの世界感の小ささと、浅はかな考えと社会人としての器の違いを思いしらされた。

 泣けた、悔しいけど泣けてきた、本当に泣いた。

 そしてこの時、何より今まで全く無かった「運び屋」としての魂を灯された気がした。

 ようやく社会の日蔭、物流と呼ばれる業界で、まるで四方を壁に囲まれたような閉ざされた空間に壱輪の向日葵が根付き、人目に触れる事のない世界でその壱葉を地上に出した。

 鷹崎、二十五歳の春の出来事だった。






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