第三話 終了編 エピソードⅡ
先に死んでごめんなさい。
――――
――――
――――パチパチ
本来静を旨とする真夜中の住宅街に何かが弾ける不規則な音が鳴り響く。音は大小様々で、その聴覚的要素から音の発生源が遠近区々だということがわかった。住宅街という場所を考慮すれば昼間でさえその音は異質と認知されるもので、人々が寝静まるこのときであればそれは尚更のこと。さらにその異質さに拍車をかけるのは辺りの異常なまでの明るさだった。現在の時刻は深夜の一時を回っていて、普段であれば闇の中にある光は空に浮かぶ星か夜道を照らす街灯。あとは精々夜更かしをしている人々がいる家くらいだろう。しかし、今は違う。今は日常と全てが違う。音のことも明るさのことも、そして……
「望見ぃいいいいいいいい!!!!」
一番の違いは、僕たち愛沢兄妹の周りが真っ赤に燃え上がっているということに他ならなかった。僕たちの家を中心として、およそ半径二百メートルの建造物は全て火の海に飲み込まれていた。しかも住居はただ燃えている……いや、燃やされていたわけではなく、徹底的なまでに破壊された後に火を放たれていた。
およそ四十軒の住居を一夜にして破壊、そして燃やす。それは凡人には不可能、とまではいかないにせよそこに近い領域の行為だろう。と、同時にそれはたとえできたとしても態々やろうとは思わない行為だ。しかしそれが目の前で巻き起こされていたという事実は、実際のところ僕にとって何の意味もなかった。確かに近所の人達にはそれなりによくしてもらっていたし、その中には仲の良いクラスメートもいた。その人たちがおそらく死んでしまったのだろうと考えると、それなりに悲しい思いが胸の中から込み上げてくるし、さらに冷静に考えると、普通の人間なら先に述べたようにできたとしてもあらゆる意味で労力がかかりすぎるこのような行為を行うはずがない――つまり、それは自動的にこの許されざる行為を行った何者かは少なくとも普通の人間ではないということを意味している。その普通の人間ではない何者かが、今も僕たちの近くにいるという可能性は決して否定することはできないのだ。
そう、冷静に考えれば怖いのだ。冷静に思考を巡らせれば、何の力も持たない僕は今すぐこの場から逃げなければならないのだ。
冷静に、
レイセイに、
れいせい……に、
「お、に……ち…………ん」
――――ドクンドクン
固い瓦礫の上で仰向けに倒れている所為か、口内に大量の水分が溜まってしまっている望見はとても喋りにくそうだった。僕はその望見の呼びかけにあえて答えないで、その代わりに彼女の自慢の長い髪を優しく梳いてあげた。彼女は少し恥ずかしそうに顔を青ざめさせたが、すぐに息苦しくなって体を盛大に震わせて咳き込んでしまった。
僕の顔に多量の血が付いた。
それを見た望見は小さく、本当に小さく、僅かに唇を動かしてごめんね、と……もちろん僕はその言葉に否定の意を込めて首をゆっくりと横に振った。当たり前だ。愛する人の、妹の、愛沢望見の鮮血なのだ。僕にとってその一滴は聖水よりも清く、神よりも尊い物。嫌に思うはずがない。
望見はもう死にそうで、正直言って助かる見込みなど皆無だった。だからより正確に表現するのならば死にそうなのではなく、たった今この瞬間に望見は死んでいっていると言った方が正しかった。完了ではなく進行形で死んでいて、もうすぐ過去形で死んだと言われてしまうほどの状態。その状態の最たる原因だと思われる傷は、白のネグリジェの純白を紅く染め上げることでその位置を示していた。兄という身内の立場の僕がいくら誇大に評価して見たとしても決して大きいとは言えない望見の未成熟な胸部。そこを左上から右下にかけて走る太い血の線は今もその範囲を着実に広げていた。傷から流れる夥しい量の血液は傷の大きさを物語っていると同時に、最悪のシナリオも物語っていたのは言うまでもない。あまりにも血の量が多いので直接その傷口の深さを視認することはできないが、この血の泉を見た者であれば誰もが衣の下に酷い致命傷があることを想像できるだろう……本当はそんな醜悪な想像など微塵もしたくないのだけれど。
しかし、皮肉(皮肉という言葉が皮と肉という字を使うのがまた忌々しいことだ)なもので、その傷の深さのおかけで血溜まりの底にある生々しい臓器を見ないで済んだことは、おそらく僕にとっては大きな幸運であったのだろう。もしも傷口が見えてしまっていたら、僕はとてもじゃないが耐えられなかったと思うし、妹の死に目で取り乱していたりしたら、それはもう本当に取り返しの付かないことになっていた。大きな幸運。望見が死ぬのは最低最悪の事態であることは全く揺るぐことはないが、世界には中の上という表現の仕方があるように、最低の中の最高という状況もごく稀に存在することがあるのだ……それも僕としては大いに忌々しいところだが。
「あ、あ……うぅ……ああ」
望見がゆっくりと手を真上に伸ばして何かを探し始めた。多量の出血で目が霞んでいるようで、しばらく力無い手は宙を彷徨っていましたが、その手が僕の顔に触れると彼女はにっこりと笑い、顔に付いている血を塗りたくるように頬を撫で回した。
ああ、
今、僕の肌に望見の血が、
妹の生きていた証が刻み込まれていく。
僕にとって何よりもどんなものよりも価値あるものが、
愛する人の手により刷り込まれていく。
「お、に……ゴホゴホ、うぁあああ」
また……咳き込んだ。しかも今度はほとんど血が出ないで、乾いた咳だけが深夜の炎場に響き渡った。さらに望見の血で生温かかった手が、急激に冷たくなっていくのを僕の肌は鮮明に感じ取った。僕は恐怖した。恐怖し狼狽し、最終的に僕は望見の前で涙を流すという痴態醜態を晒してしまった。そう、僕は初めて望見の前で泣いたのだ。兄は妹の前で泣いてはいけないのに、僕は望見の前では泣くまいと決心していたのに泣いてしまったのだ。流れ落ちた涙が望見の頬に落ちて弾け飛ぶのを見ると、それだけでまた望見の体温が奪われていくようで、だから必死に涙を止めようと思ったけれど、すでにここまで感情の波が押し寄せてきてしまうと、もうそれを自分で制御することなどできなかった。
ここは、
ここは、謝った方が良いのだろうか。
こんな、こんな兄で申し訳なかった、と。
「さ、きに…しん、で……ごめ……」
――――先に死んでごめんなさい
ああ……嗚呼……もういいだろう愛沢臨夢。もう十分だろう。もう退屈な未来の所為にするのはやめにしよう。目の前の双子の妹である前に一人の少女である愛沢望見が、自分の死を前にして自分の苦しみを謝っているのだ。それに、その途方もない狂気すら軽々凌駕した愛に、心が震えないはずがないじゃないか。もう迷う必要なんてこれっぽっちもないじゃないか。大切な者はいつだって唯一つ。それだけあれば、いや、それさえなければ僕はここまで生きてこなかったんじゃないか。
望見こそ僕の全価値だ。こんな最悪な結末を迎えてからでしか決心できない自分がほとほと嫌になるが、それでも決心したからには……もう迷わない。迷うことは許されない。
「望見……ねぇ、望見。苦しいだろうけど目を開けて。僕さ、初めて言うけど、望見のこと大好きなんだよ。すっげぇ好きなんだ。陳腐でありふれた言葉だけど、妹として家族として女として人間として存在として僕はお前のことが世界で一番好きなんだよ」
「ぅあ、あ、ああ、んむ!」
望見は僕の告白を聞いて驚き、呆け、そしてすぐに泣き始めてしまったが、残念ながら僕はそこで攻めの手を緩めるような優しい兄ではなかった。先程まで荒い息遣いをしていた、しかし今はただ少量の空気が漏れているだけの唇。呼吸することすら難しい瀕死の重傷を負っている人間にそのような行為をすれば死期を早めるだけだということは誰の目にも明らかだ。もちろん僕だって望見には一分一秒でも長く生きていて欲しいと願っている。でも十三年間抱き続け隠し続けた想いは止めらない……ということで、さて望見が十三年間守ってきたものを一つずつ奪っていくとしよう。
「ぴちゃぴちゃ、ちゅるるるる……んはぁ!」
実妹との濃厚な接吻
禁断の果実は何となく感覚として甘酸っぱさを予想していた。何といっても果実なのだから。しかし、実際口の中を支配したのは粘性に富んだ血の味で、お世辞にも美味しいものではなかった。ただ、それでも口を介して流れ込んでくる鉄の味を僕は堪能し、そして吸血鬼の如く夢中になって血を吸い続けた。
――――ドクン、ドクン
「のぞみぃ、好きだよ、愛してるよ」
望見の血を飲んでいると考えただけで、自分がどんどん猛っていくのがわかった。鼓動は先ほどから五月蝿いくらい大きく聞こえていて、下半身は節操なく張り詰めてしまっていた。頭がボーっとする。妹の血。望見の血。最愛の人が生きていた証。それを全て自分が奪っている。望見を自分の物の如く好き勝手に蹂躙している。そしてそれを望見が余すことなく受け止めてくれている。必死……必ず死ぬと頭で理解しているはずなのに、最期の最後まで口を離して呼吸をしようとしない望見。愛している。けれどそれ以上に愛されている。心が震えた。奥底の方から震えた。それが尋常ならざる愛への歓喜の為なのか、それとも刹那の後に訪れる妹の死という絶望の為なのかは分からない。そもそも冷静な判断など、この事態に陥った時から放棄してしまっていたため、僕の頭の中は全てのことがあやふやで曖昧なのだ。そのような僕に良識と真実と節度という概念を理解できるはずがない。ない。ない。ないのだが、それでも僕はもう迷わないと決めた。決めたんだ。神を差し置いて、妹の前で跪き心を決めたのだ。
たとえそれがどんなに非道な行為を含もうとも、
たとえそれがどんなに激しい痛みを伴うとしても、
たとえそれがどんなに非倫理的道徳的であったとしても、
たとえ
たとえ
たとえ
たとえ
どんなに
どんなに
どんなに
どんなに
――――ヒドウデゲドウデイタクテクルシクテリンリヤドウトクガハタンシテシマッタトシテモ
ボクハキメタ。
ユエニマヨワナイ。
その日僕は妹を殺しました。
この唇で。
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