壁の向こうのタップ音
ト・ト・ト……ツー・ツー・ツー……
深夜二時三分。静まり返った六畳間のアパートに、その音が低く響き渡った。
ノートパソコンの液晶画面から放たれる青白い光の中で、キーボードを打っていた俺の手がピタリと止まる。
薄い石膏ボードの壁越し――右側の302号室との境界線からだ。
硬い爪か、あるいは乾燥した木の先端で、壁を内側から強く小突いているような、不快に乾いた打撃音。
ト・ト・ト……ツー・ツー・ツー……
「くそッ……また始まりやがった……」
俺はキーボードの上に突っ伏し、重い眩暈に耐えながら両耳を強く塞いだ。
こめかみの奥がドクドクと脈打ち、激しい頭痛が視界を白く染めていく。
俺の名前は村上拓海、都内の大学に通う二年生だ。
来週の月曜日に提出期限を控えている「近代社会学概論」の最終レポート。これの単位を落とせば、進級は絶望的になる。集中して一気に書き上げるため、静かで格安な物件を求めてこの築三十五年の木造アパート『サンハイツ』の301号室に引っ越してきたのが一ヶ月前のことだった。
だが、静寂が得られたのは最初の数日だけだった。
この半月ほど、夜の二時を迎えると決まって、右側の壁からあの音が響き始めるのだ。
右隣の302号室に住んでいるのは、吉岡という名の老人だった。
白髪交じりの薄い髪を後ろに撫でつけ、いつも使い古した灰色のカーディガンを着ている。引っ越しの挨拶に伺った際、ドアをわずかに開けた吉岡は、俺の顔を見るなり「……若い奴の足音やドアの開閉音は骨に響く。静かに暮らせ」とだけ吐き捨て、ドアを乱暴に閉めたのだった。
昼間にアパートの共有廊下ですれ違っても、こちらが気まずそうに会釈をするのを、虫唾が走るような目で見下ろして無視して通り過ぎる。そんな偏屈で気難しい男だ。
「俺が夜中にレポートを打つタイピング音が気に食わないから、嫌がらせで壁を叩き返してるってのか……?」
俺はノートパソコンの天板を静かに閉じ、部屋のLED証明をリモコンで消消した。
部屋は一瞬にして漆黒に包まれる。
自分が音を出しているから叩き返されるのだとしたら、こちらが完全に息を潜めれば、相手も叩くのをやめるはずだ。俺は布団の上に体を横たえ、息を殺して壁の向こうの気配を伺った。
しかし、俺の期待はあっけなく打ち砕かれた。
暗闇の中でも、壁の向こうのタップ音は少しも止む気配を見せなかった。
一定の速度、一定の強さ、一定の間隔。
まるで精密な機械の歯車が刻む音のように、無機質な打撃音が延々と薄い壁を揺らし続けている。
一度気になり始めると、脳がその音だけを過剰に拾い上げてしまう。壁のすぐ裏側に誰かが立ち、暗闇の中でジッと壁を見つめながら指先で叩いている光景が脳裏に浮かび、背筋に冷たい汗が伝わった。
◇◇◇
一週間が経過した。俺の睡眠時間は連日二時間を切り、目の下には濃いクマが刻まれ、まぶたが重く痙攣していた。
昼間の大学の講義中も頭が霞み、教授の声が遠くの雑音のように聞こえる。このままではレポートが完成しないどころか、俺の精神が参ってしまう。
もう直接文句を言いに行くか、管理会社に泣きつくしかない。
だが、何の証拠もなく「隣の老人が夜中に壁を叩いている」と訴えたところで、「若い大学生の被害妄想だ」と片付けられるのが関の山だ。吉岡老人のあの偏屈な態度を考えれば、しらを切られるに決まっている。
「証拠を突きつけてやる。逃げられないくらいの明確な録音データを取ってやるんだ」
俺は決意を固め、深夜一時四十五分、スマートフォンの録音アプリを立ち上げた。
自室のベッドに膝立ちになり、右側の壁――吉岡の部屋と接している石膏ボードの表面に、スマホのマイク部分を力任せに密着させる。
午前二時ちょうど。やはり、始まった。
ト・ト・ト……ツー・ツー・ツー……
手首を通して、不快な微振動がスマホから俺の腕へと伝わってくる。俺は歯を食いしばりながら、その体勢のまま十分間じっと耐え続けた。
録音を終了し、スマホの画面を操作して保存された音声を再生する。
『……ト・ト・ト……ツー・ツー・ツー……』
スピーカーから流れる音は、雑音を含みながらもはっきりと記録されていた。これで管理会社に証拠として提示できる。そう思って胸を撫で下ろしかけた、その時だった。
録音された音声をじっと耳で追っているうちに、俺の胸の奥で、奇妙なザワつきが生まれ始めた。
(……なんだこの音? ただ暴れて壁を叩いてる音じゃない……)
音の鳴り方に、異常なまでの規則性があった。
ト・ト・ト、という短い音が三回。
続いて、ツー・ツー・ツー、という少し引き延ばされたような間隔の音が三回。
そして再び、ト・ト・ト、という短い音が三回。
それが終わると、正確に三秒間の「静寂」が挟まれ、また最初から全く同じパターンが繰り返される。
「短点……長点……短点……?」
記憶の奥底、遠い昔の景色が突如として脳裏に蘇った。
小学生の時、ボーイスカウトの夏季キャンプに参加した際、指導員のおじさんから教わった「非常時の合図」の知識。
(……まさか、これ……モールス信号か!?)
背中に冷や汗が吹き出した。
俺は急いでスマホのブラウザを開き、「モールス符号 五十音 一覧」と検索窓に打ち込んだ。
画面にずらりと並ぶ、点と線の組み合わせ表。
俺は机の引き出しからノートとペンを引っ張り出し、より正確に音を聞き取るために、普段からオーディオ鑑賞用に使っている密閉型の高音質ステレオイヤホンを取り出した。コードをスマホのジャックに差し込み、耳に装着する。
再生速度を0.75倍のスローに設定し、イヤホンから流れる微小な音の長短に全神経を注いだ。
ペン先が紙の上で跳ねる。
音の短点を「・」、長点を「-」として紙に書き写していく。
* `・ -- ・`
* `---`
* `・-・`
* `・-・-`
五十音の対応表と、自分が書き殴った記号を交互に見比べる。
対応するひらがなを、一文字ずつ記号の下に書き加えていった。
`・ -- ・` ⇒ 【タ】
`---` ⇒ 【ス】
`・-・` ⇒ 【ケ】
`・-・-` ⇒ 【テ】
「……タ……ス……ケ……テ……」
自分の声が、ガタガタと震えていた。
息がうまく吸えない。
「助けて」。
壁の向こうで鳴り響いていたあの不快なノック音は、俺への嫌がらせなどではなかった。
吉岡のじいさんは、部屋の中で突然持病か何かで倒れ、体を動かすことも声を出すこともできなくなり、意識が遠のく中で必死に手に持った何かで壁を叩き、隣部屋の俺にSOSを送り続けていたのだ。
「俺は……俺はなんてことを……!」
半月もの間、俺はこの悲痛な叫びを「うるさい嫌がらせ」だと決めつけ、イヤホンで耳を塞ぎ、無視し続けていたのだ。もしあのじいさんが死んだら、俺が殺したようなものじゃないか。
激しい罪悪感と動悸が胸を押し潰す。俺は震える手でスマホを操作し、110番通報のボタンを押し込んだ。
◇◇◇
「はい、110番警察です。事件ですか、事故ですか?」
「助けてください! 隣の部屋の人が倒れてます! モールス信号で救助を求めてるんです! 早く来てください、302号室です!!」
狂乱状態で叫ぶ俺の通報から十五分後。サイレンを消したパトカーがアパートの階下に滑り込んできた。
階段を激しい足音で駆け上がってきたのは、二人の警察官だった。一人は中年で頑固そうな警部補、もう一人は若い巡査だった。続いて、警察からの連絡を受けたアパートの管理会社の担当者・佐藤という男も、青ざめた顔で鍵を手に走ってきた。
「君が通報者か? 隣の部屋から音が聞こえたというのは本当だな?」
「本当です! 毎日深夜二時になると壁を叩く音が聞こえるんです! 解読したら『タスケテ』って……!」
「分かった、落ち着きなさい」
管理会社の佐藤氏が、手震わせながらマスターキーを302号室のドアノブに差し込む。
カチャリ、と重い金属音が夜の廊下に響き、ドアがゆっくりと内側へ押し開けられた。
次の瞬間。
「うぐっ……!!」
若い巡査が咄嗟に鼻と口を袖で覆い、後ろへ跳びのいた。
ドアの隙間から押し出されてきたのは、生臭く、油が腐り落ちたような、到底この世のものとは思えない凄惨な腐敗臭だった。
「君はここで待っていなさい!」
中年の警部補が懐中電灯を引き抜き、腐敗臭の充満する真っ暗な302号室の中へと踏み込んでいく。
数分後。廊下に戻ってきた警部補の顔は土色に変わっていた。彼は小さく溜め息をつき、管理会社の佐藤氏と俺に向かって重い口を開いた。
「……孤独死ですね。コタツの横で倒れておられました。遺体の痛みの状態から見て……死後、少なくとも二週間から三週間は経過しています」
「……は?」
俺の頭の中が、真っ白に染まった。
二週間……? 死後二週間以上……?
「そんな……そんなはずありません!!」俺は叫んでいた。「だって、今夜も叩いてたんですよ!? 昨夜も、一週間前も! 毎日二時になったら叩いてたんです! ほら、これがその録音データです! 聴いてくださいよ!!」
俺はスマホを警部補の目の前に突きつけた。しかし、警部補は哀れむような、困惑した目つきで俺の肩を優しく叩くだけだった。
「いいですか、村上さん。死後二週間が経過したご遺体が、壁を叩くことなんて物理的に不可能です。恐らく……古い木造アパート特有の、配管内の水圧変化によるウォーターハンマー現象か、家鳴りでしょう。あなたが睡眠不足と卒論のストレスで追い詰められて、それをSOSの音だと勘違いしてしまったんですよ」
「違います!! 配管の音なんかじゃない!!」
「もう遅いですから、今夜は暖かくして休みなさい。現場検証が入りますから」
警察官たちはそれ以上俺の言葉に耳を貸そうとせず、淡々と事件性の有無を確認する手配を始めた。管理会社の佐藤氏も「驚かさないでくださいよ……」と呆れたように溜め息をついている。
ウォーターハンマー現象。精神的ストレスによる聞き間違い。
世間的には、それで全ての説明がつくのだろう。
「自分が疲れていて勘違いをしただけだ」と思い込むことができれば、どれほど楽だろうか。隣の老人が苦しみながら死んでいったわけではないと安心し、この不気味な事件から逃げ出すことができる。
――だが。
あの規則正しく刻まれた「タ・ス・ケ・テ」の符号が、単なる配管の破裂音や家鳴りなどで偶然出来上がるはずがないことくらい、俺の理性が一番よく理解していた。
俺は逃げることをやめた。自分の耳で、あの音の真実をもう一度確かめることを決意した。
警察官たちの制止を振り切り、俺は自室の301号室へと戻り、乱暴にドアを施錠した。
部屋の中は静まり返っていた。隣の現場検証の話し声が、壁越しに遠く低く聞こえるだけだ。
俺はベッドの上に座り込み、耳に装着したままだった高性能ステレオイヤホンのプラグをスマホに深く差し直した。
先ほど録音した十日間の音声データ。それを、ノイズキャンセリング機能を最大にし、左右の音の定位(ステレオの音像)を完全に強調する設定にして再生ボタンを押した。
『……ト・ト・ト……ツー・ツー・ツー……』
高音質なイヤホンが、録音された音の「微小な空気の振動」までを克明に俺の鼓膜へ描き出していく。
その音を追っていた瞬間、俺の全身の毛根が一斉に逆立った。
音が、違う。
ステレオイヤホンが再現した「音の発生源の位置」。
302号室があるのは、俺の部屋の「右手側」だ。
もし右の壁から音が鳴っているのだとすれば、イヤホンの右チャンネル(右耳)から強く音が聴こえなければおかしい。
しかし――イヤホンから流れるタップ音は、左右均等の音量で、「真下」から響いていた。
右の壁からじゃない。
この音は、俺がスマホを壁に押し当てて録音していた時、スマホのマイクが拾っていたのは壁の音ではなく……【俺が座っていたベッドのフレームの振動】だったのだ。
「あ……あ……」
喉から掠れた悲鳴が漏れた。
さらに、俺は致命的な符号の解読ミスを犯していたことに気づく。
イヤホンの精密な音響で聞き直すと、「タスケテ」と解読した四つの符号の直後に、ごく小さな音で、もうひとつの符号が付け加えられていたのだ。
`・ -- ・`
`---`
`・-・`
`・-・-`
ではなく。
* `--・-・`
* `・--・`
* `・-・`
* `・-・-`
一文字目の短点だと思っていた音は、不純なノイズだった。
本当の符号は「ミ」。
タ・ス・ケ・テ、ではない。
「ミ・ツ・ケ・タ」
◇◇◇
頭の中のパズルが、最悪の形で結びついた。
吉岡のじいさんなど、最初から全く関係なかったのだ。
二週間前に死んでいた吉岡の部屋から音が鳴るはずがない。
最初から、この音を出していた「何か」は、俺の部屋の中にいたのだ。
俺が引っ越してきてからこの半月間、毎夜二時になると、俺の真下――ベッドの底の暗闇の中に身を潜め、俺が気づくまで「ミツケタ、ミツケタ」と木枠を叩いて合図を送り続けていたのだ。
そして今、俺がその意味を理解したことを、奴は悟った。
ギィ……と、足元の暗闇から、湿った布がゆっくりと擦れ合うような生暖かい音が聞こえた。
直後。
ト・ト・ト……
薄いマットレスを通り抜け、俺が腰掛けている真下から、ベッドの木枠を直接内側から叩く乾いた振動が、お尻から背骨へと突き刺さるように伝わってきた。
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