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鳴子の朝、坂の街

 夏の始まりを告げる雨上がりの朝、帯屋町商店街のアーケードに木の鳴子が吊られていた。

濡れた路面にポツンと落ちる水滴の音と、鳴子が風に揺れて擦れる微かな音が重なる。

 誰もいない早朝の商店街で、その音を聞いていたのは十七歳の坂本海斗だった。

彼は学校に向かう前に、いつもより早く家を出て、駄菓子屋のシャッターに貼られたポスターを眺めている。


「高知の未来を描け!」


 ポスターの大きな文字が踊り、その横に高校の美術部展覧会の日程が書かれていた。

雨で少しにじんだ色紙の上で、赤い鳴子の写真だけが鮮やかに残り、海斗の目を引いた。


「今日も坂、登るのか……」


 彼はポケットから小さなスケッチブックを取り出し、鳴子の形を走り描きする。

紙をめくると、昨日描いた学校前の坂や商店街の屋根が顔を出す。

濡れたアスファルトの質感と、アーケードを支える鉄骨の影だけで何枚もページが埋まっていた。

 半分癖になった坂のスケッチは、雨で濡れた現在の商店街と重なって見えた。

鉛筆を握り直し、今日も学校の坂道を登る決意をする。


 坂道は、朝から湿度と熱気をまとっていた。

制服のシャツはすぐ背中に張りつき、靴の中で靴下がじわりと重くなる。

それでも海斗は歩幅を崩さず、校舎の奥にある美術室を思い浮かべる。


「遅刻するなよー、坂本ー!」


 背後から自転車のベルと共に声が飛ぶ。

振り向くと、同級生が笑いながら坂を駆け上がっていく。

海斗は苦笑し、再び前を向いた。


 美術室の扉を開けると、油絵の匂いと湿った木の匂いが鼻をくすぐった。

窓の外には校庭が広がり、まだ朝の光は柔らかい。

扇風機の羽根がゆっくり回る音が、部屋の時間をゆるやかにしている。


「おはよう、坂本。早いじゃない」


 顧問の小松原先生が、麦茶の入ったマグカップを手に振り返った。

髪をゴムでざっくり結び、机の上には油絵の具と参考写真が散らばっている。


「ポスター、見てきたんですよ。鳴子が雨に濡れてて、ちょっとかっこよかった」


「ほう、それはスケッチしたのか?」


「はい。あとで見せます」


 海斗がスケッチブックを机に置くと、部長の三枝さやが静かに入ってきた。

肩までの髪を耳にかけ、分厚いスケッチブックを脇に抱えている。


「先生、額縁のサイズ足りないですよ。昨日の発注、届いてない」


「そうだった。今日は職員室に電話するか……坂本、ちょっと付き合って」


 さやは机の端に腰掛け、海斗のスケッチを覗き込んだ。


「また坂? 好きだね」


「癖みたいなもんです」


「癖になるなら描けばいいじゃない。展覧会の一枚、坂でいくの?」


 さやの声は穏やかだが、瞳は企画を練るとき特有の鋭さを帯びている。

海斗は少し照れ笑いしながら、ポスターに描かれた鳴子をもう一度思い出した。


 そこへ後輩の西村ほたるが、両手いっぱいに画材を抱えて飛び込んでくる。


「センパイ、今日の写生どこ行きます? 商店街ですか? 坂ですか?」


「おはよう、ほたる。まずは商店街で鳴子を描こうか」


「やった! 駄菓子屋さんの前で描きたい。ついでにラムネ買って帰ってもいいですか?」


「こら、課外費でラムネ買う気か」


 先生が笑いながら突っ込み、ほたるは舌を出して見せた。

美術室に笑い声が広がり、扇風機の音と混ざって心地よいざわめきになる。


 午前の授業が終わると、海斗たちはスケッチブックを抱え、帯屋町へ向かった。

アーケードの下は雨上がりの匂いが残り、店先では店主がモップで水を払っている。

鳴子の吊り飾りがまだ湿っていて、触れるとひんやりしていた。


「鳴子って、近くで見ると意外と傷だらけですね」


 ほたるが指で撫でると、木目に細かい傷が入っている。


「毎年の祭りで振られてるんだろうな。音が少し丸いのはそのせいかも」


 海斗は鳴子をスケッチし、軸に刻まれた小さな傷まで写し取った。

さやは少し離れた場所で、商店街の天井を支える鉄骨のリズムを描いている。


「坂本、こっちから見ると、天井のラインが坂みたいに見えるよ」


「本当だ。じゃあ、坂と鳴子、両方入れてみよう」


 彼らは行き交う人々の足音を背に、同じ景色を違う角度から描き込んでいく。

駄菓子屋の老夫婦が笑いながらラムネを差し出し、ほたるが嬉しそうに受け取った。


「センパイも飲みます? ビー玉、うまく落とせるかな」


「昼休み終わる前に戻るぞ。ほたる、ビー玉は落としてから走れ」


 海斗は笑い、炭酸の音を遠くに聞きながら鉛筆を走らせた。

鳴子の音、雨上がりの匂い、ラムネの泡——どれも、彼の坂のスケッチに混ざっていく。


 午後の授業を終え、再び美術室に戻ると、窓から西日の光が斜めに差し込んでいた。

石膏像の肩に橙色の帯が走り、画用紙の白が温かく染まる。

扇風機の風は相変わらず遅いが、部屋の空気はどこか満たされている。


「坂本、今日はこれで終わり? それとも、桂浜行く?」


 小松原先生が声をかける。


「桂浜、行きます。夕方の光、好きなんで」


「なら、気をつけて。日が落ちる前に戻りなさいよ」


 さやが肩をすくめた。


「また坂と海、描くんだ。飽きないね」


「飽きないよ。坂は毎日違うし、海も毎日違うから」


 ほたるが手を振る。


「おみやげに貝殻くださいね! あと、夕陽の色もメモにして!」


 海斗は苦笑しながらスケッチブックと鉛筆を鞄に入れた。

校舎の外に出ると、まだ熱が残る空気が頬を撫でる。

坂を下りる足取りは軽く、心の中には朝の鳴子の音が鳴り続けていた。


 桂浜へ向かうバスの窓から、街の景色が流れていく。

帯屋町のアーケード、はりまや橋、住宅街の屋根、遠くに見える高知城の石垣。

どこにも鳴子の赤が点々と揺れ、彼の視線を引いた。


 砂浜に降り立つと、潮の匂いと、昼間の熱を含んだ砂の感触が足元から伝わる。

波の音と鳴子の余韻が混ざり、遠くで子どもたちの笑い声が響く。

海斗は岩場の陰に腰を下ろし、スケッチブックを開いた。


「今日は、どんな坂を描こう」


 彼は鉛筆を握り、沈みかけの太陽に照らされた海を見つめた。

桂浜へ続く坂も、商店街の坂も、描くたびに表情を変える。

 鳴子の音に背中を押されるように、手は動く。


 桂浜の水平線は、まっすぐで、どこまでも続いている。

その先に何があるのか、海斗にはまだ分からない。

ただ、描きたいものが多すぎて、ページが足りない。


 夏の光はゆっくりと傾き、砂浜の影を長く伸ばした。

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