亡日 〜全文まとめ読み完全版〜
『私は貴方を愛せてたのか、それとも愛せてなかったのだろうか』
第一章 歪な日常
朱音類は、私の彼氏だ。
放課後、一緒に帰ったり、休日に本屋へ行ったり。そういう「恋人らしいこと」は確かにしている。
でも――どうしてだろう。
私は彼を「好き」だと思えているのだろうか。手を繋ぎながら、胸の奥が空っぽのままなのを、どうしてもごまかせない。
学校の裏庭に行くと、あの三毛猫がいつもいる。名前なんてないはずだけど、勝手に「ミケ」と呼んでいる。
今日もミケは、ベンチに座る私の足元にすり寄ってきた。
「……あんたは、いいよね。何も求めないでいてくれる」
差し出した指先に、温かい舌が触れる。無条件で寄り添ってくれるその姿に、ほんの少しだけ息が楽になる。
けれど病院では、そんな安らぎは通じない。
診察室の机の向こうで、篠原先生はカルテを閉じて言った。
「緋色さん、君は治る気があるのか? そんな顔で来られても、こちらも困る」
私は答えられなかった。
治りたい。けど、どうしていいのか分からない。分からない私が悪いのだろうか。
ただ、頭を下げるしかなかった。
類と過ごす放課後。
ミケと交わす沈黙の会話。
病院で突きつけられる冷たい言葉。
それら全部が私の日常で、けれどどこか歪んでいる。
――私は本当に、彼を愛せているのだろうか。
第二章 わずかな救い
夜、部屋の灯りだけを点けてスマホを握る。
現実の誰にも言えない言葉を、私はSNSの小さな画面に打ち込む。
――「私、彼のことを愛せているか分からない」
投稿してからしばらくして、ラベンダーから返事が届いた。
『愛って、必ずしも“好き”とか“ドキドキ”だけじゃないと思う。隣にいて、安心できるなら、それも愛の一つだよ』
『君は壊れてなんかいない。ただ、疲れているだけだ』
文字を追うたび、胸の奥に温かさが広がる。
けれど同時に、画面を閉じた瞬間、その温かさが霧みたいに消えていくのも知っている。
私はやっぱり、何も変わらない。
机の上には、類のノートパソコンが置きっぱなしになっていた。
ふと気になって、彼が投稿している小説を開いてみる。
そこには、不器用だけれど必死に誰かを支えようとする登場人物がいた。
まるで、私を想って書かれたみたいに。
「……あんた、こんなに頑張ってるのに」
呟いて、画面を閉じた。
胸がぎゅっと痛くなる。
――応えられない。愛そうとする気持ちを、私は受け止めきれない。
ラベンダーの優しさも、類の想いも、全部私の手のひらからこぼれ落ちていく。
救いはあるはずなのに、それを掴めない自分が一番の罪人みたいに思えて、息が詰まった。
第三章 崩壊
類の言葉は、刃物よりも鋭く胸に突き刺さった。
「……君、やっぱり俺のこと好きじゃないんだろ」
放課後、校門の前。いつもの帰り道で、唐突にそう告げられた。
「努力はしたよ。でも、笑ってくれない。手を握っても、遠くにいる気がする」
彼の声は震えていた。怒っているのではなく、泣き出しそうなほどに。
私は言葉を返せなかった。返そうとすればするほど、自分の空っぽが露わになりそうで。
――私は、本当に、彼を愛していないのか。
問いを口にできないまま、背を向けた彼の後ろ姿を見送った。
その帰り道、学校の裏庭を覗くと、ミケの姿がなかった。
昨日まで毎日のようにそこにいたのに。
胸がざわついて、翌朝も、翌日も探した。けれど、ミケは戻らなかった。
ある日、通学路の交差点に小さな花束が置かれているのを見つけた。
……分かってしまった。
「嘘、でしょ……?」
膝が震え、視界がにじんだ。私を無条件で受け入れてくれる唯一の存在さえ、消えてしまった。
病院に行っても、何も変わらなかった。
篠原先生はカルテに目を落としたまま、冷たい声で言い放つ。
「彼氏を大事にできないのは、君の病気のせいだよ。普通の子なら、もっと上手くやれる」
その言葉が決定的だった。
――やっぱり、全部私が悪いんだ。
彼を愛せないのも、猫を救えなかったのも。私が壊れているせい。
帰り道、街はやけに明るく見えた。
人々の笑い声が、耳を刺す。
私には届かない光の中で、私は確かに、独りだった。
第四章 亡日
夜の闇は、いつもより重かった。
ベッドに寝転び、スマホの画面を開く。
ラベンダーに送ろうとしたメッセージは、最後まで打ち切れずに止まったまま。
――「愛せなかった。でも……話を聞いてくれてありがとう」
指先が震える。送る勇気も、返事を待つ余裕もないまま、ただ画面を握りしめていた。
窓の外には、街の明かりがぽつぽつと灯っている。誰も私のことなんて、考えていない。
類の小説を開く。
そこには私に似た少女が、必死に誰かを愛そうとする姿が描かれていた。
必死に、でも届かない。
まるで私そのものだった。
胸が締めつけられ、息ができなくなる。
涙は止まらなかった。
そして、もうこれ以上、自分を責めることも、愛せない自分を抱え続けることも、耐えられないと思った。
翌朝――ラベンダーが、心配して私の家を訪れた。
以前、現実で会ったことがある。だから住所も知っていた。
呼びかけても返事はない。ドアを押すと、重く閉ざされた空間の中に、私が横たわっていた。
机の上には、閉じられたスマホと、読みかけの類の小説。
未読のメッセージが光っている。
それを見て、ラベンダーはただ立ち尽くした。
――私の最後の日々は、こうして誰かの目に残った。
けれど、愛せなかった私は、もう戻らない。
終章 ラベンダーの甘い香り
君は、SNSで出会った私に、たくさん悩みを話してくれたね。深夜に長いメッセージを送ってきて、時々は電話で泣きながら相談してくれたこともあった。
そして、一度だけ現実で会って、君はいつもの笑顔を見せながら、でもどこか影のある声で悩みを打ち明けてくれた。あの日のこと、今でも鮮明に覚えている。
……でも、二度目に君に会う日が、こんな形になるなんて思わなかった。
メッセージに既読がつかなくなって、心配になって、何度も送って、それでも返事がなくて。
嫌な予感がして、思い切って君の家まで行ったら――そこにあったのは、冷たくなった君の姿だった。
「ごめんね……もっと早く来るべきだった」
何度もそう繰り返しながら、私は君の隣でめいっぱい泣いた。
君の彼氏さんも、静かに泣いていたよ。
あのときのラベンダーの甘い香りだけが、妙に鮮やかに胸に残っている。
君が好きだと言っていた香りなのに、今はただ、苦しくてたまらない香りにしか感じられない。
1. 精神疾患の描写について
具体的な診断名は明示されていないが、緋色が抱える症状はうつ病や抑うつ状態に近いと考えられる。
主な症状として、
感情の喪失感(「胸の奥が空っぽ」)
自己否定、罪悪感
意欲の低下、無力感
他者への愛情が持てない(愛着障害的側面)
希望が見えない精神状態
症状はうつ病、重度の抑うつ状態、あるいは境界性パーソナリティ障害の一部症状に類似。
2. 医療機関との関わり
緋色は精神科(篠原先生)を受診しているが、十分なケアや共感は得られていない。
診察室のやりとりは冷淡で患者の心情を理解しておらず、むしろプレッシャーや自己否定を強めている。
医療側の支援不足が、患者の孤立感・絶望感を加速させてしまっている構図。
3. 自死について
作中で明確な死の描写は控えめにされているが、最終的に主人公が自死したことは示唆されている。
自殺は精神疾患の重篤な合併症のひとつであり、社会的支援の欠如や孤立が背景にあることが多い。
精神疾患患者の自死防止には、医療的ケア、家族・周囲の理解、社会的支援が不可欠。
4. 猫との関係性の医学的視点
ペットや動物との触れ合いは、心理的安定感や癒しを与える効果があることが知られている。
緋色にとってミケは無条件の癒しの対象であり、猫の不在は彼女の精神状態の悪化を象徴。
動物の喪失が患者の精神的危機を促進する例は臨床的にも知られている。
5. SNS相談について
SNSを通じた相談は、精神的に孤立した人が匿名で悩みを打ち明ける手段として近年増加している。
オンラインのやりとりは心理的支えになるが、物理的な支援や医療介入とは異なり、限界もある。
作中でのラベンダーは心理的支え役だが、結局は限界を感じていることもリアルな描写。
6. 精神疾患への偏見・社会的問題
篠原先生の言葉は、精神疾患患者に対する偏見や誤解を象徴している。
実際に精神医療現場では、患者の苦しみや回復意欲を適切に評価できない場合があり、それが患者の絶望感を助長することがある。
社会全体の理解と医療者の意識改革が必要とされる現代的課題を反映。
【1. 緋色ひいろ希】※主人公
立場:高校生・主人公
性格:
内向的で感受性が強い
「愛せない自分」に苦しみ続けている
自分の価値を極端に低く見積もってしまう
特徴:
精神疾患を抱えている(具体名は明示されていないが、鬱症状に近い)
他人と関わることに罪悪感を持ちやすい
猫のミケに心を癒されていた
役割:
物語の主軸となる「壊れている自分と、愛せない罪」の象徴
周囲の“愛”に応えられず、最終的に自ら命を絶つ
象徴:不在の愛・自己否定・喪失感
【2. 朱音あかね 類るい】
立場:緋色の恋人(同級生)
性格:
温厚で不器用、誠実
口数は多くないが、感情を強く持っている
緋色を本気で想っているが、その“重さ”がすれ違いの一因となってしまう
特徴:
創作活動をしており、小説を投稿している
緋色の心に寄り添いたいと思っているが、結果的に彼女を追い詰めてしまう
役割:
緋色が「愛せなかった存在」
本当は彼女を助けたいと思っていたが、救いきれなかった“もうひとつの被害者”
象徴:届かなかった愛・支えたかった存在
【3. ラベンダー】
立場:SNS上での相談相手(後に実際に会っている)
性格:
やさしく、共感力が高い
相手の立場に寄り添う言葉を選べる
少しだけ臆病だが、行動力も持っている
特徴:
ハンドルネームは「ラベンダー」
緋色とは深夜のメッセージのやりとりが多かった
最後に緋色の家を訪れ、彼女の死を知る
役割:
緋色の“最後の支え”だった存在
読者の視点に最も近いポジションで、エピローグを語る
象徴:やさしい共感・届かなかった手・生者としての証言者
【4. 篠原先生】
立場:緋色の通院先の精神科医
性格:
冷淡・ドライ・事務的
患者の内面に寄り添う気持ちがほとんどない
特徴:
緋色に「君は治る気があるのか?」と突き放す
最後には「普通の子ならもっと上手くやれる」と発言し、決定的な絶望を与える
役割:
社会的支援の“不在”を象徴する存在
緋色が自己否定を深める大きな原因のひとつ
象徴:医療の冷たさ・社会的理解の欠如
【5. ミケ】
立場:学校の裏庭にいた三毛猫
性格:
無言でそばにいてくれる存在
緋色の心のよりどころ
特徴:
名前は勝手に緋色がつけたもの(実際には名前はない)
緋色の心の空白を一時的に埋めていたが、事故死(暗示)によって姿を消す
役割:
条件付きの人間関係では得られなかった“無条件の癒し
喪失によって、緋色の心が限界を迎える
象徴:癒し・無垢な存在・失われるもの
追章 ラベンダーの花が咲く
ラベンダー及び、紅 香は、今回の経験から精神科医になることを決めた。
一人でも多くの人を救うために。
「私は、もう君のように苦しむ人を見過ごしたくない――」
あの日、君の家の前で立ち尽くした時の気持ちが、今でも鮮明に胸に残っている。
あの甘い香りは、苦しみの記憶と共に、新たな希望の花となって心に咲いている。
これからは医師として、苦しい誰かの心に寄り添い、手を差し伸べていく。
君のことは忘れない。君の命は無駄じゃなかった。
そしていつか、ラベンダーの花が満開になるその日まで、私は歩き続ける。
作者から
読んでいただき、ありがとうございました。
今回、初めてバッドエンド形式の作品を書きました。うまくできたかはわかりませんが、重めのテーマに挑戦し、それなりに雰囲気は出せたのではないかと思っています。
感想やご意見をいただけたら嬉しいです。ありがとうございました。




