第8話丨旅立ちの港
修行開始から、2年の歳月が流れた。
ノエルは、13歳になろうかという歳だ。その体つきは、かつての少年らしい華奢さを脱し、厳しい修行によって引き締まっている。身長も伸び、その顔つきには、年齢にそぐわない精悍さが宿っていた。
ゼファーと共に、アシュタロテ大陸を横断する旅は、ノエルを心身ともに大きく成長させた。魔力操作の精度、剣技のキレは、2年前とは比べ物にならない。
そして、二人はついに、アシュタロテ大陸最大の港町、ポルト・フィオーレに到着した。
潮の香りと、魚介を焼く香ばしい匂い。様々な人種の言葉が飛び交う喧騒。町の南には巨大な闘技場が見えた。巨大な帆船が何隻も停泊し、屈強な船乗りたちが荷を運び入れている。リーフェン村の穏やかさとは全く違う、生命力に満ち溢れた光景に、ノエルは圧倒されていた。
「すげえ……これが、港町……」
「うむ。ここから船に乗れば、数週間でアーテナ大陸に着くじゃろう。だが、油断するな。こういう活気のある場所には、光も影も、両方が渦巻いておるからの」
ゼファーは、手際よくアーテナ大陸へ渡るための船を手配した。
出航は、明日の早朝。その夜、二人は港の見える宿屋で、旅の最後の夜を過ごしていた。窓の外では、港の灯りが水面に揺れ、幻想的な光景を作り出している。
「ノエルよ」
窓の外の夜景を眺めていたノエルに、ゼファーが静かに問いかけた。
「お主にとって、強さとは何じゃ?」
それは、この2年間の修行の、最後の問いかけだった。
ノエルは、一度目を閉じ、これまでの旅路を振り返った。父と母の顔、エリスの笑顔、そして、己の内に眠る混沌の力。
「……昔の俺は、ただ生き抜くために、誰よりも強くなりたかった。でも、今は違う」
ノエルは、迷いなく答えた。
「仲間を、大切な人を、守り抜くための力だ。どんな理不尽からも、どんな強大な敵からも、この手で守り抜く。それが、俺の求める強さだ」
その答えに、ゼファーは満足げに頷いた。
「よろしい。その言葉、決して忘れるな。アーテナ大陸は、ここよりも遥かに危険な場所じゃ。帝国、そして、お主がこれから対峙するであろう強敵たち……お主の覚悟が、何度も試されることになるじゃろう」
「ああ、わかってる」
ノエルの瞳には、もはや迷いはなかった。
明日、この港を立てば、エリスを巡る戦いが本格的に始まる。2年間の修練の刻を経て、少年は、戦士の顔つきになっていた。
♦
どこまでも続く紺碧の海と、それを映すかのように澄み渡った空。アシュタロテ大陸を出航してから、すでに二週間が経過していた。リーフェン村ののどかな風景とは全く違う、遮るもののない雄大な景色が、ノエルの眼前に広がっている。
船の甲板で、ノエルはゼファーとの修行を続けていた。潮風が彼の黒髪を揺らし、太陽の光がその額に浮かんだ汗をきらめかせている。この二年間の過酷な修行は、彼の肉体だけでなく、精神をも大きく成長させていた。少年らしい華奢さは消え、その体つきはしなやかな鋼のように引き締まっている。
「まだまだ、動きが硬い!波の揺れ、風の流れ、その全てを感じ、己の力とするのじゃ!」
ゼファーの檄が飛ぶ。ノエルは、揺れる甲板の上で、体幹を意識しながら剣を振るう。以前のように力任せに振るうのではない。足の裏で船の揺れを吸収し、それを力に変えて、剣先へと伝える。魔力の流れも、以前とは比べ物にならないほど滑らかになっていた。
だが、その胸の内には、エリスを救い出すという固い決意と共に、己の内に眠る混沌の力への、拭いきれない不安が同居していた。グリフォンとの戦いで暴走した、あの黒い雷。あれは、紛れもなく自分の力の一部だった。だが、今の自分に、あの力を完全に制御できる自信はない。
(あの力は、あまりに危険すぎる……。だが、エリスを救うためには、あの力さえも使いこなさなければならない時が来るかもしれない)
そんなノエルの心の揺らぎを見透かしたかのように、ゼファーはふと、修行の手を止めた。
「少し、休むか。……お主の焦りはわかる。じゃが、焦りは禁物じゃ。心を乱せば、技もまた乱れる」
ゼファーは、手すりに寄りかかり、遠くに見える水平線を眺めながら、静かに語り始めた。
「じいさん、エリスは本当にアーテナ大陸にいるのか?世界はこんなに広いのに……」
ノエルの問いに、ゼファーは厳しい表情で頷いた。
「確証はない。じゃが、ガルニア帝国のやり方を考えれば、行き先は自ずと絞られてくる。お主の話によれば、そのエリスという娘は、稀有な『精霊魔法』の使い手だそうじゃな。もしそれが真実ならば、奴らが送る場所は一つしか思い浮かばん」
「一つ……?」
「『アルカディア要塞』じゃ。帝国の非道な実験が行われておると噂の、あの監獄要塞に、エリスはおる可能性が一番高い。エリスほどの才能を持つ者を、ただ牢に繋いでおくなど、奴らがするはずがなかろう。十中八九、その力を研究し、兵器として利用するつもりじゃろうな」
(実験材料だと……?ふざけるな……!)
ゼファーの推測に、ノエルの腹の底から、黒い怒りが込み上げてくる。
「だからこそ、我々はアーテナ大陸へ向かうのじゃ。これから足を踏み入れる地は、アシュタロテ大陸とは全く違う。帝国は、近年さらに苛烈さを増しておる。逆らう者は容赦なく潰し、力のある者は、本人の意思に関わらず、兵士として徴用する。まさしく、エリスのようにな」
「……許せない」
ぽつりと、ノエルの口から言葉が漏れた。それは、抑えきれない怒りの声だった。
「その怒り、忘れるな。じゃが、それに飲まれるな。それこそが、お主がこれから挑む、本当の戦いじゃ」
ゼファーは、ノエルの肩をぽんと叩いた。その目は、どこまでも優しく、そして厳しかった。
船は、アーテナ大陸へ向けて、着実に進んでいく。ノエルの新たな戦いは、もう目前に迫っていた。
♦
数週間の船旅の末、ノエルとゼファーはついにアーテナ大陸の港町、リンドブルムに到着した。
船が港に着くと、ノエルはまずその巨大さに圧倒された。天を突くかのような巨大な城壁が、街全体をぐるりと囲んでいる。城壁の上には、等間隔に監視塔が設置され、武装した兵士たちの姿が見えた。アシュタロテ大陸のポルト・フィオーレとは比べ物にならない、まさに軍事要塞と呼ぶにふさわしい威容だった。
街に一歩足を踏み入れると、そこには活気と、そしてそれ以上に、張り詰めた緊張感が満ちていた。石畳の道を行き交う人々は、商人、船乗り、冒険者と様々だが、誰もが警戒を怠らず、その目にはどこか疲労の色が浮かんでいる。そして何より、街の至る所に、ガルニア帝国の紋章を掲げた兵士たちが闊歩し、鋭い視線で民衆を監視していた。
「……すごいな。これが、帝国の街か」
「うむ。ここは帝国の玄関口であり、最前線基地でもある。常に、外敵と、そして内なる敵に備えておるのじゃ」
ゼファーの言葉に、ノエルは改めて気を引き締める。リーフェン村ののどかな風景とは全く違う、常に死と隣り合わせの空気が、ここにはあった。
二人はまず、情報収集のために冒険者ギルドへと向かった。ギルドは、港に面した一等地にあり、その建物もレンガ造りの重厚なものだった。
中に入ると、そこは昼間だというのに薄暗く、酒と汗の匂いが入り混じった熱気が立ち込めていた。壁には、モンスターの討伐依頼や、護衛任務の依頼書が所狭しと貼られている。屈強な冒険者たちが、エールを飲みながら、あるいは武具の手入れをしながら、それぞれの時間を過ごしていた。
「ようこそ、冒険者ギルドへ。ご用件は?」
カウンターの向こうから、快活そうな女性職員が声をかけてきた。ノエルは、ひとまず冒険者としての登録を済ませることにした。冒険者ギルドへ登録すると、入国税の免除の他にも宿屋、飲食の割引サービスを受けられる店もあるらしい。
それに、身分を偽る必要はない。むしろ、冒険者という立場は街で情報を集める上で都合が良かった。
登録を済ませ、ギルドの片隅にあるテーブルにつくと、ノエルは周囲の冒険者たちの会話に注意深く耳を澄ませた。
「また帝国の連中が、税を上げやがった。これじゃ、生活できねえよ」
「静かにしろ。壁に耳あり、だぜ。帝国に逆らって、消された奴らの話を知らねえわけじゃあるまい」
「ちくしょう……。いつまでこんな生活が続くんだ……」
聞こえてくるのは、帝国の圧政に対する不満と、諦めの声ばかり。この街の人々は、帝国の支配に苦しめられている。その現実が、ノエルの胸に重くのしかかった。
(エリスも、こんな奴らに……)
拳を握りしめるノエルに、ゼファーが静かに声をかけた。
「焦るな、ノエル。まずは、敵を知ることじゃ。帝国がいかに強大で、いかにこの地を支配しているか。それを、その目で、その耳で、しっかりと確かめるんじゃ」
ゼファーの言葉に、ノエルははっと我に返る。そうだ、感情的になっては、前回の二の舞だ。冷静に、慎重に、そして確実に、エリスを救い出すための道を探らなければならない。
ノエルは、ギルドの依頼書を眺めながら、この無法の街で、自分たちがこれから何をすべきか、思考を巡らせ始めた。アーテナ大陸での戦いは、まだ始まったばかりだった。
♦
冒険者ギルドでの登録を終えたノエルとゼファーは、ギルドに併設された酒場で、遅い昼食をとることにした。硬い黒パンと、塩気の強い干し肉のスープ。決して美味とは言えないが、旅の空腹を満たすには十分だった。
酒場の中は、様々な冒険者たちの熱気で満ちている。ドワーフの鍛冶師が自慢の斧の切れ味を語り、獣人族の斥候が森の奥で見つけたという珍しい薬草の情報を売り込み、エルフの魔術師が古代遺跡の謎について仲間と議論を交わしている。その光景は、一見すると活気に満ち溢れているように見えた。
だが、ノエルは、その喧騒の裏に潜む、重苦しい空気を感じ取っていた。帝国兵が酒場に入ってくるたびに、冒険者たちの会話が途切れ、一瞬の静寂が訪れる。誰もが、帝国兵の動向を、息を殺して窺っているのだ。
「じいさん、この街は息苦しいな」
「うむ。帝国の支配は、人々の心まで縛り付けておるようじゃな」
ゼファーと小声で話しながら、ノエルは隣のテーブルの男たちの会話に耳を澄ませた。彼らは、声を潜め、周囲を警戒しながら、何やら深刻な顔で話し込んでいる。
「聞いたか?『暁の翼』が、また帝国の輸送部隊を襲ったらしいぜ」
「本当かよ!あいつら、命知らずにもほどがある。だが、よくやった!」
「おかげで、俺たちへの見張りも、ますます厳しくなってる。まったく、迷惑な話だ」
「そう言うなよ。誰かがやらなきゃ、俺たちは一生、帝国の奴隷のままだぜ」
『暁の翼』――それは、帝国の圧政に抵抗する、レジスタンス組織の名前だった。彼らの活動は、帝国に虐げられる人々にとって、一筋の希望の光であると同時に、さらなる弾圧の火種にもなっているようだった。
(レジスタンス……か)
前世でも、似たような組織はいくつも見てきた。そのほとんどが、理想を掲げながらも、強大な力の前に潰されていく。この『暁の翼』も、同じ運命を辿るのだろうか。
ノエルは、意を決して、隣のテーブルの男たちに声をかけた。
「すまない、少し聞きたいんだが」
突然声をかけられ、男たちは一瞬、身構えた。だが、ノエルがまだ幼い少年であること、そしてその後ろにいるゼファーがただの好々爺にしか見えないことから、少しだけ警戒を解いたようだった。
「なんだ、坊主。ガキはあっちで遊んでな」
「アルカディア要塞について、何か知らないか?」
ノエルがその名を口にした瞬間、酒場全体の空気が、凍りついた。
さっきまで騒がしかった冒険者たちの会話がぴたりと止み、全ての視線がノエルたちに突き刺さる。それは、恐怖、憐れみ、そして好奇の入り混じった、複雑な視線だった。
声をかけた男は、顔を真っ青にして、慌ててノエルの口を塞ごうとした。
「ば、馬鹿野郎!その名前を、こんな場所で軽々しく口にするんじゃねえ!」
「なぜだ?何か問題でも?」
「問題だらけだ、この馬鹿たれが!あそこは、帝国の闇そのものだ。入った者は二度と生きては戻れんと言われる、地獄の監獄なんだよ!お前ら、まさかあそこに行くつもりじゃ……」
男の言葉から、アルカディア要塞が、ただの監獄ではない、人々にとって絶対的な恐怖の象徴であることが、ひしひしと伝わってきた。
エリスは、そんな場所に囚われているのか。その事実に、ノエルの胸に、再び黒い怒りの炎が燃え上がろうとしていた。
酒場の空気が、最悪の状態になったその時だった。
ガシャン、と大きな音を立てて、酒場の扉が乱暴に開かれた。入ってきたのは、鎧に身を固めた三人の帝国兵。その胸には、ガルニア帝国の紋章が輝いている。
「おい、てめえら!今日の分の『協力金』はまだか!」
隊長らしき男が、カウンターを拳で叩きながら、威圧的に叫んだ。酒場の主人が、震える手で銅貨の入った袋を差し出す。
「へへっ、ご苦労さん。……ん?」
帝国兵の一人が、隅のテーブルで一人、黙々とエールを飲んでいたドワーフの男に目をつけた。そのドワーフは、屈強な体つきで、見事な髭を蓄えている。腰には、年季の入った戦斧が提げられていた。
「おい、そこのチビ。てめえ、見ねえ顔だな。冒険者か?冒険者なら、金を持ってるだろうなあ?」
下卑た笑いを浮かべながら、帝国兵がドワーフに絡み始める。
「……俺は、あんたらに払う金なんざ、持ち合わせちゃいねえよ」
ドワーフは、帝国兵を一瞥もせずに、ぶっきらぼうに答えた。
「なんだと、この野郎!」
逆上した帝国兵が、ドワーフの胸ぐらを掴もうとした、その瞬間。
「――待ちな」
ノエルが、静かにその間に割って入った。
「なんだ、このガキは。死にてえのか?」
「その人から手を離してもらおうか。あんたたちが探してるのは、俺たちだろ?」
ノエルは、懐から銅貨を数枚取り出すと、それをテーブルの上に放った。
「これで足りるか?足りないなら、もっと出してやってもいい。ただし、あんたが、俺との腕相撲に勝てたら、の話だがな」
ノエルの挑発的な言葉に、帝国兵は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふざけやがって!このガキが、俺様を誰だと思ってやがる!」
帝国兵がノエルに殴りかかろうとした、その腕を、ゼファーがいつの間にか掴んでいた。
「まあまあ、兵隊さん。そうカッカするなさんな。この孫が、無礼を働いたようですまぬ。ここは、ワシの顔に免じて、穏便に……」
にこやかに話すゼファー。だが、その手は、帝国兵の腕を万力のように締め付けており、帝国兵は顔を歪めて呻き声を上げた。
「ぐっ……!て、てめえら、覚えてろよ!」
形勢が悪いと悟ったのか、帝国兵たちは捨て台詞を吐いて、そそくさと酒場から出ていった。
嵐が去った後、ドワーフの男が、ノエルたちに深々と頭を下げた。
「助かったぜ、坊主、じいさん。俺はボルグ。見ての通り、しがない冒険者だ」
「ノエルだ。こっちは師匠のゼファー」
「礼を言う。この借りは、いつか必ず返す。……あんたたち、さっきアルカディア要塞のことを聞いてたな。あんな場所、一体何のために?」
ボルグの問いに、ノエルは正直に事情を話した。友人が、帝国に連れ去られたこと。そして、彼女を助け出すために、この大陸に来たことを。
話を聞き終えたボルグは、腕を組み、うなった。
「そうか……そりゃあ、大変なことになっちまったな。……よし、決めた!俺も、あんたたちに協力するぜ!」
「いいのか?」
「おうよ!俺も、帝国のやり方は、ずっと気に食わなかったんでな。それに、借りを返す、いい機会だ。実はな、俺は昔、商人として、アルカディア要塞に物資を運んだことがある。だから、あそこの内部構造や、警備体制については、少しばかり詳しいんだ」
ボルグの言葉は、ノエルにとって、まさに地獄に仏だった。
こうして、ノエルとゼファーは、ボルグという頼もしい協力者を得て、アルカディア要塞への潜入計画を、本格的に始動させることになった。
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