第5話丨アヴァロンでの日々
襲撃事件から数週間後。リヒトは、『Eidolos』の正式な協力者として、組織の中枢に関わるようになっていた。
その日、二人はアヴァロンの最上階にあるという、組織のトップ、アークス・レオンの執務室へと呼び出された。
案内されたのは、壁も天井も、そして床さえもが漆黒の素材で覆われた、異様な空間だった。広大な部屋の中央に、巨大なデスクが一つだけ置かれている。その静けさは、リヒトに底知れぬ圧迫感を与えた。騎士としての直感が、この部屋の主が規格外の存在であることを告げている。
やがて、デスクの向こう側の空間が、陽炎のように揺らめいた。何の前触れもなく、そこに一人の男が立っていた。
身長は2メートル近くあろうかという巨躯。ラフなシャツから覗く腕は、鋼のように鍛え上げられている。その男――アークス・レオンは、まるで近所の兄貴分のような、人懐っこい笑みを浮かべていた。
「よう、二人とも。先日の働き、見事だったぜ。堅い挨拶は抜きだ。そこに座れよ」
アークスの言葉に促され、二人が椅子に腰かけると、彼は指を軽く鳴らした。すると、何もない空間に、立体的な映像が浮かび上がる。それは、次元の亀裂を観測した際の記録映像で、そこには、ガルニア帝国の紋章旗が、はっきりと映っていた。
「……これは!」
リヒトは息を呑む。故郷の旗が、なぜこの世界に。
「お前の故郷と、この世界は、既につながり始めている。そしてそれは、あの嬢ちゃんの兄貴……ヨウの失踪と無関係じゃないだろう」
アークスは、楽しそうに口の端を吊り上げながら、世界の真実の一端を語り始めた。
『Eidolos』の真の目的。神の存在。そして、二つの世界に跨る、壮大な計画。
「俺たちの目的は、神の討伐と、人間による世界の創造だ。そのためには、二つの世界を繋ぐ鍵となる存在……『双星』の力が必要になる」
その言葉に、リヒトの背筋を悪寒が走る。アルクライド家に、おとぎ話として伝わる、「双星の伝説」。それが、この世界の運命をも左右するというのか。
「ヨウは、その片割れである可能性が高い。そして、リヒト、お前もな」
アークスは、ただそこにいるだけだった。だが、彼の存在そのものが放つ威圧感は、リヒトがこれまで対峙してきたどんな強者とも、次元が違っていた。それは、力や技術といった次元の話ではない。世界の理そのものを、掌で転がしているかのような、絶対的な強者の風格。
故郷の危機と、葉の運命が、自らの宿命と交錯していることを知り、リヒトはこの世界で戦うことを、改めて決意した。彼の隣には、同じく真実を求める麗華が、固い決意の表情で立っていた。
リヒトは、『Eidolos』の正式な協力者として、組織から個室と、任務に必要な機材を与えられていた。
その日、アークスから最初の任務が下された。
「――新宿で、新たな次元の歪みが観測された。規模は小さいが、放置はできん。お前たち二人で、調査に向かってもらう」
指令室の巨大なモニターに、アークスの顔が映し出される。
「俺たち、ですか?」
「そうだ。リヒト、お前には麗華とコンビを組んで実戦経験を積んでもらう。もちろん、監視役として、シエラも同行させるがな。麗華には現地付近のデータ収集と、後方支援を頼む」
初めての、本格的な任務。リヒトは、騎士としての血が騒ぐのを感じると同時に、魔素の薄いこの世界で、自分がどこまで戦えるのか、一抹の不安を覚えていた。
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任務に備え、リヒトは麗華に連れられて、アヴァロン内の商業区にある衣料品店を訪れた。
「鎧のままじゃ目立ちすぎますからね。こちらの世界では、普段こういう服を着るのが普通なんです」
麗華が選んでくれたのは、黒のジャケットと、シンプルなデザインのパンツだった。リヒトは、慣れない服装に戸惑いながらも、鏡に映る自分の姿を見て、少しだけ、この世界に溶け込めたような気がした。
「……どうだろうか?」
「はい、とてもお似合いです。騎士様、というよりは、モデルさんみたい」
『モデル』と言う聞き慣れない単語はあったが、褒められている事にリヒトは思わず顔を赤らめる。
彼女は、そんなリヒトの様子を見て、くすくすと笑った。兄を失った悲しみを抱えながらも、彼女は、気丈に前を向こうとしていた。その姿に、リヒトは、妹のように愛おしい感情を抱き始めていた。
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任務当日。リヒト、シエラ、麗華の三人は、アヴァロンから高速艇で東京へと向かう。海を滑るように進む船から見える、高層ビル群。故郷のどの都市よりも高く、そして無機質な建物が、空を覆い尽くしている。
「すごい……これがこの世界の都市か……」
リヒトは、その光景に圧倒され、言葉を失った。
「綺麗だと思う?それとも、醜いと思う?」
彼の隣で、シエラが静かに呟いた。
「……わからない。だが、俺の故郷とは、あまりにも違う」
「私はあまり好きではないです。……田舎暮らしだったからですかね」
「私の世界ではこのような大きな建物は王城くらいだが、それよりも大きな建物がいくつもある。どの建物にこの国の王が?」
「……ぷっ、リヒトさん、あの建物には王様はいませんよ」
リヒトの言葉に麗華は思わず吹き出してしまう。まだこの世界に来たばかりの騎士に失礼と思いつつ突然の言葉に抑えが効かなかった。
「なっ、そうなのか……」
二人の間に、少しずつパートナーとしての信頼関係が築かれ始めているのを、シエラは監視官としてただ黙って見守っていた。
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新宿の街は、ネオンの光と、無数の人々で溢れかえっていた。
リヒトは、その喧騒と、情報の洪水に、眩暈さえ覚えていた。
「すごい人の数だ……。これでは、歪みの中心地を探すのも一苦労だな」
『大丈夫です。私の『目』があれば』
麗華は、自信ありげに微笑むと、スマートフォンの画面を操作した。彼女が独自に開発したアプリが、微弱な次元の歪みを検知し、その発生源を特定していく。
『……見つけました。再開発地区の、あの廃ビルです』
麗華が指差した先には、周囲の高層ビルとは対照的に、暗く、静まり返った古いビルがそびえ立っていた。
三人は、人混みを抜け、廃ビルへと向かう。
ビル内部は、埃っぽく、不気味なほど静かだった。だが、リヒトの騎士としての直感が、内部に潜む邪悪な気配を捉えていた。
「……来るぞ!」
リヒトが叫んだ瞬間、暗闇の中から、数体の異形の影が飛び出してきた。
小さな体に、蝙蝠のような翼を持つ、低級悪魔「インプ」。そして、地獄の番犬と恐れられる、「ヘルハウンド」。
「低級とは言え、この世界にも悪魔がいるとは…」
リヒトは事前に聞かされていたが、それでもこの世界にも自分の世界と同じ脅威が出現する実感を今感じていた。少しだけこの世界に親近感のようなものを抱く。
「シエラ殿は右翼を!俺が左翼を抑える!」
「指図しないで」
シエラは、そう言いながらも、神速の動きでインプの群れに突っ込んでいく。その剣閃は、青い軌跡を描き、インプたちを次々と切り裂いていく。
リヒトもまた、ヘルハウンドの鋭い牙を、長剣で受け止める。魔素が使えないため、聖なる光を纏わせることはできない。だが、純粋な剣技と、長年の経験で培った戦術眼が、彼の戦いを支えていた。
『リヒトさん、後ろ!もう一体います!』
インカムから、麗華の鋭い声が飛んでくる。彼女は、上空に飛ばした小型ドローンからの映像で、戦場の全てを把握していたのだ。リヒトは、麗華の指示に従い、振り返りざまに剣を振るう。死角から襲いかかってきたヘルハウンドの喉を、的確に貫いた。
リヒトの剣技、シエラの神速、そして麗華の頭脳。
三人の力が一つになった時、それは、個々の力を遥かに凌駕する、強力な連携となった。悪魔たちは、なすすべもなく、一体、また一体と、その数を減らしていく。
戦いは、激しさを増していった。
次元の亀裂からは、次から次へと悪魔たちが溢れ出してくる。
「キリがない……!麗華君、歪みの発生源は特定できたか!?」
「解析中です!もう少し時間をください!」
リヒトとシエラは、背中を合わせ、絶え間なく襲いかかってくる悪魔たちを迎え撃つ。
最初は、ぎこちなかった二人の連携も、死線を共に潜る中で、次第に洗練されていった。シエラが敵の陣形を切り裂き、リヒトがその隙を突いて、一体ずつ確実に仕留めていく。
「リヒト、あなたの剣、なかなか面白いわね。力に頼らず、技で敵を制する。私の剣とは、また違う」
「シエラ殿の速さこそ、驚異的だ。目で追うのがやっとだ」
互いの実力を認め合う言葉。それは、二人の間に、確かな信頼が芽生え始めている証だった。
この戦いを通じて、リヒトは、現世での戦い方を学んでいた。魔素に頼らず、純粋な技量と戦術、そして、仲間との連携で戦うこと。それは、彼にとって、新たな活路を見出すための、重要な経験となっていた。
「見えました!歪みの中心は、最上階です!そこに、親玉がいるはずです!」
麗華からの報告を受け、三人は、ビルの最上階を目指して、階段を駆け上がった。この戦いは、ただのモンスター討伐ではない。二つの世界を繋ぐ、歪みの謎を解き明かすための、重要な一歩なのだ。
リヒトは、故郷への想いと、新たに出会った仲間たちへの想いを胸に、固く剣を握りしめた。
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新宿の夜景を一望できるはずの最上階は、不気味な静寂と、死んだような闇に支配されていた。割れた窓から吹き込む風が、埃とカビの臭いを運び、壁一面に描かれた色褪せたグラフィティを不気味に揺らす。床にはガラスの破片が散乱し、リヒトたちの足音だけがやけに大きく響いた。
「……見えました!歪みの中心は、このフロアのど真ん中です!」
インカムから届く麗華の声が、張り詰めた空気を震わせる。彼女の言葉を証明するように、フロアの中央の空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪んでいた。それはただの空間の歪みではない。空間そのものが断末魔の悲鳴を上げているかのような、禍々しい紫色の亀裂。そこからは、オゾンと腐臭が混じったような異臭が漂い、肌を針で刺すような邪悪な気が絶え間なく溢れ出していた。
「な、なんだ……このプレッシャーは……!」
リヒトは、全身を襲う凄まじい威圧感に、思わず膝をつきそうになる。王級の騎士である彼が、鍛え上げた精神力をもってしても、立っているのがやっとだった。呼吸は浅くなり、背中には冷たい汗が幾筋も伝う。隣に立つシエラも、普段のクールな表情を崩し、翠の瞳に明確な緊張を走らせていた。彼女ほどの強者でさえ、この異常事態には息を呑んでいる。
その時、不意に、禍々しく渦巻いていた亀裂がぴたりと静止した。
静寂。
そして、亀裂の奥から、コツリ、と硬質な足音が響いた。
ゆっくりと、闇の中から一人の人影が姿を現す。
全身を、生物的な曲線を描く漆黒の鎧で覆い、顔には、鬼を模したかのような、冷たい光沢を放つ仮面がつけられている。その両目は、底なしの暗闇が口を開けているかのようだ。その手には、闇そのものを凝縮して鍛え上げたかのような、長大な太刀が握られていた。ただそこにいるだけで、周囲の闇を一層深くし、空間そのものを支配している。
「……誰だ」
シエラが、震える声で呟いた。組織の最重要警戒対象の一人。その正体、目的、能力、その全てが謎に包まれた存在。彼女の口から漏れた言葉には、これまでにない警戒の色が滲んでいた。
男は、リヒトを一瞥した。値踏みするような、無機質な視線。仮面の奥から、地獄の底から響くような、それでいて静かな声が放たれた。
「……ほう。白き月の気配か。だが、まだ熟れておらぬな」
その言葉の意味を、リヒトは理解できなかった。だが、眼の前の人物が自分に興味を失ったことだけは、肌で感じ取れた。それは、虫けらを見る目でも、敵を見る目でもない。ただの、道端の石ころを見るような、完全なる無関心。リヒトがこれまで受けてきたどんな侮辱よりも、彼の騎士としての誇りを根底から揺さぶるものだった。
剣を抜け。戦え。
頭ではそう命じているのに、身体が鉛のように重く、動かない。殺意を向けようものなら、全身の血が瞬時に凍りつくような、絶対的な恐怖が本能を支配する。
謎の人物は、もはやリヒトたちに何の興味も示さず、背を向けた。そして、揺らめく次元の歪みの奥へと、その身をゆっくりと沈めていく。まるで、初めから何もなかったかのように。
圧倒的な存在感を前に、リヒトもシエラも、ただ立ち尽くすことしかできなかった。それは、戦う以前の、絶対的な格の違いだった。
謎の人物が完全に姿を消し、禍々しい次元の亀裂が音もなく閉じた後、フロアには再び静寂が戻った。だが、先程までの静寂とは違う、死よりも深い虚無が満ちていた。
彼が立っていた場所に、カラン、と乾いた音を立てて、一枚の黒い金属片だけが残されていた。表面には、誰も見たことのない、奇妙な紋様が刻まれている。
「……一体、何者なんだ……」
リヒトは、ただ呆然と、男が消えた空間を見つめることしかできなかった。初めて直面した、この世界の、本当の脅威。その絶望的なまでの力は、リヒトの心に、深い無力感と、そして、それを乗り越えようとする、新たな決意の炎を燻らせた。
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