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9 Cancer

Cancer・・・蟹座

(・・・図に乗ってんじゃねぇの)

 結婚式なんて、上げさせてやらなくても良かった。

 真は腹違いの兄の近頃の様子を見て、心の中で毒づいた。


 晴れて夫婦となった博と空だが、空の方は以前と全く変わらないのに対して、博の方は今まで以上に開けっぴろげの愛情表現を周囲に晒している。

 今までも、彼女を失うかもしれないような状況が解決した後は、後遺症のように片時も傍から離したがらない様子はあったが、今はそれ以上の状態だ。

(釣った魚に餌はやらない、っつうのもダメ男だけど、ベタベタに可愛がるのもなぁ・・・)

 見ているこちらが、胸やけを起こしそうだ。籍を入れて世間的にも自分の妻だと認められたことで、今までそれなりにあった自制心というタガが外れたのかもしれない。

 仕事中にも関わらずPCに向かう空の隣にべったりと張り付いて、両手は必ず彼女のどこかに触れた状態で耳元に何かを囁いている。

 彼の方の仕事は、一応自分のPCを近くに置いているが、眼が見えないので全て音声操作になる。つまり、耳と口だけあればこなせるのだ。仕事と自分の欲望を見事に両立させているのは凄いと思うが、寧ろ空の方が気の毒にさえなってくる。

「・・・あの・・・すみませんが、少し距離をとってもよろしいでしょうか?仕事の効率が・・・」

 とうとう、彼女の方から言い出すようになってしまっていた。


 けれど、そんな博でも席を立たねばならない時もある。後ろ髪を引かれるように彼が部屋から出てゆくと、待ってましたとばかりにジーナがリビングスペースの隅に空を引っ張ってゆく。

「空を入籍させたこと、後悔してるわ。何よアイツ。完全に自分の所有物みたいにしてて」

 ジーナは憤まんやるかたない、といった様子だ。そして空に向かって真面目な顔で問いかける。

「まさかと思うけど、アイツは夜も好き勝手にやりたい放題してるんじゃないでしょうね?」

 新婚夫婦の夜の営みについて何やらとんでもない質問をするジーナだが、彼女以外にこんな事を聞いてくるような人間はここにはいないだろう。

「何だがアイツの方は、肌も色艶がいいし若返ってるみたいだけど・・・」

 空の方も決して不健康な感じはしないし、寧ろ肌は透き通るような色と艶はあるのだがそれでも心配になってしまう。彼がそちらの方面でも情熱的であることを、ジーナは何となく解っている。だからこそ最初は彼に惚れたのだから。


「・・・・好き勝手にやりたい放題・・・ですか?・・・例えば、どんな?」

 空としては、どのような事がそれにあたるのかがよく解っていない。ジーナは溜息をついて、耳元でコショコショと囁いた。

「・・・・とか・・・みたいなの・・・」

 それを聞いた空は、あっさりと答えた。

「そういうのは、入籍前もありましたので・・・いつも、というわけではありませんが」

「えええっ!」

(何それ!そんな羨まし・・・じゃなくて!)

 楽しそうとか。面白そうとか。つい思ってしまったのはジーナだからだろう。

「・・・ま、まぁ・・・空がツラくないならイイんだけど・・・」

 そこに博が、そそくさと戻って来たので話は中断された。

「空、そろそろランチに行きましょう」

 ジーナなど目に入っていない様子に、流石の彼女もムッとして呟いた。

「どうぞ、いってらっしゃい。・・・この色ボケ変態親父・・・」


 メインルームを出て食堂に向かう途中、空は胃の辺りに手を置いて僅かに眉を顰めた。

「どうしました?」

「いえ、ちょっと・・・胃の調子が良くないみたいです。朝、食べ過ぎたのでしょうか・・・」

「大丈夫ですか?何か、消化の良いものを花さんに頼みましょう」

 けれど食堂内に入ると、空は急に口元を手で覆ってしまう。

「空?」

「・・・すみません・・・匂いが・・・感覚制御します」

 食堂の中は花さんが腕を振るった様々な料理の良い匂いが漂っているが、何故か今日に限ってそれが鼻につく空だ。博は彼女を座らせると、花さんに頼んで用意して貰ったお粥を運んできた。

「急だったので、お粥は用意できたけど乗せるものが梅干ししか無いそうです。食べられますか?」

 空はレンゲの先で梅干しをほぐし、少量を取ってふぅふぅと冷ました。

 そしてひと口食べて、笑顔になる。

「・・・美味しいです」

 そしてあっさりと全て食べ終えると、少し恥ずかしそうに告げた。

「食べたら胃の方も治ったみたいです。空腹過ぎたのでしょうか」

 そんな彼女に安心して、博は午後の用事に空を伴うことにする。行き先は警視庁だった。


 わざわざ赴かなくても構わない程度の用事だが、博は他所の誰かに結婚の報告をしたかったのだ。相手に選ばれたのは、橋本警部補だった。

「おお!それはおめでとうございます。いやぁ、おめでたいニュースは、何時聞いても気分が明るくなります。今ちょっと、面倒くさそうな事件がありましてね」

 祝福の言葉を貰って嬉しくなる博だが、警部補の言葉に興味を持った。

「何があったのですか?差し支えなければ、聞かせてもらえませんか」

 警部補は、手元のノートパソコンを引き寄せ、画面を表示しながら説明を始めた。


 生物学者が大学の研究室で殺害された事件で、ダイイング・メッセージが残されていた。

「カニ ✕」と床に血で残された文字。

 被害者は比較形態学の教授で、甲殻類が専門だった。

 容疑者として2人の人物が浮かんだ。

 鱈場と蟹江というそのゼミの学生だった。


「取り敢えずその2人の捜査をしているところですが、ちょっと難航していましてね。このダイイング・メッセージが示しているのがどちらなのかが解れば楽になりそうなんです。どう思われますか?」

 橋本警部補は、ダイイング・メッセージを写した画像を見せながら、博と空に尋ねた。


「これだけでは、ただの推理遊びのようになってしまいますが・・・この✕が『~では無い』という意味なら、カニでは無い方の人物を指しているのかもしれません。空、どう思いますか?」

 博は傍に立つ自分の妻に笑顔を向けながら尋ねた。

「・・・カニという漢字が入っているのは蟹江の方ですね。鱈場はタラバガニという甲殻類がいますが、正確にはタラバガニはカニではなく、ヤドカリの仲間になります」

 美味しいカニの代表だが、カニの王様と言われるタラバガニがヤドカリの仲間と聞かされると、何となくその価格に釈然としなくなる。とは言え、そうすると『カニ ✕』というダイイング・メッセージは鱈場を指しているのだろうか。どちらにしても、鱈場と蟹江はそのゼミ生なのだから、甲殻類に関する知識はあるだろう。


 そして空は、最後に疑問を述べた。

「ただ、気になるのは・・・それなら何故、被害者は『タラ』と書かなかったのか、と言う事です」

 わざわざカニと書いて✕を付けるより、その方が楽だし確実だろう。どちらもカタカナなら、書くのにそれ程時間に差はない筈だ。

「ええ、その通りですね。そうすると被害者は、『カニ』とだけ書いたが、後から誰かが✕を書き加えたと考えるのが自然でしょう。殺害した後、部屋を出ようとしてその文字に気づいて引き返し、書き加えたのかもしれません。或いは第1発見者を装って現場に戻って来た時に、そのメッセージを見たのかもしれませんが」

 血で書かれたダイイング・メッセージを、綺麗に拭き取る時間が無かったのかもしれない。

 博と空のそんな会話を聞いていた橋本警部補は、大きく肯いた。

「第一発見者は、蟹江です。ありがとうございます、とりあえず蟹江の方を重点的に捜査をすることにします。これで、随分助かります」

 警部補は頭を下げると、そそくさと部屋を出て行った。


「では、のんびり帰るとしましょうか」

 警視庁の玄関を出た博は、寄り添うように傍に立つ空に声を掛けた。

「・・・はい・・・」

 けれど空は俯いたまま、小さな声で返事をする。

「・・・どうしました?」

「・・・ちょっと・・・」

 空は握手を下腹部に当て、眉を顰めている。

 このところずっと下腹部に違和感があった。軽い腹痛があることもあったが我慢できる範囲内であったし、時間が経てば気にならなくなってので放っておいた。

 けれど、橋本警部補の話が終わったあたりから、違和感がはっきりとした腹痛になり、玄関を出たところで激痛と言えるようなレベルになっている。

「大丈夫ですか?タクシー・・・いえ、救急車を」

「大丈夫です。歩けますし・・・帰ったら、真っすぐに医務室に行きますから」

 でも腕を貸してください、と言いながら空は彼の腕に掴まるように身体を預ける。そんな甘えるような動作に博はそれだけで嬉しくなり、2人はゆっくりと支局に向かって歩き始めた。


 けれど支局ビルに着いてエレベーターに乗り込むときには、空の顔は蒼白になり額に汗を浮かべていて、博の腕にかかる重みが増してくる。

「空?・・・もう着きますから・・・」

 博が心配そうな声を掛けた途端、ふいに血の臭いが漂い、空の身体がズルズルとエレベーターの床に沈んだ。

「空ッ!」

 彼女の身体を支えようと伸ばした腕の中で空は意識を失い、床には大きな血だまりが広がっていた。


 ふみ先生は医務室では処置が難しいと判断し、空はFOI病棟に搬送される。

 博は長い時間廊下で待たされたが、やがて空は病室へ移された。

 何が何だかよく解らないまま、ただ不安で心配でここまで来た博だったが、今回もドクター・ヴィクターの説明を聞いて取り敢えずはホッとした。

 やがて空は、病室のベッドで目を覚ました。見慣れた天井を何度か瞬きして確認すると、傍に付き添う博を見る。

「・・・あの・・・」

 空の声に、彼はその手を握ったまま、悲しそうな顔で告げた。

「何で、黙っていたんですか?」

「・・・え?」

「・・・ですから・・・妊娠していたことを」

「・・・・・・誰が、ですか?」

 エレベーターの中で気を失ったらしいと言う事は解っていたが、何故そうなったのかは解っていないらしい空だ。

「誰って・・・もしかして、自分で解っていなかったんですか?」

「何の話ですか?・・・私は妊娠しません。ご存じでしょう?」

 まだ新米捜査官だった頃、ギャング・レイプに遭った結果、子宮の損傷が酷くて子供は望めないと言われていたのだ。博もその事は良く知っていた。

「子宮外妊娠だったんですよ」


 異所性妊娠とも言うそれは、受精卵が子宮以外の場所に着床する妊娠である。

「君の場合、卵管と子宮の境目辺りに着床していたそうで、卵管破裂を起こして大量出血したんです。失血性ショック死の1歩手前くらいで、危なかったんですよ」

 空は困惑した表情で暫く彼の顔を見つめていたが、やがて納得してゆっくりと口を開いた。

「そうだったんですか・・・ごめんなさい、気付きませんでした」


 幼少期の栄養不良が原因なのかもしれないが、卵巣は発達が悪く排卵の回数が極端に少なかった。しかも子宮の損傷のせいもあって、生理時の経血は極めて微量であり半日程度で終わっている。任務にはとても便利な生理事情だが、こんな状態の身体で妊娠が成立する可能性など無いに等しかった。


 そんな説明を呟くように終えた空は、寂しそうな笑みを浮かべて彼を見る。

「本当に奇跡のような妊娠だったんですね。もっと早く気付いていれば、何とかなったかもしれません。でも・・・まさか・・・」

「ヴィクターの話だと、着床した場所のせいで、正常な発生が出来ていなかったそうです。聞くのが辛いかもしれませんが・・・胎児の形もしていない、細胞塊の状態だったそうです」

「・・・そうですか・・・私は、人の形にもしてあげられなかったんですね」

 母親として、人間の女性として、哺乳類の♀としても、自分は失格なのだろう。

 博は、そんな彼女の頬に優しくキスをすると、先ほど聞いたヴィクター医師の話を伝えた。


 異所性妊娠でも、妊娠である以上、母体への影響は出る。悪阻の症状である吐き気や、臭いに敏感になることや嗜好の変化などだ。博も空も子供が出来ることは無いと思い込んでいたために、そんな変化も体調不良だと思い込んでいた。

 空の場合は、受精卵が正常な発生を行わなかったことで、身体がそれを異物として認識し免疫反応を起こしてもいたようでもある。

 また、痛みに強くある程度コントロール出来ることも、異常の早期発見を妨げたのだろう。卵管が破裂するまで耐えてしまったことが、突然の大量出血という形になったのだ。

「こうなると寧ろ、異常妊娠というより癌細胞の発生に近いかもしれないな」

 それは、ヴィクターなりの慰めの言葉だったのかもしれない。

 子供ではない、胎児でさえない、自分の物ではないただの細胞の塊なのだ、と。


「・・・でも、その細胞塊のDNAは、半分は博の物なんですよね」

 それでも空は、まだ悲しそうに言葉を綴る。

 出来る事なら、彼に子供を与えたかった。

 形として残る、愛の証を渡したかった。

「それはそうなんですけどね・・・でも、僕は子供が欲しいと思ったことは1度も無いんですよ。想像してみると、絶体に嫉妬する自信があるので」

「・・・嫉妬?」

「僕は、危ないくらいに独占欲が強くて、子供を見る君の瞳や授乳する姿を知ったら、その赤ん坊にも嫉妬しますね。その瞳と乳房は僕の物だってね」

 空は、流石に目を丸くした。


「だから、僕は君さえ傍にいればいいんです。それに、子はカスガイとか愛の証なんて言いますけど、子供は別人格でしょう。それで親子共に苦労する場合もある。僕たちはこんな仕事をしていますから、子供の方は親ガチャに外れたと思うかもしれませんしね」

 博が言葉を尽くして慰めようとしていることは、痛いほど解った。

「本当に、子供は欲しくなかったのですか?」

 それでも、念を押すように問いかける空に、博はしっかりと頷いて答えた。

「はい。子供を育てる楽しさは、半年でしたけど、もう充分味わいましたからね」

 第5王妃の事件で、空は心に大きなダメージを負い、数か月もの間幼児退行していた。その間、その世話をずっと傍にいてしてきた博なのである。

 食事をさせ、着替えや入浴をさせ、本を読み聞かせ、一緒に遊ぶ。

 そんな時間を、充分すぎるほど楽しんだ。

「・・・それは・・・本当にお世話をお掛けしました・・・『お父さん、ありがとう』って言った方が良いのでしょうか」

 空は漸く、いつも通りの口調で答えた。


「それにしても、今日は何だか『カニ』に縁がある日ですね」

 少しだけ明るい表情になった空に、博はいつもの笑顔で語りかける。

「・・・カニ、ですか?」

「ええ、カニは英語でcancerですが、癌もcancerじゃないですか。星座の蟹座の神話を知っていますか?

 沼のカニは、親友のヒドラを助けるために強大な敵に挑み、呆気なく潰されたんです。大事な相手のために、無謀ともいえるような行動をしたカニの話です」

 静かな瞳で見つめてくる彼女に、博は暖かい笑顔で続けた。

「君のお腹に宿ったcancerが2人のDNAを持っているなら、そんな話は何だか相応しいと思いませんか?神話のカニは星座になったけれど、僕たちの小さなcancerもきっと小さな星になっていると思いましょう」


 心がほわっと暖かくなるような、彼の少しばかりロマンチックな語りに、けれど空はついポツリと呟いてしまった。

「・・・お腹にカニを飼っていた気分になりました」

 博はそんな、いかにも彼女らしい言葉に安堵する。


 心のどこかで、普通であることに憧れている彼女は、普通の女性として母親になりたかったのかもしれない。望んでも得られないことだと解っていても、頭の中では諦めていることだとしても。

 けれど彼女は、そんな様子は少しも表さず、今の全てを受け入れて生きている。

 それが彼のためならば、これほど幸せなことは無いのだろう。

 だから、ずっと傍で、寄り添って生きる。


「愛していますよ、空」

 博は、そんな想いを込めて、言葉と共にキスを贈った。


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